7話 君が買いたかったのは、服じゃない
裏通りの菩提樹の角に、その店はあった。石造りの、間口の狭い二階家。緑色に塗られた扉の上に、小さな真鍮の看板が下がっている。
『グラナド書房』
扉を押すと、頭の上で、ちりん、と鈴が鳴った。
中は、薄暗かった。天井まで届く本棚が、壁という壁を埋めている。古い紙と、革の表紙と、インクのにおい。窓から差しこむ朝の光の中で、細かなほこりが、ゆっくりと金色に舞っていた。
「来たな」
奥の机から、声がした。
昨日の老紳士――ヴェルドさんが、眼鏡を外して、こちらを見ていた。緑の外套は椅子の背にかけられて、白いシャツの袖を、ひじまでまくっている。
「銀貨は」
「……16枚。全部、あります」
懐から革袋を出して、机の上に置いた。ヴェルドさんは、中身を確かめもせずに、小さくうなずいた。
「よろしい。座りなさい。茶を淹れよう」
◇ ◇ ◇
出されたのは、濃い色のお茶だった。干したオレンジの皮が一切れ、浮かんでいる。湯気といっしょに、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。ヴェルドさんは、一枚の紙と、ペンを、わたしの前に置いた。
「この一年で、君が使った、いちばん大きな金のことを書きなさい。いつ、何に、いくら。それから、その前の週に、何があったか」
「前の週、ですか」
「そうだ。思い出せるだけ、全部」
わけがわからないまま、ペンを取った。
いちばん大きなお金。考えるまでもなかった。
『一月 表参道のホテル 32,000円』
『二月 表参道のホテル 32,000円』
『四月 ホテル(ベイエリア) 28,000円』
『五月 表参道のホテル 34,000円』
書いているうちに、手が止まらなくなった。六月。七月。八月。月に一度、多い月は二度。
紙の半分が、ホテルの名前で埋まった。
「では、前の週に何があったかを、横に書きなさい」
ペン先が、一月の行の横で、止まった。
一月。年明けのセールで、レジの金額が合わなくて、閉店後に一人で三時間、数えなおした日。結局、わたしのせいではなかった。でも、誰も謝ってくれなかった。
二月。母から電話があった日。「あんた、いつまでそんな仕事してるの」と言われた。
四月。新人が入って、店長に「神楽坂さんより、あの子のほうが売り場映えするね」と笑われた日。
五月。誕生日。誰からも、連絡がなかった日。一行ずつ書くたびに、胸の奥が、ひりひりと痛んだ。
紙を見下ろしたまま、わたしは動けなくなった。
並んでいたのは、ホテルの名前と、泣きたかった日の記録だった。楽しかった日に予約したことは、一度もなかった。
◇ ◇ ◇
「わかったかね」
ヴェルドさんの声は、静かだった。
「君は、ご褒美を買っていたのではない。傷の手当てを、していたのだ。それも、いちばん高い薬で」
「……」
「人はな、心に穴があくと、そこを何かで埋めようとする。酒で埋める者もいる。賭けごとで埋める者もいる。君は、高い宿で埋めていた」
ヴェルドさんは、ペンの先で、紙の上の『32,000円』を、とん、と指した。
「だが、金で埋めた穴は、朝になると、また開く。だから、また埋める。その繰り返しだ」
チェックアウトの朝の、あの泣きたい気持ち。あれは、穴がまた開く音だったのだろうか。
「心の穴を、お金で埋めるのをやめなさい」
ヴェルドさんは、まっすぐにわたしを見た。
「君が本当に欲しかったのは、高級な部屋ではない。安全で、心が休まる居場所だ」
◇ ◇ ◇
図星だった。図星すぎて、息ができなかった。だから、わたしは、いちばんみっともないことをした。
「……何が、わかるんですか」
声が、ふるえた。
