4話 木漏れ日亭には、木漏れ日が入らない
「――ちょっと! あんた、誰!」
鋭い声で、目が覚めた。
馬小屋の戸口に、女の子が立っていた。13歳か、14歳くらい。赤茶色の髪を、ぼさぼさのまま一つに結んでいる。両手で握っているのは、干し草をすくう大きなフォークだった。とがった先が、まっすぐわたしのほうを向いている。
「泥棒? 馬なら盗ませないからね! ばあちゃん! ばあちゃーん!」
「ち、ちがいます! 泥棒じゃないです!」
干し草まみれのまま、わたしは両手を上げた。
足音がして、女の子のうしろから、小柄なおばあさんが顔を出した。白髪をきっちりまとめて、片手に杖をついている。右のひざをかばうように、少し体をかたむけていた。おばあさんは、わたしの顔と、破れたストッキングと、胸に抱えたピンクのポーチを、ゆっくりと見た。
「ニナ。フォークを下ろしな」
「でも、ばあちゃん」
「泥棒は、馬の横で泣きながら寝やしないよ」
わたしの頬には、きっと、涙の跡が残っていたのだろう。恥ずかしくて、うつむいた。
◇ ◇ ◇
台所の、すすけたテーブルで、おばあさん――マルタさんは、木の椀に白湯を注いでくれた。
「で。どこから来たんだい」
「……遠いところから、です。気がついたら、荒れ地にいて」
それ以上は、うまく説明できなかった。マルタさんは、それ以上は聞かなかった。
「金は」
「ありません」
「行くあては」
「……ありません」
正直に答えるたびに、自分がどんどん小さくなっていく気がした。テーブルの向こうで、ニナと呼ばれた女の子が、腕を組んでわたしをにらんでいる。
「ばあちゃん、うちだってお客、三人しかいないんだよ。こんな人、置いとく余裕なんか――」
「掃除を、させてください」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
二人が、同時にわたしを見た。
「宿代のかわりに、働かせてください。掃除でも、洗濯でも、何でもします。……寝る場所は、馬小屋でもいいので」
言い終わってから、指先が冷たくなった。断られたら、どうしよう。マルタさんは、白湯をひと口飲んで、しばらく黙っていた。それから、杖で、天井をこつんとたたいた。
「屋根裏が空いてる。三日だ。三日、使ってみて、役に立たなけりゃ出ていってもらう」
「……はい! ありがとうございます!」
ニナが、「えーっ」と声を上げた。
◇ ◇ ◇
ニナに案内されて、宿の中を見て回った。
木漏れ日亭は、二階建てだった。一階に、台所と食堂。二階に、客室が八つ。
食堂に入ったとたん、鼻の奥に、つんとしたにおいがきた。古い油と、こぼれた酒と、湿った木のにおい。床は、歩くたびに靴の裏がぺたりと張りつく。窓は、長年の煙と油で黄色くくもって、外の景色がほとんど見えなかった。
「……これ、いつから掃除してないの?」
「してるよ! あたしが毎日、掃いてる」
ニナが、むっとして言い返した。
「ばあちゃん、冬にひざを悪くしてから、二階に上がれないの。だから、あたし一人で、料理も洗濯も、全部やってるんだよ」
わたしは、はっとして、ニナを見た。14歳の女の子が、一人で、宿一軒を。
「……ごめん。責めたんじゃないの」
ニナは、ふんと横を向いた。その横顔が、少しだけ、ひよりに似ていると思った。
客室は、もっとひどかった。寝台の藁のふとんは、湿気を吸って、すえたにおいがした。シーツには、黄ばんだしみ。枕をめくると、小さな黒い点が、ぱらぱらと動いた。
(ダニだ)
窓は、ここもくもっていた。部屋全体が、薄暗い黄色の膜に包まれているみたいだった。
(……なんでわたし、異世界まで来て、掃除してるんだろう)
ふと、そう思った。
代わりはいくらでもいる。あの言葉が、また、胸の奥で冷たく光った。ここでも、わたしは誰かの代わりの、使い捨ての手なんじゃないか。
でも。
わたしは、知っていた。
ほんとうに整えられた部屋に入ったとき、人の体から、どんなふうに力が抜けるのか。窓から光が入って、シーツが乾いた日なたのにおいで、枕がふかふかで。それだけで、人は、少しだけ自分を好きになれる。何十回も、泊まる側として、そのことを体で覚えてきた。
「ニナちゃん」
「……ちゃん、いらない」
「ニナ。酢って、ある? それと、いちばん大きな鍋と、使っていい古い布を、ありったけ」
◇ ◇ ◇
まず、窓だった。
ぬるま湯に、マルタさんが漬物用にとってあった葡萄酢を混ぜる。古い麻の布をひたして、固くしぼって、上から下へ、一方向に拭く。黄色い汚れが、布にじわりと移っていく。それから、乾いた布で、くもりが残らないように磨き上げる。
一枚目の窓が透きとおったとき、ニナが、「あ」と小さく声をもらした。
次は、ふとんだった。
