9話 湖畔の小さな宿『ひだまり』
その宿を見つけたのは、春の初めの、よく晴れた日だった。リンデンの町の門を出て、麦畑のあいだの道を、歩いて半刻ほど。ゆるやかな丘を越えると、目の前が、ふいに開けた。
小さな湖だった。
風のない朝の湖面は、鏡みたいに空を映していた。岸辺には、芽吹いたばかりの柳が、薄い緑の枝を水面すれすれまで垂らしている。どこかで、水鳥が、くわっ、と一声鳴いた。その岸辺に、二階建ての建物が、ぽつんと一軒、建っていた。
石の土台に、白い漆喰の壁。焦げ茶色の木の梁。屋根の瓦は、ところどころ欠けて、苔がむしている。
入口の扉に、色あせた札がかかっていた。
『貸します 湖畔亭』
◇ ◇ ◇
持ち主は、ハンスさんとグレタさんという、老夫婦だった。
「若いころは、王都から来る旅のお客で、それはにぎやかだったんだがねえ」
ハンスさんは、腰をさすりながら言った。三年前に腰を痛めてから、客を取るのをやめていたのだという。
「娘のところで暮らすことにしたんだ。売るのは、どうも踏んぎりがつかなくてね。借りてくれる人がいれば、と思って」
中を見せてもらった。
一階に、台所と、暖炉のある食堂。二階に、客室が六つ。どの部屋も、窓が湖のほうを向いていた。
ただ、三年間、誰も住んでいなかった家は、正直だった。窓枠の木は雨で黒ずみ、寝台の脚はぐらつき、台所の鍋は、ほとんどが錆ていた。二階の床板の一枚は、踏むと、ぎいっと嫌な音を立てて沈んだ。
それでも。
二階のいちばん奥の部屋で、わたしは窓を開けた。湖を渡ってきた風が、ふわりと頬をなでた。水と、若草と、遠い土のにおい。窓の下で、さざ波が、ちゃぷ、ちゃぷ、と岸の石を洗っていた。
(ここで、目を覚ましたい)
それは、何十回もホテルに泊まって、一度も思ったことのない気持ちだった。泊まりたい、ではない。ここで、誰かを迎えたい。
でも、胸の中で、もう一つの声がした。わたしが抜けたら、木漏れ日亭は、どうなるんだろう。毎晩満室の宿を、ひざの悪いマルタさんと、14歳のニナだけで回せるはずがない。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、わたしはグラナド書房の机に、帳簿を広げた。
「借りる値段は、ひと月、銀貨15枚だそうです」
ヴェルドさんは、帳簿の数字を、指でゆっくりとたどった。
「手もとにある金は」
「銀貨80枚です。商会に預けた20枚は、別にして」
わたしは、紙に書いてきた計算を見せた。
『保証金(家賃の2か月分) 銀貨30枚』
『最初の月の家賃 銀貨15枚』
『代官所の仲介料 銀貨5枚』
『修繕・寝具・食器 銀貨20枚』
『運転資金(3か月分の食材・手間賃など) 銀貨10枚』
『合計 銀貨80枚』
「家具も台所の道具も、古いものはお借りできますが、ほとんど直さないと使えません。だから、寝台の脚と窓枠は自分たちで直して、シーツと布団だけは、新しいものにします。食器は、市場の古道具屋で探します」
「代官所の仲介料、というのは」
「この国の身分証を持たない者が家を借りるときは、代官所が間に入らないといけない決まりだそうです。家賃も、代官所を通して納めます」
ヴェルドさんの眉が、わずかに動いた。
「客室が六つ。一泊、いくらで売るつもりだ」
「朝食と夕食つきで、銅貨8枚。木漏れ日亭より高いですが、そのぶん、ほかの宿にないものを出します」
「六部屋が、ひと月に半分埋まったとして」
「銀貨……72枚。食材や手間賃を引いても、家賃は払えます」
「では、町から外れた宿に、客はどうやって来る」
これも、考えてきた。
