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手取り16万の私が異世界で高級ホテルを開業したら、冷徹な公爵様が常連になりました 〜ホカンス狂いの元OLが届ける、極上の癒やしとご褒美タイム〜  作者: Hamin
第1章 木漏れ日亭の掃除婦

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5話 眠れない剣士と、聞くだけの夜

木漏れ日亭で働きはじめて、半月がたった。


朝は、ニナと二人で、パンを焼くにおいの中で目を覚ます。窓を開けて、ふとんを干して、シーツを替える。洗面用の水差しには、銀穂草《ぎんすいそう》の葉を一枚だけ浮かべる。顔を洗うと、すっと鼻に抜ける香りがするように。


ささいなことばかりだった。でも、ささいなことは、ちゃんと伝わる。


八つの客室のうち、埋まっていたのは三つだけだったのが、今では六つ。

「シーツが日なたのにおいがする宿」と、行商人たちのあいだで噂になっているらしい。


ニナは、三角の折り方を、三日で覚えた。今ではわたしより手早いくらいだ。口の悪さは、相変わらずだけれど。


◇ ◇ ◇


ただ、一つだけ、困ったことがあった。


「また、あの人だよ」


朝食の片づけをしながら、ニナが二階を見上げて顔をしかめた。


「ゆうべも叫んでた。隣の部屋のお客さん、文句言って、出ていっちゃった」


二階のいちばん端の部屋に、ブラムさんという冒険者が泊まっている。40歳を少し過ぎたくらい。熊みたいに大きな体で、左の頬に、古い傷が一本、斜めに走っている。もう10年も、リンデンに来るたびに、この宿に泊まっている常連さんだそうだ。


そのブラムさんが、毎晩、夜中にうなされる。獣みたいな声で叫んで、飛び起きる。壁を拳でたたく音がすることもある。


「ばあちゃん、もう断ろうよ。あの人がいたら、ほかのお客さんが逃げちゃう」


台所の椅子で豆のすじを取っていたマルタさんは、しばらく手を止めて、ため息をついた。


「……あの人はね、前は、あんなじゃなかったんだよ」


それ以上は、何も言わなかった。


◇ ◇ ◇


その夜も、声がした。


真夜中。屋根裏で眠っていたわたしは、床板ごしに響いた叫び声で、飛び起きた。それから、どすどすと階段を下りていく、重い足音。わたしは肩掛けを羽織って、そっと階段を下りた。


食堂は、真っ暗だった。窓から差しこむ二つの月の光だけが、テーブルの輪郭を青白く浮かび上がらせている。


その奥の椅子に、ブラムさんが座っていた。


ひざの上に、抜き身の剣を横たえていた。大きな背中を丸めて、じっと、床の一点を見つめている。わたしに気づいたのか、ブラムさんは、ゆっくりと顔を上げた。


「……起こしちまったか。悪いな」


かすれた、低い声だった。


わたしは、首を横に振った。何か言おうとして、やめた。


かわりに、台所へ行って、かまどの火をおこした。小鍋に、山羊《やぎ》の乳を注ぐ。ふつふつと縁に泡が立つ手前で火から下ろして、蜂蜜《はちみつ》をひとさじ。


木のカップを、ブラムさんの前に置いた。


それから、テーブルをはさんだ向かいの椅子に、黙って座った。


◇ ◇ ◇


ブラムさんは、カップとわたしの顔を、何度か見比べた。


「……何も、聞かねえのか」

「聞いてほしいですか」


ブラムさんは、ふん、と鼻を鳴らした。そして、両手でカップを包んで、ひと口飲んだ。湯気が、傷のある頬をなでて、消えていった。


長い沈黙だった。


台所のかまどで、燃えさしが、ちりちりと小さな音を立てていた。窓の外で、風が、菩提樹《ぼだいじゅ》の葉をさわさわと揺らしている。


店で働いていたころのことを、思い出していた。


洋服を売るのが、ずっと苦手だった。似合いますよ、今年の流行りですよ、と言えば言うほど、お客様の顔は曇っていった。


いちばんたくさん売れた日は、わたしがいちばんしゃべらなかった日だった。お客様が、なぜ今日この店に来たのか。誰に会うための服なのか。何が不安なのか。黙って聞いているうちに、お客様は自分で、「やっぱり、こっちにします」と言って、自分にぴったりの一枚を選んだ。


