第25話「服部卓四郎と俺(前編)――一期違いの、同じ秀才」
【前書き】(加瀬俊一より)
私が松谷さんと初めてゆっくり話したのは、昭和十八年四月、重光大臣ご就任の頃だった。
あの方の話を伺いながら、私は不思議な感覚を抱いた。
軍服を着ておられるのに軍人ではなく見える。
頭の中身は霞が関の若手外交官のそれであった。
冷静、客観、データ重視、英米通。
そして同時に、陸軍中央でこの人は孤独だろう、と察した。
あの陸軍という巨大な岩盤の中で、あの頭脳は孤立する以外にないのだ、と。
この回は、松谷さんがその「孤独」と正面からぶつかる場面のお話です。
ぶつかった相手は服部卓四郎大佐。
松谷さんとはたった一期違いの陸士の先輩であり、しかし出身も思想も世界観もまるで対極にいる男。
あの日、市ヶ谷台の作戦課長室で何が起きたのか。
松谷さんはこの一場面のことを戦後も多くを語られなかった。
お一人胸の奥に仕舞われたまま、それを口にされたのはほんの数回、それも私や松平閣下の前のみでした。
今宵、その断片を、前後二回に分けてお伝えできる日が、ようやく参りました。
【本文】
昭和十九年六月二十三日、午後五時。
市ヶ谷台、参謀本部第二課長室。
扉の前で俺は深く息を吸った。
戦争指導班室を出て廊下を二十歩ほど。
すぐそこに参謀本部の作戦中枢を握る男の部屋があった。
第二課長――作戦課長、服部卓四郎大佐。
俺は扉に手を伸ばす前に、ふと自分の右手を見た。
無意識のうちに軍服の襟元を整えていた。
(おかしなものだ)
俺は心の中で苦笑した。
真田部長や秦次長を訪ねるのに、これほど襟を意識したことはない。
しかし服部大佐の部屋に入る前は、いつもこうなる。
あの方の前では、俺は同じ陸軍士官学校を出た「松谷誠」になる。
大佐でも戦争指導班長でもない。
ただの「松谷」になる。
あの方もまたただの「服部さん」になる。
卓四郎という、あの方の名前さえも俺の頭の中に蘇る。
(服部卓四郎大佐)
心の中で俺はその名を呟いた。
陸士三十四期、十二番。
陸軍大学校四十二期、優等卒業、軍刀組。
俺、松谷誠の、たった一期だけ上の方。
しかしたった一期の違いが、俺たちの世界をここまで分けた。
*
扉を叩いた。
「松谷大佐、入ります」
部屋の中から低く穏やかな声が応えた。
「お入りなさい」
扉を開けた。
夕刻の光が窓から斜めに射し込み、机の上の書類束に長い影を落としていた。
服部大佐は机に向かって書類を見ていた。
俺の入室を認めると、ゆっくりと顔を上げた。
「松谷君」
穏やかな顔であった。
いつもと変わらない。
午前の合同研究でサイパン奪回作戦の放棄が決まった、その数時間後の顔とは思えぬ静けさであった。
俺は机の前に立った。
「服部課長」
「掛けたまえ」
「いえ、立ったまま申し上げます」
服部大佐はわずかに唇の端を動かされた。
笑った、のかもしれない。
あるいはただの息の動きだったのかもしれない。
外面はいつもこうだ。
冷静沈着、穏やか、抑制された物腰。
しかしこの方の腹の底に何が坐っているか――俺は知っていた。
岩。
動かぬ岩。
徹底抗戦の信念で固められた、岩のような確信。
いかなる戦況の前でも、いかなる現実の前でも、その岩は揺るがない。
俺は口を開いた。
「服部課長、戦争指導班、第三案の改訂版について、今夜のうちに真田部長と秦次長に意見具申いたします。 ……組織の筋目として、まずは作戦課長たる課長に、その骨子をお伝えしておきたく存じます」
服部大佐は机の上で両手を組まれた。
「サイパン奪回は本日午前、断念されました。 ……これにより絶対国防圏の中核は、紙の上から消えました」
「我が方は、もはや戦勢挽回の見込みが立ちません。ドイツの崩壊と同時に、わが国も終戦を図らねばならぬ。国体護持のみを条件として。そのため、ソ連を通ずる対米英外交の基礎を作らねばならぬ。これが第三案改訂版の骨子です」
服部大佐はしばしお黙りになった。
窓辺で夕の風がわずかに吹いた。
書類束の端がわずかにめくれた。
*
しばらくして服部大佐は低く言われた。
「松谷君」
「君は本気で、それを言っておるのか」
俺は服部大佐の眼を見た。
穏やかな眼であった。