藁のふとんを、ニナと二人で、一枚ずつ裏庭へ運び出す。物干しの縄にかけて、太陽に当てる。ほうきの柄で、ばん、ばん、とたたく。白いほこりが、日の光の中に舞い上がった。裏返して、また日に当てる。
シーツは、大鍋で煮た。マルタさんが、かまどの灰で作った灰汁の上澄みを教えてくれた。こちらの世界の、洗剤みたいなものらしい。ぐらぐら煮立つ湯の中で、シーツが白い魚みたいにゆらゆらと泳いだ。
「虫よけになる草って、ありますか」
台所のマルタさんに聞くと、マルタさんは、裏庭の隅を杖で指した。銀色がかった、背の低い草が、かたまって生えていた。荒れ地で見たのと、同じ草だ。
「銀穂草だよ。乾かして袋に詰めとくと、虫が寄らない」
一本ちぎって、指でもんでみた。すうっとした、清潔な香りが立ちのぼった。ラベンダーに、少しだけ似ている。
(これ、使える)
摘んだ銀穂草を、束にして軒下に干した。乾いたものは、小さな布袋に詰めて、ふとんの下と、枕の中に一つずつ。床は、膝をついて、たわしでこすった。ぺたぺたしていた床板が、木の色を取り戻していく。
腕が、だるかった。腰も、ひざも、痛かった。売り場で一日中立っているのとは、ちがう痛さだった。
でも、不思議と、いやではなかった。
◇ ◇ ◇
最後に、寝台を整えた。
手が、迷わずに動いた。思えば、ホテルから帰った次の日には、いつも自分のワンルームのベッドで、あの部屋のベッドメイキングをまねしていた。YouTubeで、ホテルの人の手もとの動画を何度も止めては、シーツの角の折り方や、枕の立て方を研究した。安いシーツでも、角をきっちり折ると、あの部屋に少しだけ近づける気がした。それは、わたしのいちばん好きな、ひとり遊びだった。
まさか、それが異世界で役に立つなんて。
日なたのにおいのするふとんを敷いて、煮て干したシーツをかける。シーツの端は、ふとんの下にしっかりと折りこむ。角は、封筒の角みたいに、斜めにきっちりと。しわを、手のひらで、すみからすみまでのばす。
枕を、両手でぽんぽんとたたいて、ふくらませる。そして、掛け布の手前の角を、三角に折り返した。表参道のホテルで、いつもわたしを迎えてくれた、あの三角。
「……なにこれ」
いつのまにか、戸口にニナが立っていた。腕にシーツを抱えたまま、寝台の三角を、ふしぎそうに見つめている。
「これはね、しるし」
「しるし?」
「ここで、眠っていいですよ、っていう、しるし」
ニナは、しばらく黙っていた。それから、そっと手を伸ばして、三角の角に、指先でふれた。
「……変なの」
そう言ったニナの口もとは、ほんの少しだけ、ゆるんでいた。
◇ ◇ ◇
杖の音が、階段を上がってきたのは、夕方近くだった。こつ、こつ、と、一段ずつ。ひざの悪いマルタさんが、手すりにすがりながら、二階まで上がってきたのだ。
「ばあちゃん! 無理しちゃだめだって!」
「うるさいね。自分の宿がどうなったか、自分の目で見なきゃ気がすまないんだよ」
マルタさんは、いちばん奥の部屋の戸口に立った。
そして、動かなくなった。
磨き上げた窓の外には、中庭に立つ大きな菩提樹が見えた。かたむいた午後の日が、その葉のすきまを通りぬけて、部屋の中に差しこんでいた。
床の上で、光が揺れていた。
丸い、小さな光が、いくつも、いくつも。風が葉を揺らすたびに、光の粒も、木の床の上で、寝台の白いシーツの上で、ちらちらと踊った。
「……ああ」
マルタさんの口から、ため息みたいな声がこぼれた。
「この宿の名前はね、死んだ亭主がつけたんだ。40年前、この部屋に、こういう光が入っててね」
杖を握るしわだらけの手が、少しふるえていた。
「いつから、見えなくなってたんだろうねえ。……忘れてたよ。木漏れ日亭は、木漏れ日の宿だったんだ」
わたしは、何も言えなかった。ただ、床の上で揺れる光の粒を、マルタさんといっしょに見ていた。その夜、いちばん奥の部屋に泊まった行商人が、食堂でマルタさんに言った。
「ばあさん、ここ、こんなにいい宿だったか?」
◇ ◇ ◇
夕食は、豆と燻製肉のスープと、黒っぽいパンだった。かまどの火で温まった台所で、三人でテーブルを囲んだ。スープから、香草と、煙のにおいが立ちのぼる。ひと口すすると、塩気が、くたくたの体にしみわたった。
「三日って言ったけどね」
マルタさんが、パンをちぎりながら言った。
「好きなだけいな。屋根裏は、あんたの部屋だ」
スプーンを持つ手が、止まった。
「……いいんですか」
「いいも悪いも、あんたが今日やったことに、ちゃんと見合ってないくらいだよ」
ニナが、横で、スープをすすりながらぼそりと言った。
「明日、あたしにも、あの三角の折り方、教えて」
わたしは、うなずいた。うなずいたら、また涙が出そうになって、あわててパンをかじった。その夜、屋根裏の小さな窓から、二つの月が見えた。
ゆうべ、馬小屋で見たのと同じ月だった。でも、今夜は、少しだけちがって見えた。




