第1話「S級」
世界でも有数の危険度を誇る、S級指定巣穴――《グラウルベアの巣》。
巨大な岩山に、ぽっかりと開いた穴。
入口だけでも高さは十メートル近くある。
その奥からは獣の臭いと、肌がひりつくほど濃い魔素が流れ出していた。
対魔物治安維持機関が定める最高危険度――S級。
生半可な冒険者が足を踏み入れていい場所ではない。
当然、攻略には相応の準備が必要になる。
武器。
食料。
魔法の媒介。
医療用品。
数日間の活動を想定した、大量の物資。
それらを背負って挑むのが普通だった。
だが――。
巣穴の入口に立つ二人は、どう見ても軽装だった。
一人は白い半袖のシャツに黒いベスト。
カーゴパンツをブーツに押し込んだ、どこか幼さの残る青年――ヒロ。
腰には小さな鞄が一つだけ。
そして、その隣。
銃の形をした奇妙な杖を腰に下げた青年――カッツ。
こちらも大きな荷物など持っていない。
カッツが巨大な巣穴を見上げる。
「ヒロ」
「何?」
「ビビってんのか?」
「ビビってないよ」
即答だった。
ヒロは巣穴ではなく、隣にいるカッツを見る。
「それよりカッツ。入る前にちゃんとご飯食べた?」
「食ったよ」
「本当に?」
「食ったって」
ヒロは疑うような目を向ける。
「戦闘始まってすぐ魔力切れとか、やめてくれよ」
「分かってるって」
カッツは気楽に答え、腰の銃型杖を軽く叩いた。
「じゃ、行くか」
「……本当に緊張感ないよね」
「S級だからってビビってもしょうがねえだろ」
「そういう問題じゃないんだけど」
二人は歩き出した。
世界でも有数の危険度を誇る、S級巣穴。
そんな場所へ向かう二人の姿は――
まるで、ピクニックにでも出掛けるようだった。
◇
巣穴へ入って十五分ほど。
外の光は、もう届かない。
ヒロが魔石灯を取り出す。
淡い光が周囲を照らした。
岩壁には無数の爪痕。
地面には獣の足跡。
中には、カッツの頭ほどもある巨大なものまで残されている。
「新しいな」
ヒロがしゃがみ込んだ。
「何が?」
「足跡」
「分かるのか?」
「これくらい分かるよ」
ヒロが足跡へ触れる。
「昨日……いや、もっと新しいかも」
「へえ」
「へえ、じゃないよ。少しは周り見ながら歩いてくれない?」
「ヒロが見てるからいいだろ」
「僕がいなかったらどうするんだよ」
「一人でS級なんて来ねえよ」
ヒロが一瞬黙った。
「……そういうところだけ妙にまともなんだよな」
「なんか言った?」
「何も」
その時だった。
ヒロが立ち止まる。
「カッツ」
声が変わった。
カッツも足を止める。
「何匹?」
「三……いや、四」
「近い?」
「近い」
二人の軽口が消えた。
暗闇の向こう。
低い唸り声が響く。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
赤い眼が浮かび上がった。
魔石灯の光が、その姿を照らす。
狼型の魔物。
ただし、普通の狼とは比較にならないほど大きい。
肩の高さだけでも成人男性の胸ほどある。
異常に発達した前脚。
口から伸びる牙。
濃い魔素に晒され続けたことで変異した個体だった。
「入口からこれか」
ヒロが呟く。
「さすがS級」
カッツは笑った。
「通常でいい?」
「まずはね。効かなかったら変える」
「了解」
カッツが腰へ手を伸ばす。
握ったのは剣ではない。
銃の形をした杖――銃型杖。
もう片方の手で腰から小さな筒を一本抜く。
何の特殊効果も持たない、通常カートリッジ。
ガチャン。
装填。
グリップに埋め込まれた魔石が、淡く輝く。
その瞬間――
一頭が地面を蹴った。
速い。
巨大な身体が一直線に迫る。
牙がカッツの喉元へ迫った。
「おせえ」
カッツの脚に魔力が流れる。
《脚力強化》。
地面を蹴った。
一瞬で姿が消える。
狼の牙が空を噛んだ。
カッツはすでに数メートル横。
銃型杖を向ける。
引き金。
ドンッ!
