8話 8割は未来へ、2割はご褒美へ
「銀貨を一枚使う前に、問いなさい」
グラナド書房の机の上に、ヴェルドさんは、銀貨を一枚だけ置いた。冠をかぶった女の人の横顔が、窓からの光を受けて、静かに光っている。
「この一枚は、将来の君の自由を増やすか。それとも、一瞬の気晴らしで消えるか」
「将来の、自由……」
「たとえば、この一枚で、明日の朝、温かいパンを買う。それは、君が明日も働ける体を作る。自由を増やす金だ。だが、この一枚で、泣きたい夜に強い酒を買う。それは、朝には消えている」
ヴェルドさんは、銀貨を指で弾いた。くるくると回って、机の上で、ことん、と倒れた。
「金に、いい金も悪い金もない。あるのは、使い方だけだ」
◇ ◇ ◇
それから毎朝、わたしは少し早めに起きて、宿の買いものに町の市場へ出るようになった。粉と豆と卵で籠をいっぱいにした帰り道に、裏通りのグラナド書房に寄る。ヴェルドさんの授業は、宿の仕事が始まる前の、ほんの半刻だけ。それが、毎朝続いた。
最初に教わったのは、稼いだお金を、二つに分けることだった。
「入った金の、8割は未来へ。残りの2割は、ご褒美へ」
「ご褒美……使って、いいんですか」
意外だった。てっきり、全部貯めなさいと言われると思っていた。
「使わずにためこむ者は、いずれ反動で、一度に全部使う。ご褒美は、必要だ」
ヴェルドさんは、帳簿の端に、さらさらと線を引いた。
「ただし、使う日を選びなさい。泣きたい夜ではなく、うまくいった日に。穴を埋めるためではなく、祝うために使う」
「祝うために……」
「そうだ。ご褒美は、穴埋めではない。祝杯だ」
その言葉は、胸のまん中に、すとんと落ちた。
三角に折られた掛け布を見て、泣きそうになっていた夜。あれを、いつか、笑いながら見られる日が来るのだろうか。
◇ ◇ ◇
二つめに教わったのは、「稼ぐ仕組み」を作ることだった。
「君の宿は、今、満室だ。では、これ以上、どうやって稼ぐ」
「部屋を、増やす……のは無理だから、値上げ、ですか」
「客は、なぜ木漏れ日亭に泊まる」
わたしは、少し考えた。
「シーツが、日なたのにおいがするから。……眠れるから」
「では、その客が、ほかに困っていることは」
その夜から、わたしは、食堂で泊まり客の話を、いつもより注意して聞くようになった。冒険者たちは、口をそろえて言った。朝、宿を出てから食べる場所を探すのが面倒だ。仕事帰りの、泥と汗と魔獣の血がしみた服を、洗う暇がない。
行商人たちは、こう言った。長く泊まると、宿代がかさむ。
わたしは、それを全部、帳簿の裏に書きとめた。
そして、マルタさんとニナに、三つのことを提案した。
一つめは、朝食つきの泊まり。宿代に銅貨2枚を足すと、焼きたてのパンと、豆のスープと、ゆで卵がつく。二つめは、服と装備の洗濯。朝、仕事に出かける前に預かって、その日の夕方、宿に帰ってくるまでに、銀穂草の香りで乾かして返す。三つめは、七泊以上の長逗留の割引。
「洗濯なんて、あたしの手が足りないよ」
ニナが、口をとがらせた。
「近所の、子どもが三人いる寡婦のエマさんに、頼めないかな。手間賃を払って」
「……エマおばさん、仕事なくて困ってた」
ニナの目が、ぱっと明るくなった。
◇ ◇ ◇
ひと月後、木漏れ日亭の売上は、倍になった。
朝食つきの泊まりは、冒険者たちに大評判だった。洗濯物は、毎日、昼の物干しの縄いっぱいにはためいた。青空の下で、銀穂草の香りが風にのって、裏通りじゅうに流れていった。エマさんの家からは、夕方になると、子どもたちの笑い声が聞こえるようになった。
「莉子。この帳簿、あたしにはさっぱりだけどね」
月の終わりの夜、マルタさんは、わたしがつけた帳簿をめくりながら、首をかしげた。
「宿が、こんなにもうかったのは初めてだよ。……で、あんたの取り分は、どうしたらいいんだい」
わたしは、ごくりと息をのんだ。
これも、ヴェルドさんの宿題だった。