「木漏れ日亭は、毎晩満室で、泊まれずに帰っていくお客様がいます。その方たちに、マルタさんから『ひだまり』の紹介札を渡してもらいます。湖までの道を描いた、小さな札です」
「ほかには」
「湖のそばを、王都への街道が通っています。町の門と、街道の分かれ道に、看板を立てます。それから、オットーさんたち行商人に、宿場で足湯の話をしてもらいます」
「足湯?」
「お湯に、足だけつかるんです。この国には、まだないおもてなしなので、話の種になると思います。……最初の七日間は、お試しの週にして、木漏れ日亭の常連さんを半額で招きます。そのかわり、よくないところを、正直に教えてもらいます」
ヴェルドさんは、何も言わずに、帳簿の次のページをめくった。
「では、君が抜けたあとの木漏れ日亭は」
わたしは、紙をもう一枚出した。
「エマさんに、お願いしようと思っています。この三か月、木漏れ日亭のシーツも装備も洗ってきて、宿のやり方を、いちばん近くで見てきた人です。洗濯だけでなく、客室の掃除と寝台の支度も、毎日の仕事として引き受けてもらいます。いちばん上の男の子は12歳なので、洗濯の手伝いに手間賃を払えば、エマさんの手もあきます」
「教えるのは、誰が」
「わたしです。ひと月かけて、窓の拭き方から、三角の折り方まで、全部。わたしがいなくても同じようにできるように、手順を、絵つきで帳面に書いておきます」
紙のいちばん上には、もう、こう書いてあった。
『木漏れ日亭の手順帳』
「それに、ニナは連れていきません。あの子は、マルタさんの宿の、大事な柱だから」
ヴェルドさんは、しばらく黙って、帳簿を見つめていた。
「小さく始めるのは、いい。よく考えてある」
「人が替わっても、同じ朝が来る宿。それを、仕組みと言うのだ」
それから、顔を上げた。
「だがな、莉子。わしは明日から、ふた月ほど王都へ行く。昔の商いの、後始末があってな」
「えっ」
「契約書は、最後の一行まで読め。わからない言葉があれば、署名するな。……わしが戻るまで待てるなら、待ちなさい」
◇ ◇ ◇
待てなかった。
三日後、湖畔亭を見にいくと、ハンスさんが困った顔をしていた。
「じつは、昨日、ほかにも借りたいという商人が来てね。代官所の人が連れてきたんだが」
わたしの顔から、血の気が引いた。
「あんたが先に来てくれたから、あんたに貸したいんだ。でも、早く決めてもらえるとありがたい」
その日の午後、わたしは代官所の窓口にいた。
差し出された契約書は、羊皮紙に、細かい字がびっしりと並んでいた。こちらの世界の言葉は、話すのも読むのも、なぜかできる。でも、法律の言い回しは、日本語でも難しい。
家賃。期間は二年。保証金。修繕の分担。読めるところだけ、目で追った。
下のほうの小さな字の段落は、目がすべって、頭に入ってこなかった。
「早くしないと、ほかの方に決まりますよ」
窓口の書記が、ペンを差し出した。
わたしは、ペンを取った。そして、羊皮紙の一番下に、自分の名前を書いた。
神楽坂莉子。
この世界で、初めて書いた、自分の名前の契約だった。
◇ ◇ ◇
それから、ひと月、わたしは、昼は木漏れ日亭でエマさんに仕事を教え、朝と夕方に湖畔亭へ通った。毎日の通いの手伝いには、湖のそばの集落に住む、ロッテさんに来てもらうことにした。パンを焼くのが上手な、40歳くらいのおかみさんだ。
ニナは、木漏れ日亭の仕事で手いっぱいだった。それでも、七日に一度の休みの日になると、「莉子一人じゃ、どうせ無理でしょ」と言って、湖畔亭までついてきた。わたしは、その日の分の手間賃を、下働きの給金として、きちんと払った。「いらない」と口をとがらせるニナに、「働いた分は、受け取るの。ヴェルドさんの教え」と言って。
