第14話「外部の知恵を求めて」
【前書き】(高木惣吉より)
高木惣吉、海軍少将である。
あの頃、陸軍の中に、わたしと同じ電波を発する男がいる――そんな噂が、海軍内のごく狭い界隈で囁かれ始めていた。
その男が、慶応の武村教授に米英の国力分析を依頼している、と聞いたのは、十一月の末のことだったか。武村君は、わたしも陸戦力に関する判断で意見を聴取していた相手である。同じ知識人を、同じ目的のために、陸海軍が、互いに知らずに、訪ねていた――。
あの頃の俺たち四人組はまだ、互いの全貌を知らない。だが、夜の闇の中で、別々に、しかし同じ方角へ、足音を運んでいた。それを、後になって知るのである。
昭和十八年十一月二十六日、夜。
俺は、軍服の上に外套を羽織り、襟を立てて、東京の闇を歩いていた。
灯火管制下である。街灯は、ことごとく消されている。月は、雲の向こうに隠れていた。
俺の前を、一人の若い民間人が、傘を持って歩いている。先導役である。本郷の某所――個人邸の離れであった。そこで、一人の男が、俺を待っていた。
毛里英於菟。
企画院勅任調査官、当年四十一歳。東京帝国大学法学部政治学科を出て大蔵省に入り、満州国国務院総務庁を経て、昭和十六年に企画院書記官、調査官に転じた。いわゆる「革新官僚」の中核に位置する男である。
*
仲介の労をとってくれたのは、鈴木貞一中将であった。
鈴木将軍は、つい先頃まで企画院総裁を務めておられた方である。そして、昭和七年、俺が陸軍省軍務局軍事課満蒙班に勤務していた時の班長――すなわち、俺の直属の上司――でもあった。十一年の歳月を経て、立場は逆転している。だが、軍務局時代に俺の起案文書をいくたびも黙って通してくださった鈴木将軍の温情は、いまも俺の胸の底で、消えていなかった。
「松谷君、貴官が何を企んでおるか、わしは敢えて聞かぬ。だが、毛里という男は、信用できる。あの男には、俺から話を通しておく」
鈴木将軍は、それだけ仰った。事情を一切お問いにならぬ。それが、俺と将軍との、十一年来の暗黙の流儀であった。
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離れの一室。
火鉢に炭が赤く熾っている。座敷の中央に、丸い机が一つ。机の上には、罫紙の束、鉛筆、そして茶碗が二つ。
毛里英於菟は、軍人ではない男にしては、姿勢の正しい男だった。眼鏡の奥の眼が、知的な光を放っている。
「松谷大佐殿。鈴木閣下から、御依頼の趣を承っております」
「忝ない」
俺は、座布団の上に、正座した。
「単刀直入に申し上げる。戦争指導班は、来年(昭和十九年)以降の戦局について、極めて厳しい見通しを立てております。同盟国ドイツの敗北、ソ連の覇権、そして我が国の戦争終結――この三段階を、紙の上で、我々は描き始めている」
毛里は、表情を変えなかった。
「されど」
俺は、続けた。
「終戦は、戦争の終わりに非ず。終戦は、戦後経営の始まりである。日本の国を、敗戦の廃墟の上に、いかにして再建するか。ここまでを射程に入れた研究を、我が班だけでは、到底成し得ぬ。先生のお力を、お借りしたい」
「『戦争より平和への転移ならびに戦後経営』――かような題目で、よろしいか」
「左様」
毛里は、ゆっくりと頷いた。
「承知いたしました。ただし松谷大佐殿。一つだけ、確認させていただきたい」
「うむ」
「貴殿が描かれる戦後の日本は、いかなる体制か。立憲君主制、すなわち、天皇を戴く形を、維持されるおつもりか」
俺は、即答した。
「国体護持。これは、我が班の絶対の前提である」
毛里は、しばし沈黙した。
やがて、低く、しかし確かに、応えた。
「承知いたしました。お引き受けいたしましょう」
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その夜から、毛里との極秘の研究会が始まった。
二回目、三回目――俺の参謀本部在勤間に、計三回。場所はその都度変えた。班員のうち、毛里を知るのは、俺と橋本正勝少佐の二人のみ。種村中佐にも、当面、伏せた。種村は作戦課兼勤の身であり、万一の漏洩を避けるためである。