――自分が生んだ価値には、自分で値段をつけなさい。誰かが決めてくれるのを、待っていてはいけない。
店長に「代わりはいくらでもいる」と言われても、一度も言い返せなかったわたし。自分の値段なんて、考えたこともなかった。
「あの……給金の銀貨16枚は、そのままで。それに、増えた分の利益の、3割をいただけませんか」
言ってしまってから、心臓がばくばくした。欲ばりだと思われたら、どうしよう。
マルタさんは、帳簿から顔を上げた。
そして、声を上げて笑った。
「3割? あんた、遠慮深いねえ。半分って言われても、うなずくつもりだったよ」
「えっ」
「3割で、いいんだね。決まりだ」
マルタさんのしわだらけの手が、わたしの手を、ぎゅっと握った。
◇ ◇ ◇
その月の、わたしの取り分は、銀貨25枚になった。
帳簿に、ていねいに書きこんだ。
『入り 銀貨25枚』
『未来へ(8割) 銀貨20枚』
『ご褒美へ(2割) 銀貨5枚』
ヴェルドさんに見せると、ヴェルドさんは、帳簿を指でとんとたたいた。
「未来の20枚のうち、5枚は、わしの昔の商会に預けなさい」
「商会に、ですか」
「金は、一か所に置くな。宿の金庫が火事になったら、どうする。盗賊に入られたら」
ヴェルドさんの昔の商会は、王都に本店があって、リンデンにも小さな出張所があった。今は、昔の番頭さんが切り盛りしているのだそうだ。
「わかりました」
わたしは、言われたとおりにした。出張所で受け取った、小さな預かり証の紙を、ポーチの奥に、カードキーといっしょにしまった。
◇ ◇ ◇
最初の「ご褒美」の使いみちは、ずっと前から決めていた。市場の、布の屋台。色とりどりの髪紐が、竿にかけられて、風に揺れている。
その中から、湖の水みたいな、澄んだ青い一本を選んだ。銅貨3枚。木漏れ日亭に帰って、台所でパン生地をこねていたニナの前に、それを差し出した。
「はい」
「……なに、これ」
「ご褒美。わたしの」
ニナは、粉だらけの手のまま、きょとんとしていた。
「莉子のご褒美なのに、なんで、あたしにくれるの」
「この宿が、こんなにうまくいったのは、ニナが三角の折り方を三日で覚えて、エマさんを連れてきてくれたからだよ。だから、うまくいったお祝い」
ニナの耳が、みるみる赤くなった。
「……べつに、うれしくないし」
そう言いながら、ニナはエプロンで手をごしごし拭いて、髪紐を受け取った。そして、ぼさぼさだった赤茶色の髪を、その青い紐で、きゅっと結んだ。
「似合う?」
「すごく、似合う」
ニナは、ぷいと横を向いた。でも、パン生地をこねる手が、さっきより、ずっとはずんでいた。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
あのホテルの予約ボタンを押した夜の、甘くて少し苦い熱とは、ちがう。もっと静かで、もっと長く残る温かさだった。
(これが、祝杯なんだ)
◇ ◇ ◇
冬が過ぎていった。
裏通りの石畳に、うっすらと雪が積もった朝があった。菩提樹の枝の先に、小さな芽がふくらんだ朝があった。
毎晩、帳簿をつけた。毎朝、ヴェルドさんに見せた。わたしの取り分は、月によって、銀貨24枚のこともあれば、28枚のこともあった。そのたびに、8割と2割に分けた。
2割のご褒美で、マルタさんのひざに当てる、厚い羊毛の布を買った。エマさんの子どもたちに、蜂蜜のお菓子を買った。自分には、一度だけ、市場でいちばん高い林檎を一つ買って、屋根裏の窓辺で、ゆっくりと食べた。
ある夜、帳簿の最後のページに、こう書いた。
『この世界に来て、五か月』
『未来へ 銀貨100枚』
『(うち、商会に預けた分 銀貨20枚)』
銀貨100枚。およそ、100万円。現世のわたしの銀行口座に、100万円という数字が並んだことは、一度もなかった。屋根裏の寝台の上で、わたしは帳簿を胸に抱いて、しばらく天井を見ていた。
窓の外で、春の風が、菩提樹の若葉を、さわさわと鳴らしていた。