しかしその奥には――俺の知っているあの岩があった。
「本気です」
「そうか」
服部大佐はわずかに視線を机の上に落とされた。
書類の端を指で軽く触れられた。
「松谷君。君の論は毎度よく出来ておる。 ……数字も合っておる。論理も通っておる。 ……だが、戦争は論理だけではできぬ」
俺は心の中で苦笑した。
(また、この台詞か)
昭和十八年九月。サイパンに敵が来攻する九ヶ月も前――俺が「大東亜戦争終末方策」を起草した時。
昭和十九年三月。第三案を完成させた時。
そして、いま、六月二十三日の夕刻。
服部大佐の答えはいつも同じだった。
「論理は通っているが、戦争は論理ではない」――。
しかし俺は知っていた。
この方の「論理ではない」の中に、一体何が坐っているのかを。
「課長」
「課長の仰る『論理ではない』ものが何であるかを、私は存じております」
服部大佐はお眼を上げられた。
「ほう。何と思うか」
「精神」
俺ははっきりと言った。
「精神至上主義」
服部大佐の眉がわずかに動いた。
「機械力よりも人力。近代火器よりも白兵。物量よりも、士気と訓練と、不抜の決意。それが課長の言う『論理ではない』ものの正体です」
部屋にわずかな沈黙が落ちた。
服部大佐はしばしお黙りになり、そして低く笑われた。
今度は確かに笑いだった。
「松谷君、相変わらず舌が鋭いな」
「私は、課長の鏡ですから」
服部大佐はゆっくりと立ち上がられた。
机の向こうから俺の方へ二歩、近づかれた。
夕刻の光が、その軍服の徽章をわずかに照らした。
*
服部大佐は俺の眼をまっすぐに見つめられた。
「松谷君」
「君と俺は、たった一期違いだ」
「そうですな」
「君、陸士三十五期、三番。陸大四十三期。 ……俺、陸士三十四期、十二番。陸大四十二期、軍刀組」
「俺の方が士官学校の席次は下だ。 しかし陸大では俺が軍刀組、君は軍刀組ならず」
「君は、それを悔しいとは思わぬか」
俺はわずかに笑った。
「思いません」
「私は陸軍砲工学校高等科で、優等を取りました。 そちらの方が私には合っておりました」
服部大佐はしばしお黙りになり、そして深く頷かれた。
「そう。それだ」
わずかに声の調子を変えられた。
穏やかな、しかし内側に何か熱のこもった声であった。
「松谷君。君は砲工学校で機械を学んだ。 物量を計算した。 数字で戦争を見るようになった」
「そうかもしれません」
「俺は違う。 ……俺は幼年学校から、陸軍中央の本流を歩いてきた」
俺は深く息を吐いた。
ここで俺たちの会話はいつも止まる。
陸軍幼年学校(陸幼)。
十三歳から十六歳までの三年間、寄宿制で軍人としての精神を叩き込まれる。
全寮制。中学校を経ない、純粋培養。
ドイツ語、フランス語が必修。
英米の影は薄い。
むしろ独伊との連帯を、教養の根幹に据える。
精神主義。
白兵主義。
武士道の継承者としての軍人。
そういう男たちが陸幼を出て、士官学校に入り、陸大の軍刀組を独占し、参謀本部の作戦課長になる。
服部大佐はその典型であった。
「私は中学校です」
俺は低く言った。
「金沢二中。一般の中学校。 ……英語を学びました。米英の文化に触れました。 そして英国に駐在いたしました」
服部大佐は頷かれた。
「うむ。君の英米通は有名だ」
「課長は独墺におられました」
「課長はドイツの軍人精神に触れられた。 ……ヒトラーの躍進をその目で見られた」
「私は英国議会の演説に感動いたしました。 ……英国の王室と国民の和合を、その目で見ました」
俺たちはしばし、互いの眼を見つめ合った。
(これが俺たちだ)
俺は思った。
(たった一期違いの、同世代の二人の秀才。 ……しかし出身、思想、世界観、何もかも対極にいる)
日本陸軍という巨大な岩盤は、こういう二人を同時に抱えていた。
そして岩盤の真ん中を、独伊派の陸幼組が固めていた。
俺たち英米派の中学校組は、岩盤の隅に追いやられていた。
*
服部大佐はゆっくりと椅子に戻られた。
机に両手を置かれた。
「松谷君」
「君の論には、一つ致命的な誤りがある」
「お聞かせください」
「君は……日本を、英米のような国だと思っておる」
俺は目を見開いた。