毛里の手稿は、後年、俺が支那派遣軍へ転出する際に、悉く焼却した。だが、その内容――食糧政策、財政再建、占領軍との折衝、思想動向の見通し、農業合作社構想――は、終戦後の俺の脳裏に、一字一句、残っていた。
毛里という男の頭脳は、軍人の俺の脳髄を遥かに凌駕していた。革新官僚という存在の凄みを、俺はこの夜、初めて骨身に刻んだ。
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毛里と並行して、俺は、もう一人の知識人にも接触していた。
武村忠雄、慶応義塾大学経済学部教授、当年三十八歳。昭和八年から十年にかけ、米英独に留学し、景気変動論・統制経済論を研究した俊英である。昭和十六年七月から陸軍に召集され、現在は陸軍省経理局に勤務していた。
俺は、武村に、米英の国力判断を依頼した。
ライト兄弟の国は、いま、月産何機の飛行機を生産しているか。鋼鉄、石油、船舶、自動車。米英の戦時動員体制の実態。武村の弾き出す数字は、冷酷であった。彼の数字を眼にした夜、俺は、しばし茶も喉を通らなかった。
日米の生産力差は、すでに二十倍を超えていた。
なお、後年、海軍の高木惣吉少将も、武村君から似たような分析を聴取していたと聞いた。武村という一人の経済学者の頭脳が、陸海双方の早期講和派を、別々に、しかし同じ方向へ、押し動かしていた――。これは、後で知ったことだが、深い感慨があった。
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十二月に入ると、俺はまた別の方向へ、足を運ぶようになった。
ソ連の事情を知る人間に、会わねばならぬ。
九月案以来、俺たちの構想の柱は、ソ連仲介である。「独観察」もまた、ソ連完勝を予測している。されど、俺たちはソ連を、文書の上でしか、知らなかった。スターリンという男の腹は、紙の上には書かれていない。
まず、渋谷千駄ヶ谷の松岡洋右元外務大臣を、お訪ねした。
松岡閣下は、病気療養中であった。私邸の奥、布団の上で半身を起こし、痩せた頬で、俺を迎えた。
「日ソ中立条約か」
松岡は、笑った。痩せた笑いだった。
「あれは、わしがクレムリンの石畳の上で、スターリンと抱擁して結んだものじゃ。されど松谷君よ、あの男は、抱擁の腕の下で、別の手で短刀を握っておる。それを、忘れるな」
松岡閣下は、独伊との三国同盟を主導された方である。今となっては、その同盟が日本を縛る鉄鎖となっている。されど、その同じ口から、ソ連の仲介に望みを託すなと、俺は警告された。
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次に訪ねたのは、芝白金台、八芳園の久原房之助氏であった。
大正、昭和前期の実業家、政治家。日立鉱山の創業者であり、田中義一内閣で逓信大臣を務め、政府の海外特派経済委員として、昭和二年にソ連に渡り、スターリンと面談された方である。
八芳園の広大な日本庭園を抜け、母屋の奥座敷で、久原氏は俺を迎えた。
「スターリンか」
久原氏も、笑われた。
「わしと会うた折のあの男は、まだクレムリンの一書記長に過ぎなんだ。されど、眼の光が違うた。あの眼は、人間の頭蓋を、林檎の如く割って、中身を見抜く眼じゃった」
「閣下、ソ連を仲介者として動かすことは、可能でありましょうか」
久原氏は、しばし沈黙された。
「松谷君。ソ連を動かすには、ソ連にとっての利を、こちらが差し出す他ない。日本に、ソ連にとって魅力的な利が、いま、何ほど残されておるか。これを、よくよく勘定された方がよろしい」
俺は、深く頷くのみであった。
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毛里、武村、松岡、久原。
外部の四人。これに加え、俺はかねてより四谷信濃町の酒井鎬次中将の私邸へも、変わらず通い続けていた。
