6話 銀貨16枚と、真っ赤なドレス
ひと月がたつころには、木漏れ日亭の八つの客室は、毎晩、全部埋まるようになっていた。朝いちばんに、窓を開ける。菩提樹の葉のすきまから落ちる光が、磨いた床の上で揺れる。食堂からは、焼きたてのパンと、豆のスープのにおい。
満室の夜には、泊まれなかったお客さんが、明日の予約を入れて帰っていく。少し前までは、考えられなかったことらしい。
「ほら。手を出しな」
月の終わりの夜。台所のテーブルで、マルタさんが、小さな革の袋をわたしの前に置いた。
袋を持ち上げると、じゃらり、と重い音がした。
「あんたの、ひと月分の給金だよ」
口をほどいて、中身をテーブルに出した。
ろうそくの灯りの下で、銀色の硬貨が、静かに光った。表には、冠をかぶった女の人の横顔。裏には、麦の穂。
一枚、二枚、と数えた。
16枚。
「……16枚」
「少なかったかい。あんたが来る前は、宿のひと月の売上が、それくらいだったんだけどね」
マルタさんが、少し申し訳なさそうに言った。
わたしは、首を横に振った。
銀貨1枚は、だいたい1万円。16枚で、16万円。
(手取り16万と、同じだ)
指先で、硬貨の縁をなぞった。ひんやりとして、それから、手のひらの温度で、少しずつ温かくなっていく。
同じ数字なのに、まるでちがうものに見えた。
あの給与明細の数字は、毎月、気がつくとどこかへ消えていた。でも、この16枚は、わたしが窓を磨いて、ふとんをたたいて、シーツを煮て、ブラムさんの向かいに座って、手に入れたものだ。一枚一枚に、この宿の、ひと月分の朝と夜がつまっている。
「ありがとうございます、マルタさん」
声が、少しかすれた。
隣でパンをかじっていたニナが、身を乗り出した。
「ねえ、それ、何に使うの?」
わたしは、少し考えて、笑った。
「……ご褒美、かな」
「ご褒美?」
「うん。がんばった自分への、ご褒美」
◇ ◇ ◇
次の日は、マルタさんがくれた、初めてのお休みだった。
リンデンの大通りは、朝から人であふれていた。
石畳の両側に、市場の屋台がずらりと並ぶ。焼いた腸詰めの脂のにおい。山積みの赤い林檎。乾かした香草の束。どこかの屋台で、鍛冶屋が鉄を打つ音が、かん、かん、と高く響いている。
冒険者らしい人たちが、剣を腰に下げたまま、果物をかじりながら歩いていく。
懐の革袋が、歩くたびに、じゃらりと鳴った。
その音を聞くたびに、胸の奥で、何かがそわそわと動いた。この感じは、知っている。給料日の夜、スマホの予約画面を開くときの、あの感じだ。
大通りの角に、一軒の仕立屋があった。
『白鳥の針』
金色の文字の看板。大きなガラス窓の向こうに、仕立て上がったドレスが、何着も飾られていた。
その真ん中の一着から、目が離せなくなった。
深い、深い、赤だった。
ワインを光にかざしたときのような、底のほうが少し黒く沈んだ赤。やわらかな天鵞絨の胸もとに、金の糸で、小さな薔薇のつるが刺しゅうされている。朝の光が当たると、生地の毛並みに沿って、赤が、波みたいにゆらりと色を変えた。
似ていた。
表参道の、ガラス張りのブティックの奥に飾られていたワンピース。仕事帰りに、何度も、外から眺めた。値札を見て、ため息をついて、それでも、また次の週に見にいった。
(あれを着たら、わたしも、あの街に似合う人になれる気がしたんだ)
気がつくと、店の扉を押していた。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃいませ、お嬢様」
細い口ひげの店主が、もみ手をしながら近づいてきた。
「お目が高い。こちらは王都から取り寄せた天鵞絨でございます。この色は、今年の王都の貴婦人がたのあいだで大変な評判で」
「……おいくらですか」
「銀貨12枚でございます」
12枚。12万円。
頭の中で、勝手に言葉が並んでいった。
――ひと月、がんばったし。
――一度くらい、いいよね。
――これは、浪費じゃない。ご褒美だから。
――これを着たら、わたしは、少しは。
少しは、何だろう。
その先は、考えなかった。考えないようにした。
指先が、懐の革袋のひもにかかった。