「そうではない。 ……日本は英米のように、議会で物事を決める国ではない。 ……日本は武士道の国だ。 一刀両断、生きるか死ぬか、玉砕するか勝利するか。 ……それしかない」
俺は深く息を吐いた。
(ここだ)
俺は思った。
(ここが俺と、この方の決定的な断層だ)
服部大佐は続けられた。
「君の言う『国体護持』――。 ……あれは本当の意味の国体ではない。 君は皇室を残せばそれで国体だ、と申されるが、それは英米的な、立憲君主国の考え方だ。 ……我が日本の国体は、軍人の魂と国民の精神と皇室と、これら三位一体のものなのだ」
俺はしばしお黙りになった。
服部大佐の論は、当時の陸軍中央のほぼ全員の共通言語であった。
俺一人がその共通言語の外にいた。
俺は低く言った。
「課長」
「もしその三位一体がすべて玉砕したならば」
「我が国は、何を残すのですか」
服部大佐はしばしお黙りになった。
窓の外、夕暮れの光がわずかに翳り始めていた。
部屋の隅に薄い影が落ちていた。
(後編につづく)
【後書き】(松平康昌より)
僕は後年、松谷大佐から、あの六月二十三日夕刻の作戦課長室での会話の断片を、伺いました。
不思議なことに、お話しになる松谷大佐のお声には、服部大佐への憎しみが、まったく感じられませんでした。
むしろある種の、悲しい敬意のようなものが滲んでおられました。
「松平閣下、服部さんは誠実な方でした。その誠実さが、皇国を危うくしたのですが」
松谷大佐はそう仰った。
僕は深く頷きました。
戦後、服部大佐は警察予備隊への入隊を、松谷大佐らによって阻止されることになります。
戦時中、服部大佐が「有害分子」として排除しようとした松谷大佐が、戦後、服部大佐の表舞台への復帰を阻止する側に回る。
歴史の皮肉と申しましょうか。
あるいは歴史の必然と申しましょうか。
■ 人物紹介
服部卓四郎(はっとり・たくしろう、1901年〜1960年) ※本話の核心人物
陸軍大佐(本話時、参謀本部第二課長=作戦課長)。山形県山形市出身。陸軍幼年学校→陸軍士官学校三十四期(一九二二年卒、十二番)→陸軍大学校四十二期(一九三〇年卒、軍刀組=優等卒業)。一九三九年ノモンハン事件で関東軍参謀として作戦立案に関与、対ソ強硬論者として知られる。一九四一年七月、参謀本部作戦課長として太平洋戦争開戦の作戦立案を主導。一九四二年、ガダルカナル戦の責任を問われ東條首相兼陸相の陸軍大臣秘書官に左遷されるが、東條の絶大な信任のもと一九四三年十月、作戦課長に復帰。陸軍中央の徹底抗戦論の中核。
松谷誠(まつたに・せい、1903年〜1998年)
陸軍大佐(本話時、参謀本部戦争指導班長=第二〇班長)。石川県金沢市出身。金沢二中→陸軍士官学校三十五期(一九二三年卒、三番)→陸軍砲工学校高等科優等→陸軍大学校四十三期(一九三一年卒)。英国駐在経験を持つ「英米通」。本話では、たった一期違いの陸士先輩・服部卓四郎と密室で対峙し、世界観・思想・出身の決定的な違いを噛みしめる場面で描かれる。
加瀬俊一(かせ・としかず、1903年〜2004年) ※本話の前書きで登場
外務省政務局第六課長(通称・北米課長)兼外相秘書官(本話時)。本話では前書きにおいて、松谷との出会いの記憶を語り、本編へと導く役で登場。
■ 用語集
陸軍幼年学校(りくぐんようねんがっこう、陸幼)
十三歳から十六歳の少年を、軍人として純粋培養する全寮制の予備校。仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に各地方幼年学校、東京に中央幼年学校が置かれた。卒業後、士官候補生として陸軍士官学校に進学。ドイツ語・フランス語が必修(英語は選択)で、独伊志向の世界観が形成されやすかった。日本陸軍中央のエリートの大半が、この陸幼から純粋培養された人々で占められていた。
陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう、陸士)
将校養成の中核機関。陸幼出身者と一般中学校出身者の両方を入校させたが、陸幼組が主流派、中学校組が傍流という構図が、戦前の陸軍中央には根強くあった。