酒井中将は、終始、俺を慎重に守ってくださった。「松谷君、わしは、貴官の立場を考慮し、国内政治の事項にはいっさい触れぬ。重臣の動きについても、貴官には申さぬ」――この一線を、酒井中将は、俺との交誼が終わるまで、一度も越されなかった。憲兵の眼を意識された、深い御配慮であった。
俺もまた、外部の四人と酒井中将のお名を、班内ですら、ほとんど口にしなかった。種村にも、橋本にも、必要最低限の事しか伝えなかった。情報部三課長(林・杉田・晴気)とのコッソリ連携にも、これらの民間ネットワークの全貌は、開示しなかった。
不義理と思わるほど、俺は黙止した。
戦後、毛里氏のご遺族にお詫びし、武村教授にお礼を言いたいと思いつつ、しかし当時、俺は誰一人にも、その存在を語らなかった。
*
十二月のある夜、俺は参謀本部の自分の机で、毛里の最新の研究案を、繰り返し読み返していた。
一一月十九日、米軍がギルバート諸島に上陸。十一月二十六日、タラワ、マキン両島が占領された。十二月二日、カイロにおいて米英中三国首脳の声明――いわゆるカイロ宣言――が発出された。日本の領土を満州事変以前に縮減し、朝鮮を独立させる、と書かれていた。
戦況は、紙の上の予測を、追い越して悪化していた。
俺は、ペンを置き、窓の外を見た。
灯火管制下の東京は、深い闇である。ただ、雲の切れ間に、白い半月が浮かんでいた。
水が、岩を、穿つ――。
松平閣下の言葉が、また、俺の腹の底で、響いた。
毛里、武村、松岡、久原、酒井。一滴ずつ、俺は外部の知恵を、班内に、運び込んでいる。それは、岩をすぐに穿つしずくではない。されど、止めることもまた、できぬ。
俺は、再び、ペンを取った。
【後書き】(加瀬俊一より)
加瀬俊一、外務大臣政務秘書官兼、外務省政務局第六課長(北米課長)である。
松谷の凄みは、地下の網目の細さにあった。あの男は、毛里、武村、松岡、久原、酒井――誰一人を、一度たりとも、別の関係者の前で口にしなかった。わたくしですら、毛里という名を耳にしたのは、戦後数年を経てからのことである。
あの男は、自分が築いた網のすべてを、自分の腹の内に収めていた。仮に憲兵が松谷一人を捕えても、網全体は破れぬ。そういう設計の網であった。
見事な、そして、孤独な網であった。
次回、松谷は、再びあの千駄ヶ谷の侯爵邸の門を、潜ることになる。秋の最初の出会いから、ふた月。冬枯れの庭木の向こうで、松平閣下は、何を松谷に告げようとされるのか。
【本話初出の人物プロフィール】
鈴木貞一(すずき・ていいち、1888-1989)
陸軍中将。陸士二十二期、陸大卒。昭和七年(松谷大佐が陸軍省軍務局軍事課満蒙班に勤務時)、その満蒙班長を務めていた、松谷の若き日の直属上司。後に興亜院政務部長、企画院総裁等を歴任、昭和十六年から十八年まで企画院総裁。本話登場時(昭和十八年十一月)は前企画院総裁の立場で、松谷に毛里英於菟への紹介の労をとる。戦後A級戦犯として終身刑に処されるが、昭和三十年仮釈放。百一歳で死去。本作では、松谷の終戦工作を陰で支える「軍内部の沈黙の理解者」として、極めて重要な仲介機能を果たす。
毛里英於菟(もうり・ひでおと、1902-1947)
大正十四年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年大蔵省専売局入省。昭和八年辞職、満州国国務院総務庁事務官として財政担当。昭和十三年大蔵省復帰、預金部資金局事務官。昭和十六年企画院書記官、調査官として総裁官房総務室課長。昭和十八年十一月辞職。革新官僚の中核に位置する。本話登場時は四十一歳、戦争指導班との極秘研究において「戦争より平和への転移ならびに戦後経営」の研究案を提供。彼の研究は後年「日本国家再建方策」に発展し、戦争指導班の戦後構想の有力な基礎資料となった。戦後、四十五歳で病没。
武村忠雄(たけむら・ただお、1905- 1987)
