第16話「外相・参謀総長会談の模索と国体護持」
【前書き】(重光葵より)
重光葵、外務大臣である。
松谷大佐が昭和十九年一月二十四日、外相官邸を訪ねてきた日のことを、いまも鮮明に覚えておる。あの日、わしと松谷殿は、ひとつの志を確かめ合った。
作戦と外交の緊密化。政戦両略の協調。それはわしが駐華大使の頃からの持論であった。松谷殿もまた、まったく同じ思いであった。
そしてその志を形にするため、松谷殿の方から、わしにこう申し出てくれたのだ。
――「まず参謀総長と外務大臣が、腹蔵ない懇談を、遂げられるよう、小官が必ず取り計らいます」。
わしは深く頷いた。「頼む」と応えた。
あの一月二十四日から、二月二十一日までの、わずかひと月足らず。それがわしと松谷大佐に、そして日本の戦争指導に、残された最後の窓であった。その窓は二月二十一日に、突如、軍靴の音と共に閉じられたのである。
【本文】
昭和十九年(一九四四年)、一月四日。
市ヶ谷台、参謀本部・麹町別館。
外は新年の冷気である。しかし別館の一室には、火鉢の熱と男たちの体温と、紙とインクの匂いが、こもっていた。
「橋本」
俺は机の向こうの少佐に、声をかけた。
「題は――『昭和十九年度に於ける危機克服の為採るべき戦争指導方策に関する説明』。骨格は独観察と、ドイツの急変仮定の延長線上にある」
橋本正勝少佐はペンを取った。
「最低条件を、明文化する」
俺は深く息を吸った。
「『条件ノ最低――国体護持ヲ限度――ヲ以テ、和平セサレハ、国ヲ危クス』」
橋本のペンが罫紙の上を、ゆっくり走った。
書き終えたペンが、止まった。橋本は面を上げた。
「班長殿。これは――軍内部の文書において、初めての明記となります」
「そうだ」
国体護持。
この四文字はこれまで戦争指導班の議論の中で、口頭でしばしば用いられていた。だが軍の正式な研究文書に、紙の上にはっきりと書きつけられたのは、この
一月四日が初めてであった。
以後、終戦までの一年八ヶ月、この四文字は四人組の終戦工作の絶対的な北極星となる。
*
翌一月五日。
午後、俺は橋本を伴い、九段下の偕行社へ向かった。
そこで毛里英於菟が、待っていた。
昨年十一月二十六日の本郷の離れでの初対面から、すでに二回目。本日は毛里からの「戦後経営に関する問題」の最新の研究案を、聴取する場であった。
毛里は罫紙の束を持参していた。
「松谷大佐殿。今回は敗戦直後の食糧、財政、思想、占領軍との折衝、農業合作社、左右両翼の動向――この六項目について、案を作成いたしました」
俺と橋本は黙って、毛里の言葉を聞き続けた。
毛里の語りは軍人の発想を遥かに超えていた。敗戦の翌日に何が起き、翌月に何が起き、翌年に何が起き、五年後に何が起きるか――まるですでにその時間の中を、毛里が生きてきたかのような口ぶりだった。
二時間の聴取が終わり、俺たちは席を立った。別れ際、毛里は俺に低く言った。
「松谷大佐殿。一つだけ、お願いがございます」
「貴殿の名は、わたくしの記録の中に、決して残しません。わたくしの名も、貴殿の文書には、決して残されますな」
「承知いたしました」
俺たちは互いに深く一礼した。
*
一月二十四日、午後。
永田町、外相官邸。
俺は杉山総長への意見具申を一度終えた後、その足で外務省へ廻り、重光葵外相と二人だけの懇談に臨んでいた。
応接室の暖炉に白い炎が揺れていた。
重光は義足を僅かに伸ばし、深々と腰掛けて俺に向き合っていた。昭和七年、上海天長節で爆弾を浴び失った右脚の代わりに、義足がこの方の体を支えている。
「松谷君」
「貴官、本年初頭の戦況の見通しを、どう読む」
俺は「独観察」「ドイツ急変仮定」「危機克服説明」――三つの研究文書の結論を、要約して述べた。