陸軍大学校(りくぐんだいがっこう、陸大)
陸軍の最高位の参謀養成機関。陸士卒業後、数年の隊付勤務を経て、選抜試験で入校。卒業時の上位六名(後に二割)は「軍刀組」=優等卒業生として、参謀本部・陸軍省などのエリートコースを歩む。服部卓四郎は四十二期軍刀組、松谷誠は四十三期で軍刀組ならず。
陸軍砲工学校高等科
砲兵・工兵の高度な専門教育機関。火器・弾道学・機械工学などを学ぶ、陸軍の中で最も「理系」「数字」「機械」に親しい場所。松谷はここで優等を取り、その経歴が彼の「冷静なデータ分析能力」「合理的思考」の素地を形成した。陸幼-陸士-陸大の主流派とは異質の経歴であり、松谷の傍流性の象徴。
軍刀組
陸軍大学校の優等卒業生(各期上位約六名)。卒業時に天皇から軍刀を下賜されることから、こう呼ばれる。参謀本部・陸軍省の最重要ポストはほぼ軍刀組で独占され、陸軍中央の最上層エリートの代名詞。服部はこれに該当。
「先制主動・攻勢」(せんせいしゅどう・こうせい)
日本陸軍の伝統的な作戦思想。守勢に立たされても、必ず攻勢に転じて先手を取れ、という原則。服部卓四郎の作戦指導の根本思想。本話で松谷は、服部のこの思想が「論理ではなく精神主義」に支えられていることを指摘する。
英米派・独伊派
戦前の日本陸軍内の世界観派閥。英米派は、英米の文化・政治体制・経済力を高く評価し、対米英戦回避を志向する。独伊派は、ドイツ・イタリアの軍人精神とファシズムに親和的で、日独伊三国同盟を基盤とする世界戦略を志向する。陸幼出身者の多くは独伊派、中学校出身の英米駐在経験者は英米派に近い傾向があった。本話の松谷vs服部は、この派閥対立の最も鮮烈な縮図。
中学校組
陸軍幼年学校を経ずに、一般の中学校から陸軍士官学校に入校した者の通称。陸幼組(主流派)に対する傍流。松谷の他、有名な軍人だと今村均、本間雅晴、栗林忠道などがいる。
■ 史実と創作について
【史実に基づく部分】
・松谷誠が昭和十八年九月に「大東亜戦争終末方策」を、翌十九年にかけて戦争終結を志向する戦争指導方策(第三案など)を起草していたこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』、種村佐孝『大本営機密日誌』)。
・松谷が陸軍幼年学校を経ず一般中学から陸軍士官学校に進んだ「中学校出身」であり、英米駐在の経験から希望的観測を排する合理的・帰納的な思考を持っていたこと。これに対し服部卓四郎が幼年学校出身で、独伊との提携を重んじ精神力を重視する主戦派の中心であったこと。両者が出自と思考の両面で対極の関係にあったこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』、山本智之『主戦か講和か』)。
・松谷が組織の筋目を重んじ、作戦課と戦争指導班の対立のなかでも手続きを尽くす人物であったこと。
・戦後、松谷が杉田一次・林三郎らと連携し、服部卓四郎ら旧主戦派の警察予備隊(自衛隊の前身)中枢への復帰を阻止する活動に関わったこと(山本智之『主戦か講和か』、共同通信社社会部編『沈黙のファイル』)。
【創作部分】
・六月二十三日午後の作戦課長室での二人の対話、服部の「論理は通っているが、戦争は論理ではない」という趣旨の言葉、松谷の内面描写は、両者の思想的対立という史実を踏まえて本作で構成した創作です。
・松谷が松平康昌へ語ったとする戦後の回想の文言、前書き・後書きの語りや内面、各場面の情景描写は創作です。
■ 参考文献
松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年
種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房、1952年
山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年
共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』共同通信社、1996年
吉見直人『終戦史 なぜ決断できなかったのか』NHK出版、2013年