昭和三年慶応大学経済学部卒。昭和八年から十年、「景気変動論」「統制経済論」研究のため米・英・独に留学。昭和十年慶応大学経済学部助教授、十二年教授。昭和十六年七月から二十年十月まで陸軍に召集、陸軍省経理局勤務。本話登場時は三十八歳。陸海軍双方の早期講和派(陸軍・松谷誠、海軍・高木惣吉ら)に米英の国力判断を提供した、戦時下の隠れた橋渡し役。
松岡洋右(まつおか・ようすけ、1880-1946)※新第6話で既出、本話で本格登場
既出。本話では渋谷千駄ヶ谷の私邸で病気療養中の姿で登場。日ソ中立条約締結の当事者として、スターリンの本性について松谷に警告を発する。終戦を見ずに昭和二十一年六月、東京裁判被告中に病死。
久原房之助(くはら・ふさのすけ、1869-1965)
山口県生まれ、慶応義塾卒。明治三十八年日立鉱山(後の久原鉱業)を創立、日立製作所、久原商事の社長。昭和二年田中義一内閣で逓信大臣。同年、政府の海外特派経済委員としてソ連に派遣され、スターリンと面談。後に政友会幹事長、顧問。財力を背景に「政界の惑星」と称された。本話登場時は七十四歳、芝白金台の自邸(八芳園)で松谷を迎え、スターリンの「眼」について語る。戦後の昭和四十年、九十六歳で死去。
酒井鎬次※新第5話で既出、本話で再登場
既出。本話では四谷信濃町の私邸で松谷を迎え続ける師として描出。憲兵の眼を警戒し、国内政治・重臣関係には一切触れぬ慎重さを終始貫く配慮を、松谷の語りで強調。
【本話初出の用語】
「戦争より平和への転移ならびに戦後経営」
昭和十八年十一月二十六日、戦争指導班(松谷誠班長)が毛里英於菟企画院勅任調査官に研究を依頼した際の題目。終戦の手続きにとどまらず、敗戦後の日本の国家再建を射程に入れた、極めて先進的な戦後構想の研究。松谷の在勤間、計三回にわたって極秘の聴取が実施され、原稿は後に焼却されたが、内容は終戦前後の研究の基礎資料となった。本作後半で登場する「日本国家再建方策」の源流。
革新官僚
昭和十年代に登場した、マルクス主義の影響を受けつつ国家による社会変革を志向したキャリア官僚の一群。商工官僚としては岸信介、椎名悦三郎、美濃部洋次、大蔵官僚としては毛里英於菟、迫水久常らがいる。本作既出の美濃部・迫水と本話新登場の毛里は、いずれもこの系譜に属する。戦時下の総合国策の策定に大きな影響力を持ち、戦後の官僚制度・経済制度の骨格にも繋がっていく。
鈴木貞一前企画院総裁
既出の鈴木貞一中将が、本話登場直前まで務めていた前職。企画院は内閣直属の総合国策機関で、戦時下の物動計画・経済統制を主導した。鈴木は昭和十六年から十八年まで総裁を務め、毛里英於菟ら革新官僚を直属の調査官として動かしていた。本話で松谷が毛里にアプローチできた背景には、この鈴木総裁時代の人脈がある。
八芳園
東京都港区白金台に所在する、久原房之助の旧邸宅。江戸時代の薩摩藩家老・島津家の別邸を起源とし、明治期に渋沢栄一の所有を経て、大正期に久原房之助が取得。広大な日本庭園を擁する。久原は昭和二年にスターリンと面談した経済特派の経験を持ち、本話で松谷が「スターリンのやり口」を聴取する場として登場。戦後は昭和二十五年から結婚式場として一般公開され、現在に至る。
「不義理と思わるほど黙止」
松谷自身が回想録『大東亜戦争収拾の真相』に記した自己描写。「戦争収拾に関する事項は必勝を一途とする軍部内に漏れたならば、士気上に及ぼす影響が甚大であるから、上司の戒告をまつまでもなく、私としては上記部外の関連者以外はもちろん、部内においても直接関係者以外の人々に対しては、不義理と思わるほど黙止し、戦後に至るまで終始言動に留意した次第である」。本話の徹底秘密主義の根本理念であり、松谷という人物の一貫した行動原理。
カイロ宣言
昭和十八年十二月二日、エジプトのカイロで開かれた米・英・中(蔣介石)三国首脳会談の結果として発出された対日声明。日本が満州事変以前に獲得した領土の縮減、朝鮮の独立、台湾・澎湖諸島の返還等を宣言。日本の終戦交渉の余地を、領土面で大きく狭めた歴史的文書。本話では、戦況悪化の通底音として末尾に配置。