ロッテさんと二人で、窓枠の黒ずんだところを削って、油を塗った。ぐらつく寝台の脚に、くさびを打ちこんだ。沈む床板は、近所の大工のおじいさんに、パン一斤と引きかえに張りかえてもらった。
錆びた鍋は、砂と灰でこすって、また使えるようにした。市場の古道具屋で、ふぞろいだけれど、ふちに小さな花の模様のある皿を、六枚ずつ集めた。そして、新しいシーツと布団。ここだけは、お金を惜しまなかった。
宿の名前は、ニナが来た休みの日に、二人で決めた。
「ひだまり?」
「わたしの国の言葉でね。お日さまが当たって、ぽかぽかしている場所のこと」
「……変な名前」
ニナはそう言いながら、看板の板に、わたしが書いた字を、小刀でていねいに彫ってくれた。
『ひだまり』
◇ ◇ ◇
『ひだまり』に泊まるお客様には、四つのことを約束した。
一つめは、湖の音で目覚める部屋。どの部屋も、窓を少しだけ開けておく。朝、さざ波の音と、水鳥の声で目が覚めるように。
二つめは、焼きたてのパンのにおい。朝いちばんに、窯に火を入れる。階段を下りる前から、香ばしいにおいが二階まで上ってくるように。
三つめは、夕暮れの、湖のほとりのお茶。岸辺に古い長椅子を二つ置いて、日が沈むころに、温かいお茶を運ぶ。
そして、四つめ。
この国の人は、湯につかる習慣がない。体は、濡らした布で拭くだけ。お湯は、手と顔を洗うためのものだ。王都の貴族でさえ、香水で体のにおいをごまかすのだと、ヴェルドさんが言っていた。
だから、わたしは、足湯を出すことにした。
木の桶に、人肌より少し熱いお湯を張る。そこに、乾かした銀穂草をひとつかみ。長旅で固くなった足を、くるぶしまで、ゆっくりと沈めてもらう。最初のお客様は、王都へ向かう途中の、毛織物の行商人だった。
「足を、湯に? はあ、変わったことをするねえ」
半信半疑で桶に足を入れた行商人は、十も数えないうちに、目を閉じた。
「……なんだ、これは」
肩が、すとんと落ちた。口が、半分開いた。
「足だけ温めているのに、体じゅうが、ほどけていく」
わたしとロッテさんは、顔を見合わせて、こっそり笑った。
◇ ◇ ◇
噂は、思っていたより、ずっと早く広がった。
最初のお客様の多くは、マルタさんの紹介札を握りしめて、湖への道を歩いてきた人たちだった。お試しの週に来た常連さんたちは、「階段がきしむ」「朝のパンがもう一つほしい」と、遠慮なく教えてくれた。
最初の月は、六部屋のうち、半分も埋まらなかった。それでも、街道の看板を見て寄る旅人が、少しずつ増えていった。二か月めには、週末が満室になった。
ある日、上等な外套を着た男の人が泊まっていった。王都の伯爵家の、家令だという。翌朝、足湯の桶を前に、家令は、まじめな顔で言った。
「この桶と、あの草を、主人の館にも置きたいのだが、売ってはもらえないか」
その月の終わり、帳簿の『入り』の欄には、わたしが書いたことのない大きさの数字が並んだ。その月の最後の夜は、ちょうど、ニナが手伝いに来る休みの日だった。仕事を終えて、ニナと二人で、岸辺の長椅子に座った。
空には、二つの月。白い月と、青い月が、湖の上に、二本の光の道を作っていた。水の上を渡ってくる夜風は、もう、冬の冷たさを忘れていた。
「ねえ、莉子」
ニナが、青い髪紐の先を指でいじりながら、ぽつりと言った。
「あたし、ここ、好き」
「……うん。わたしも」
わたしは、ニナの頭に、そっと手を置いた。ニナは、いやがらなかった。あのとき、羊皮紙の一番下の、小さな字の段落を、最後まで読まなかったこと。それが何を意味するのか、わたしはまだ、知らなかった。