「お金持ちの、偉い人に。毎月、数字を見るのが怖い気持ちなんて。誰にも名前を呼んでもらえない気持ちなんて。わかるわけ、ないじゃないですか」
椅子を倒しそうな勢いで、立ち上がっていた。
「わたしだって、わかってます。むだづかいだって。でも、あれがなかったら、わたし、たぶん、もっと前に壊れてた」
ヴェルドさんは、何も言わなかった。怒りもしなかった。ただ、静かに、わたしの顔を見ていた。
その静けさに、耐えられなかった。
わたしは、銀貨の袋をつかんで、店を飛び出した。背中で、鈴が、ちりんちりんと乱暴に鳴った。
◇ ◇ ◇
その日は、一日じゅう、仕事が手につかなかった。
シーツを干しても、窓を磨いても、あの紙の上の文字が頭から離れなかった。一月。二月。四月。五月。
「莉子、さっきからシーツ、裏返しにかけてる」
ニナに言われて、物干しを見た。本当だった。
夜、屋根裏の寝台に、ひざを抱えて座った。
ポーチを開けて、ハンドクリームのふたを開ける。白いお茶の香り。でも、今夜は、少しも息が楽にならなかった。
(安全で、心が休まる居場所)
ヴェルドさんの言葉を、口の中でくり返した。
あの階段から落ちたとき、わたしがつかんだのは、財布でもスマホでもなかった。このポーチだった。手取り16万円のわたしが、最後に守ろうとしたもの。それは、ハンドクリームでも、アイマスクでもなかったのかもしれない。
ただ、ほんの少しだけ、息ができる場所。
「ここにいていい」と思える、小さな場所。
床板の下から、マルタさんとニナの話し声が、かすかに聞こえてきた。明日の朝のパンの話。豆が安かったという話。ニナが笑う声。
この屋根裏には、わたしの名前を呼んでくれる人がいる。
「好きなだけいな」と言ってくれた人が、いる。
(……わたし、昨日、何を買おうとしてたんだろう)
赤いドレスを着て、この屋根裏に帰ってくる自分を、想像してみた。
ちっとも、うれしくなかった。
◇ ◇ ◇
次の日の朝。わたしは、もう一度、緑色の扉の前に立っていた。
扉を押すと、鈴が、ちりん、と鳴った。
ヴェルドさんは、昨日と同じ机で、同じように眼鏡をかけて、本を読んでいた。わたしの顔を見ても、驚いた様子はなかった。
「……昨日は、すみませんでした」
深く、頭を下げた。
「言われたことが、ほんとうだったので。ほんとうすぎて、悔しくて」
顔を上げると、ヴェルドさんが、ふっと目もとをゆるめていた。初めて見る、笑った顔だった。
「戻ってきたな」
ヴェルドさんは、眼鏡を外して、机の上に置いた。
「腹を立てて出ていく者は、たくさんいる。だが、自分の足で戻ってくる者は、少ない。……戻ってきた。それが、君の最初の投資だ」
「投資、ですか」
「そうだ。自分を変えるために、自分の誇りを、少しだけ差し出した。どんな商いより、利回りのいい投資だよ」
ヴェルドさんは、立ち上がって、棚から一冊の帳面を取り出した。まっさらな、厚い革表紙の帳簿だった。
「教えてやろう。金の使い方と、稼ぎ方と、守り方を。授業料はいらん」
「えっ」
「そのかわり、毎晩、その日に入った金と出た金を、一枚残らずこれに書いて、次の朝、わしに見せに来なさい」
差し出された帳簿を、両手で受け取った。ずしりと重かった。新しい革のにおいがした。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか」
ヴェルドさんは、窓の外の菩提樹を見た。ほんの一瞬だけ、その灰色の瞳が、どこか遠いところを見ているように思えた。
「昔、一人、育てそこねた者がいてな」
それだけ言うと、ヴェルドさんは、またいつもの顔に戻った。
「さて。まずは、その16枚の銀貨の話からだ」




