第2話「剣士」
十二年前――。
カッツは、走っていた。
「はぁ……はぁ……!」
息が苦しい。
足が痛い。
それでも止まれなかった。
止まったら――食われる。
「グルルルル……」
背後から低い唸り声が聞こえる。
怖い。
振り返ることすらできない。
六歳のカッツには、それが何という魔物なのかも分からなかった。
ただ、大きかった。
自分よりずっと大きな身体。
鋭い牙。
地面を削る爪。
そして――赤い目。
どうしてこんなことになったのか。
ほんの少し、森の奥へ入っただけだった。
母親からは何度も言われていた。
『巣穴の近くには絶対に行っちゃ駄目よ』
分かっていた。
分かっていたけど。
友達と遊んでいるうちに、どんどん森の奥まで来てしまった。
そして気づいた時には――。
「うわっ!」
木の根に足を取られた。
身体が宙に浮く。
地面に叩きつけられた。
「いっ……!」
膝が痛い。
起きなきゃ。
そう思っても、身体が動かなかった。
恐る恐る振り返る。
いた。
大きな獣。
熊に似ている。
でも、カッツが知っている熊とは違った。
異常に長い爪。
口から突き出した牙。
身体の一部は黒く変色し、血管のようなものが浮き出ている。
魔物。
その言葉だけは知っていた。
「……やだ」
魔物が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
カッツは後ろへ下がった。
「来るな……」
当然、止まらない。
「来るなよ……!」
背中が木に当たった。
もう下がれない。
魔物が前脚を持ち上げる。
巨大な爪。
六歳のカッツにも分かった。
あれが当たったら――死ぬ。
「誰か……」
震える声しか出なかった。
「助けて……!」
魔物が腕を振り下ろした。
「伏せろ!」
突然、声が響いた。
カッツは反射的に頭を抱えた。
次の瞬間。
何かが頭上を通過する。
キィン!
金属音。
恐る恐る顔を上げた。
一人の男が立っていた。
カッツと魔物の間。
剣を持っている。
「怪我は?」
「……え?」
「走れるか?」
カッツは自分の脚を見る。
膝から血が出ていた。
「わ……分かんない」
「そうか」
男はそれだけ言うと、魔物へ向き直った。
「なら、そこにいろ」
魔物が吠えた。
森が震える。
カッツは耳を塞いだ。
怖い。
なのに。
男は逃げなかった。
剣を構える。
その身体を淡い光が包んだ。
「……?」
カッツは初めて見る光景に目を奪われた。
身体強化魔法。
もちろん、この時のカッツはその名前を知らない。
少し離れた場所から、別の声が飛ぶ。
「付与するぞ!」
もう一人いた。
杖を持った男。
その手には小さな石が握られている。
魔石を加工した媒介。
男が杖を振る。
媒介が砕けた。
光が走る。
そして――。
剣士の持つ剣が炎に包まれた。
「すげえ……」
カッツの口から声が漏れた。
魔物が突進する。
剣士も走った。
速い。
さっきまで自分を追いかけていた魔物より、ずっと速い。
魔物が爪を振るう。
剣士が身を沈める。
爪が頭上を通過した。
そのまま懐へ。
踏み込む。
炎をまとった剣が振り抜かれた。
一閃。
魔物の胸が斬り裂かれる。
「ギャアアアッ!」
巨体がよろめいた。
だが、倒れない。
「まだだ!」
「分かってる!」
魔物が再び腕を振り上げる。
剣士は一歩踏み込んだ。
今度は真正面。
「危ない!」
カッツが叫んだ。
だが――。
魔物の爪が届くより早く、剣が走った。
炎の軌跡。
魔物の身体が止まる。
ゆっくりと――。
巨体が地面へ倒れた。
ズン――。
地面が揺れた。
静かになった。
カッツは口を開けたまま、剣士を見ていた。
怖かった魔物。
あんなに必死で逃げても、まったく離せなかった魔物。
それを――。
倒した。
剣士が剣についた血を払い、炎が消える。
そして、カッツのところへ歩いてきた。
「大丈夫か?」
カッツは答えなかった。
剣を見ていた。
「おい?」
「……すげえ」
「ん?」
「すげえ!」
さっきまで泣いていたことなど忘れていた。
「今の何!?」
「何って……」
「剣が燃えた!」
「ああ。あれは俺じゃない」
剣士が後ろを指差す。
杖を持った男が歩いてくる。
「こいつの付与魔法だ」
「ふよ?」
「剣に魔法の力を乗せるんだよ」
「じゃあ、あっちのおじさんもすげえ!」
「誰がおじさんだ」
付与術師の眉が動いた。
剣士が吹き出す。
「ははっ! 確かにお前、おじさんっぽいぞ」
「お前も同い年だろ!」
二人が言い合う。
カッツは、その姿を見ていた。
怖くない。
さっきまであんなに怖かった森が、もう怖くなかった。
目の前に、この二人がいるから。
やがて剣士がカッツを見る。
「家はどこだ?」
「あっち」
「送っていく」
「いいの?」
「このまま帰したら、また魔物に食われるだろ」
「食われねえよ!」
「さっき泣いてただろ」
「泣いてねえ!」
「泣いてたぞ」
「泣いてねえ!」
剣士が笑った。
「元気なら大丈夫そうだな」
そして歩き出す。
カッツも後ろをついていった。
数歩。
カッツは剣士の背中を見つめた。
大きかった。
本当は、特別大きな男ではなかったのかもしれない。
けれど六歳のカッツには――。
誰よりも大きく見えた。
「なあ!」
剣士が振り返る。
「なんだ?」
カッツは聞いた。
「俺も剣士になれる?」
男は少し驚いた顔をした。
そして笑う。
「さあな」
「なんだよ!」
「なれるかどうかなんて、俺が決めることじゃない」
男は腰の剣を軽く叩いた。
「なりたいなら、やってみればいい」
カッツは剣を見た。
魔物を倒した剣。
自分を助けてくれた剣。
そして――。
その剣を握る男を見た。
「……なる」
「ん?」
カッツは拳を握った。
「俺、剣士になる!」
剣士は何も言わなかった。
ただ笑った。
その日から。
カッツの夢は決まった。
剣士になる。
強くなる。
そしていつか――。
あの日の自分と同じように、魔物に怯えている誰かを助ける。
六歳の少年は、まだ知らなかった。
十二年間追い続けることになるその夢が――。
自分には、どうしようもなく向いていないことを。