答えは、たいてい、その人の中にある。わたしにできるのは、それが出てくるまで、そばで待つことだけだった。


「……眠るのが、こわくてな」


ぽつりと、ブラムさんが言った。


わたしは、うなずいた。


「眠るのが、こわい」


ブラムさんの言葉を、そのまま、静かにくり返した。


「ああ。目をつぶると、あいつの顔が出てくる」


◇ ◇ ◇


ブラムさんは、ゆっくりと話しはじめた。


半年前の冬。北の山すそで、霜牙《そうが》という魔獣の群れを狩る仕事があったこと。自分が率いていた五人のパーティに、ティルという18歳の若者がいたこと。いつも笑っていて、口うるさくて、「ブラムさん、ひざ悪いんだから無理すんなよ」が口ぐせだったこと。


吹雪の中で、群れに囲まれたこと。ひざが言うことをきかず、ブラムさんの足が止まったこと。その前に、ティルが飛びこんできたこと。


「あいつは、俺をかばって死んだ。……俺が、足を止めたせいでな」


ブラムさんの大きな手が、カップを握りしめていた。慰めの言葉なら、いくつも浮かんだ。あなたのせいじゃない。ティルさんは、きっと恨んでいない。


でも、それは、わたしが知っていることではなかった。わたしは、ティルさんに会ったことがない。


だから、言わなかった。


「……ずっと、自分を責めてきたんですね。半年も、一人で」


ブラムさんは、答えなかった。かわりに、肩が、小さく一度だけ揺れた。


「わたしには、ティルさんのことも、北の吹雪のことも、わかりません」


自分の声が、少しふるえていた。


「でも、夜がこわい気持ちは、少しだけわかります。わたしも、ここに来てから、毎晩、目をつぶるのがこわいので」


それは、ほんとうのことだった。屋根裏で目を閉じるたびに、このまま二度と帰れなかったらと思って、胸が苦しくなる。


ブラムさんは、驚いたようにわたしを見た。


「……あんたもか」

「はい」


ブラムさんは、少しだけ、笑った。笑ったというより、口の端が、ほんのわずかにゆるんだ。


◇ ◇ ◇


それから、また長い沈黙があった。


山羊の乳が、カップの中で、すっかりぬるくなっていた。


「ティルのやつはな」


ブラムさんが、ひざの上の剣に、目を落とした。


「ずっと、俺に、引退しろってうるさかったんだ。いいかげん剣なんか置いて、どこかの町で、うまい飯でも食って暮らせってな」


月の光が、剣の刃の上を、白く流れていた。


「あいつが最後に言った言葉も、それだった。……『ブラムさん、もう、いいんだって』」


ブラムさんの声が、途切れた。


わたしは、待った。何も足さず、何も引かずに。


「……もう、置いていいのかもしれねえな」


小さな声だった。でも、それは、誰かに言わされた言葉ではなかった。ブラムさん自身の中から、出てきた言葉だった。


「そう、思うんですね」

「ああ」


ブラムさんは、剣をさやに収めた。かちん、と、静かな音がした。


「……思う」


◇ ◇ ◇


次の日、ブラムさんは、お昼すぎまで起きてこなかった。二階で物音がしないので、ニナが心配して部屋の前まで見にいくと、中から、地鳴りみたいないびきが聞こえてきたそうだ。


「ばあちゃん、あの人、寝てる。ぐうぐう寝てる!」


ニナが目を丸くして階段を駆け下りてくると、マルタさんは、豆のすじを取る手を止めて、しばらく天井を見上げていた。それから、何も言わずに、目もとを指でぬぐった。夕方、ブラムさんは、さっぱりした顔で台所に現れた。


「ばあさん。今度の仕事で、最後にする」


マルタさんが、ゆっくりとうなずいた。


ブラムさんは、それから、わたしのほうを向いた。大きな手が、ぽん、と、一度だけわたしの頭に乗った。


「あんたの宿は――いや、ばあさんの宿か。ここは、いい宿だな」


「……ありがとうございます」


「引退したら、どこかの宿の用心棒でもやるか。腕っぷしだけは、まだ余ってる」


そう言って笑う顔は、昨日の夜とは、別の人みたいだった。


◇ ◇ ◇


その夜、屋根裏の寝台で、わたしはなかなか眠れなかった。


いやな眠れなさでは、なかった。


わたしは、ブラムさんに、何も教えていない。何も解決していない。ただ、ぬるい山羊の乳を一杯出して、向かいに座って、聞いていただけだ。それなのに、ブラムさんは、自分で答えを見つけて、ぐっすり眠った。


(……役に、立てたのかな)


胸の奥が、ほかほかと温かかった。


代わりはいくらでもいる、と言われ続けてきた。自分でも、そう思っていた。でも、昨日の夜、あの暗い食堂で、ブラムさんの向かいに座っていたのは、たしかにわたしだった。


窓の外で、菩提樹の葉が、さわさわと鳴った。


わたしは、ポーチを枕もとに置いて、目を閉じた。その夜は、少しだけ、目をつぶるのがこわくなかった。

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