重光は深く頷いた。そして暖炉の炎を見つめながら、低く言った。
「松谷君。わしは昨年来、駐華大使時代からの持論を申してきた。政戦両略の協調こそ、戦争指導の要である、と」
「現状の大本営政府連絡会議は、構成員が多すぎる。下僚の幕僚たちが事前に作案したものを、上司が形式的に追認するだけの、空転の場と化しておる。これを改めねば、戦争指導は動かぬ」
「おっしゃる通りです」
「故に――」
重光は俺の眼をまっすぐに見た。
「大本営政府連絡会議の出席者を、少数精鋭にする。今後の戦争指導に関し、積極的に討論審議できる場とする。これにはまず、政戦両略を統べる二人が、腹を割って語り合わねばならぬ」
俺は外相の言葉を受けて、ひとつの腹案を口にした。
「閣下。ならば、まず参謀総長と外務大臣が、腹蔵ない懇談を、遂げられるべきです」
「ほう」
「杉山総長と閣下とが、隔意なく談合される機会を、小官が必ず取り計らいます。腹案、すでに胸中にあり」
重光は一度、深く眼を閉じられた。
そして再び眼を開けられた時、その瞳には覚悟の光が宿っていた。
「頼んだぞ、松谷君」
*
外相官邸を辞した俺は、その夜、麹町別館の自室で、ひとり長く考えた。
杉山総長と重光外相のトップ会談。これが実現すれば、戦争終結の話は、必ず、内閣と統帥部の最上層へと、押し上がる。重光は、その話を、ご自身で陛下にお取り次ぎになる。陛下は――松平閣下の伝えたあの八文字――「お案じあそばしておられる」――そのお気持ちで、お受け止めになるであろう。
糸が繋がる。重光と杉山と陛下と、松平と加瀬と――。
俺はペンを取り、杉山総長への再度の具申書の草案を、書き始めた。
*
しかし、杉山閣下のお返事は、いつも同じであった。
一月の下旬、二月の初旬、二月の中旬。俺は再三にわたって、外相との懇談を閣下に具申した。
杉山閣下は内心、賛意を示しておられた。それはお眼の動きで、わかる。
しかし、お口は開かれなかった。
「松谷大佐」
二月初旬の、ある日のお返事が、こうであった。
「貴官の主旨、わしもよく分かる。しかし――統帥権の独立、作戦上の機密保持、これを破ることは、容易には出来ぬ。いま少し、時機を待て」
俺は深く一礼するのみであった。
部屋を出る時、振り返った杉山閣下の御眼には、深い、深い苦渋の色が浮かんでいた。
俺は悟っていた。閣下は東條閣下に気兼ねされている。そして真田作戦課長以下、徹底抗戦を叫ぶ部下たちへの思惑も、お考えになっておられる。閣下御自身が真田たちの「主戦の旗手」を表面上、演じ続けねばならぬ立場におられる。
あの「種子は土に深く埋めて護る」と仰った閣下の論理は、いま、閣下御自身を土の中に縛っていた。
*
二月五日。
モスクワ行きの列車が、雪の東京駅を発っていった。満州里から、シベリア鉄道で大陸を横断する往復二ヶ月の長旅である。
車中の人となったのは種村佐孝中佐である。伝書使として、佐藤尚武駐ソ大使に書類を届ける任務――というのが表向きの名目であった。一月二十日頃、次長から突然の命令を受けた種村は、準備の暇もなく頭を丸め、国民服のままで出かけていった。
俺は雪のホームの端で、列車を見送った。
種村は決して悪い男ではない。むしろ、信頼できる先輩班員である。しかし、種村は作戦課を兼務する身であり、参謀本部の下部組織が敗北を前提とした終戦案を起案することには、終始、抵抗を示していた。
班に種村がおる限り――決定的な終戦案は、書けぬ。
俺は苦渋の決断として、種村のモスクワ出張を、上司に具申していた。秦次長はすべてをご承知の上で、これを認められた。
最後尾の灯が雪の闇に消えていった。俺はしばし、線路の先を見つめ、心の中で種村に詫びた。