轟音が巣穴に響いた。
通常弾が狼の側頭部へ直撃する。
巨体が地面を転がった。
「一!」
だが、残りの三頭は止まらない。
左右から二頭。
正面から一頭。
カッツが笑う。
再び《脚力強化》。
右へ。
一頭をかわす。
左へ切り返す。
二頭目の爪が服をかすめる。
「カッツ、左!」
「見えてる!」
銃口を向ける。
ドンッ!
外れた。
「……」
「外したね」
「うるせえ!」
もう一発。
ドンッ!
今度は頭部に命中。
二頭目が倒れる。
「二発使った!」
「倒したんだからいいだろ!」
「通常弾だってタダじゃないんだよ!」
「分かった分かった!」
三頭目。
カッツは地面を蹴った。
狼の側面へ回る。
ドンッ!
一発。
倒れる。
「ほら、一発!」
「できるなら最初からやってよ!」
「細かいなあ」
「細かくない!」
残る一頭が吠えた。
地面を蹴る。
カッツも銃型杖を構える。
だが――
ぐぅぅぅぅ。
洞窟に、妙な音が響いた。
「……」
ヒロがカッツを見る。
カッツもヒロを見る。
「ヒロ」
「何?」
「腹減った」
「……は?」
「干し肉くれ」
ヒロのこめかみが引きつった。
「だから入る前にちゃんと食べたか聞いたんだよ!」
「食ったって!」
「何食べたんだよ!」
「パン!」
「どれだけ!?」
「一個!」
「足りるわけないだろ!」
狼が迫る。
「ヒロ! 飯!」
「もう!」
ヒロが周囲を確認する。
誰もいない。
二人だけ。
それを確かめると、何もない空間へ右手を伸ばした。
腕が――消えた。
空間が歪む。
そして再び腕を引き抜く。
その手には、先ほどまで存在しなかった干し肉の袋が握られていた。
空間魔法――《アイテムボックス》。
本来そこに存在しない空間へ物を収納し、自由に出し入れする魔法。
そして――
この世界では、決して人前で使ってはいけない魔法。
「ほら!」
ヒロが袋を投げる。
「サンキュー!」
カッツが走りながら受け取る。
袋を歯で破った。
干し肉を一本くわえる。
噛む。
「……これ味薄くね?」
「文句言うなら返せ!」
「もう食ってる」
「だったら戦え!」
狼が跳ぶ。
カッツは干し肉をくわえたまま銃型杖を構える。
「今度は一発な」
《脚力強化》。
一歩。
狼の正面から消える。
二歩。
側面。
狼が首を向ける。
遅い。
銃口は、すでに頭部へ向いていた。
ドンッ!
一発。
狼の巨体が地面へ叩きつけられる。
静寂。
カッツは銃型杖を下ろした。
残った干し肉を口へ放り込む。
「ほら。一発」
「最初からやってよ」
「腹減ってたからな」
「だからそれを言ってるんだよ!」
カッツは笑う。
ヒロは頭を抱えた。
だが、すぐに表情を戻す。
「行こう。まだ入口付近だ」
「おう」
二人はさらに奥へ進んでいく。
そして、しばらくした時だった。
――ズン。
巣穴全体が微かに震えた。
二人が止まる。
――ズン。
今度は、はっきりと分かった。
足音。
先ほどの狼とは比べものにならない。
一歩ごとに、地面から振動が伝わってくる。
――ズン。
何かがいる。
巨大な何かが。
カッツが暗闇の奥を見つめた。
それまでの軽い表情が、ほんの少しだけ変わる。
「……熊か」
「カッツ?」
「いや」
カッツは銃型杖を肩に担いだ。
「昔を思い出しただけだ」
ヒロは、それ以上聞かなかった。
カッツが初めて魔物と出会ったのは――十二年前。
まだ六歳だったころ。
銃型杖の存在すら知らず。
ただ一人の剣士に、心の底から憧れていたころだった。