胸の奥が、ふわっと熱くなる。甘くて、温かくて、少しだけ苦い熱。あの、予約確定のボタンを押す直前と、まったく同じ熱だった。
ひもを、ほどこうとした。
その手首を、横から、誰かがつかんだ。
◇ ◇ ◇
強い力ではなかった。でも、ふりほどけない、静かな力だった。
顔を上げると、一人の老紳士が立っていた。
背が高い。白いものの混じった灰色の髪を、きちんとうしろになでつけている。深い緑色の外套に、銀の握りのついた杖。古い紙と、インクのにおいがした。
いつから、そこにいたのだろう。店に入ったときには、気がつかなかった。老紳士は、わたしの手首をつかんだまま、穏やかな声で言った。
「その金で、君は、何を買うつもりだね」
店主が、さっと顔色を変えた。
「こ、これはこれは、グラナド様……」
老紳士は、店主のほうを見もしなかった。灰色の瞳が、まっすぐにわたしを見ていた。
「何を、って」
カッと、頬が熱くなった。
「ドレスです。見ればわかるじゃないですか。……ご褒美なんです。ひと月、がんばった、自分への」
「ご褒美、か」
老紳士は、ほんの少し、目を細めた。
「それにしては、ずいぶんと、泣きそうな顔をしている」
息が、止まった。
老紳士が、目で、わたしのうしろを示した。
店の壁に、大きな姿見がかかっていた。
赤いドレスの前に、一人の女が立っていた。土の色が落ちきらない、古いコート。少しやせた頬。
そして、その顔は。
笑っていなかった。うれしそうでも、なかった。叱られた夜に、一人でホテルの予約画面を見ていたときの――ワンルームの暗い部屋で、スマホの光に照らされていた、あの顔だった。
◇ ◇ ◇
老紳士は、そっと、わたしの手首を離した。
「答えは、今でなくていい」
そう言って、外套の内側から、小さな紙片を取り出した。古い紙に、細い字で、こう書かれていた。
『グラナド書房 裏通り、菩提樹の角』
「明日、その銀貨を持っておいで。一枚も、減らさずにな」
それだけ言うと、老紳士は、杖をついて、ゆっくりと店を出ていった。扉につけられた小さな鈴が、ちりん、と鳴った。
わたしは、しばらくその場に立ちつくしていた。
「あ、あの、お嬢様? ドレスのほうは……」
店主の声で、我に返った。
「……ごめんなさい。また、来ます」
◇ ◇ ◇
木漏れ日亭に帰ると、ニナが台所から顔を出した。
「おかえり。ねえ、何買ったの?」
「……何も」
「え、何も? なんで?」
答えられなかった。
台所の椅子では、マルタさんが、いつものように豆のすじを取っていた。
「マルタさん。グラナドさん、っていう人、知っていますか。灰色の髪で、緑の外套を着た……」
マルタさんの手が、止まった。
「ヴェルドの旦那かい。裏通りで古本屋をやってる」
「古本屋さん、ですか」
「今はね」
マルタさんは、豆を一粒、ざるに落とした。
「昔は、王都でいちばんの大商人だった人だよ。商工会のお偉方で、あの人が首を縦に振らなきゃ、王都の市場は一日も回らないって言われてた」
わたしは、懐の革袋を、ぎゅっと握りしめた。
◇ ◇ ◇
その夜、屋根裏の寝台の上に、銀貨を一枚ずつ並べた。16枚。一枚も、減っていない。二つの月の光を受けて、16枚の銀貨が、静かに光っていた。
(わたしは、何を買おうとしていたんだろう)
赤いドレスが欲しかったのか。それとも。
ポーチから、ホテルのカードキーを取り出した。紺色に、金の線。あの部屋で、わたしは、何を買っていたんだろう。
答えは、まだ出なかった。
ただ、姿見の中の、あの泣きそうな顔だけが、まぶたの裏から、どうしても消えなかった。明日、あの古本屋の扉をたたこう。銀貨を、16枚、全部持って。
ようこそ、木漏れ日亭へ。
ここまで旅をご一緒いただき、心から感謝申し上げます。
磨いた窓と、日なたのにおいのするシーツ。そして三角に折った掛け布は、「ここで眠っていいですよ」のしるしです。
莉子の物語は、ここからいよいよ、お金と心を整える旅に入ります。
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皆さまの★が、莉子とニナが朝いちばんに開ける窓の光になります。
次の章でも、極上のおもてなしをご用意してお待ちしております。