「種村中佐。すまぬ。しかし、貴官が帰国される頃には、新たな案が出来上がっておる。その時、貴官ともう一度、議論を重ねたい――」
*
二月の中旬、俺は橋本と二人、麹町別館で新たな終戦案の起案に、本格的に取りかかっていた。
題はすでに胸中に決まっていた。
――「昭和十九年末ヲ目途トスル戦争指導ニ関スル観察」。
第三案、と俺は呼んだ。
昭和十九年末を目途とする戦争終結。対米一撃の後、ソ連を仲介者として、英米から妥協和平を引き出す。最悪の場合は国体護持のみを条件とする屈伏和平、もやむを得ず――。
俺たちがこれまで、紙の上で口頭で断片的に積み上げてきた終戦構想のすべてを、この一案に凝縮しようとしていた。
完成まではあと一ヶ月か。橋本のペンが罫紙の上を、夜を徹して走り続けていた。
*
二月十七日、十八日。
新聞各紙がトラック島空襲の報を、伝え始めた。
米機動部隊による、二日間にわたる大空襲。連合艦隊の主力基地が、壊滅的な打撃を受けた。輸送船多数、艦艇多数、航空機多数を失った。海軍の南方の生命線が、根元から、揺らいだ。
俺は朝の参謀本部の廊下で、新聞を握りしめていた。
手の指がわずかに、震えた。
絶対国防圏。九月三十日御前会議で、この国の戦略の前提として宣言された、あの「絶対」の輪郭がいま、内側からも外側からも、剥落し始めていた。
その日の昼過ぎ、俺は秦次長に呼ばれた。次長室に入ると秦中将は、お眼を伏せたまま、低く仰った。
「松谷大佐」
「明日、十八日の夜――陸軍の三長官会議が、召集される」
俺は息を呑んだ。三長官会議とは陸軍大臣、参謀総長、教育総監――陸軍の最高人事を決定する、統帥の最重要会議である。それが突然――トラック島空襲の翌日に――召集される。
俺は低く問うた。
「議題は」
秦次長はしばし、お眼をお閉じになった。
そしてゆっくりと、お眼をお開きになった。
「東條閣下が――参謀総長の兼任を、お申し出になる、との由である」
部屋に静寂が落ちた。
俺はその一句をしばし、頭の中で消化できなかった。
兼任。
首相、陸相、軍需相。そこに参謀総長が、加わる――。
国務と統帥が一人の手中に、集約される。
すなわち、杉山閣下――俺の盾――が参謀総長の座から、お降りになる。
俺は立ったまま、しばし、声を出せなかった。
「松谷大佐」
秦次長は低く続けられた。
「貴官の第三案、起案中の由。しかし、もはや、それを杉山閣下のお手に届ける機会は、来ぬであろう」
「次長閣下――」
俺の声はわずかに、震えた。
「明日の三長官会議で、何が起きるか、わしにはわからぬ。しかし、心して結果を待たれよ」
「承知いたしました」
次長室を辞した俺は、廊下をゆっくりと、歩いた。
窓の外、市ヶ谷台の二月の冬空に、低く雲が垂れ込めていた。
二月十八日――。
明日の夜、三長官の会議室で、陸軍の最高人事が、揺らぐ。そしてその揺らぎは、俺の研究班の盾を、東京の夜の冷気の中へと、押し出すであろう。
俺はしばし、廊下に立ち尽くした。
【後書き】(加瀬俊一より)
加瀬俊一、外務大臣秘書官兼外務省政務局第六課長――通称、北米課長です。
二月十七日の夜、私は外相官邸でひとり、重光大臣と向かい合っていました。大臣はほとんど何も仰らない。ただ、暖炉の炎を長く見つめておられました。
翌十八日の夕刻、市ヶ谷台に三長官会議が召集される、との情報が私の耳にも届きました。重光大臣は一切の口を、閉ざされたままでした。
■ 人物紹介
本話に新規登場の人物はない(全員既出)。
■ 用語集
三長官会議
陸軍大臣・参謀総長・教育総監――陸軍の三人の最高指揮官による、陸軍の最高人事を決定する会議。陸軍内部における重大人事(大将昇進、要職交代等)はこの三長官の合議を経て天皇に上奏される。本話末尾で二月十八日に召集が伝達される。
トラック島空襲
昭和十九年二月十七日・十八日、米機動部隊が中部太平洋カロリン諸島のトラック島(連合艦隊の主力基地)に対して行った大規模空襲。日本側は輸送船・艦艇・航空機に甚大な被害を出し、海軍の南方拠点としての機能を失った。本話末尾で東條の参謀総長兼任の直接的引き金となった戦況悪化の象徴として描出。
■ 史実と創作について
【史実に基づく部分】
・昭和十九年一月四日、戦争指導班が「昭和十九年度ニ於ケル危機克服ノ為採ルヘキ戦争指導方策ニ関スル説明」を作成し、部内の多数派工作に用いたこと。この文書で「国体護持」の語が史料上初めて登場したこと(山本智之『主戦か講和か』、『終戦工作の記録』上巻)。
・同日夜の『機密戦争日誌』に「条件ノ最低(国体護持ヲ限度)ヲ以テ和平セサレハ国ヲ危クス」と記されたこと。
・一月二十四日、松谷と重光外相が円滑な終戦方法について密談したこと(山本智之『主戦か講和か』関係年表)。重光が大本営政府連絡会議の空転を批判し、政戦両略の協調・作戦と外交の緊密化を駐華大使時代からの持論としていたこと。その持論に共鳴した松谷の方から、杉山参謀総長と重光外相が隔意のない談合をするよう取り計らうことを外相に約したこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。この懇談によって大本営政府連絡会議における終戦方途考究の根基を作成させようとしたこと(松谷誠『私の終戦メモ』、山本智之『主戦か講和か』)。
・松谷が毛里英於菟から「戦後経営に関する問題」の聴取を続けたこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』)。
・種村佐孝中佐が二月、伝書使としてモスクワへ出張したこと。出張は往復ともシベリア鉄道経由の約二ヶ月で、一月二十日頃に突然の命令を受け、頭を丸めて国民服のまま出発したことを種村自身が記している(『大本営機密日誌』)。種村が敗北を前提とする終戦案の起案に抵抗を示しており、出張がその間の起案を可能にしたこと(橋本正勝の戦後証言)。
・二月十七・十八日のトラック島空襲、二月二十一日の東條参謀総長兼任・嶋田軍令部総長兼任の発令。松谷が準備していた杉山・重光の懇談が、この東條の参謀総長兼任によって杉山が総長の座を追われた結果、実現の機会を得られないまま潰えたこと(松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』『私の終戦メモ』)。
【創作部分】
・一月四日の起案場面、一月五日の偕行社での毛里聴取の場面の会話は創作です(偕行社という場所の設定を含む)。
・松谷が重光に「参謀総長と外務大臣の腹蔵ない懇談」の場を設けると申し出る場面、杉山の逡巡の台詞、東京駅での見送りの情景は、史実の枠組みに基づく創作的再構成です。
■ 参考文献
山本智之『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』新潮社、2013年
種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房、1952年
軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』錦正社、2008年
松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年
松谷誠『私の終戦メモ』松谷誠、1973年




