3話 荒野とアメニティポーチ
最初に感じたのは、においだった。
乾いた土と、日なたの草のにおい。それから、頬に当たる、ざらりとした砂の感触。
目を開けると、空があった。
雲ひとつない、高くて青い空。渋谷のビルのすきまから見上げる空とは、広さがまるでちがう。端から端まで、何もさえぎるものがない。
「……え?」
体を起こすと、手のひらの下で、赤い土がぽろぽろと崩れた。
見わたすかぎり、赤茶けた荒れ地だった。ところどころに、銀色がかった背の低い草が、風に揺れている。遠くには、青くかすんだ山なみ。駅のホームも、蛍光灯も、電車も、どこにもない。
(夢……?)
頬をつねってみた。ちゃんと、痛かった。
◇ ◇ ◇
自分の体を、上から順に確かめた。
コートは土だらけ。ストッキングは、両方のひざが破れている。右のパンプスは、かかとが根もとから折れていた。あの階段で踏みはずしたときだ。
トートバッグが、ない。
スマホも、財布も、定期も、家の鍵も、全部あの中だった。まわりの草むらを這うようにして探したけれど、見つかったのは、小さな石ころと、乾いた虫の抜け殻だけだった。
胸に抱えていたものだけが、残っていた。
くすんだピンクのポーチ。
ファスナーを開ける手が、震えた。
ラベンダーのピローミスト。ふたがどこかへ行ってしまって、中身が半分ほどこぼれている。白いお茶の香りのハンドクリーム。入浴剤が3包。シルクのアイマスクと、耳栓。
小さなガラスの香水瓶。そして、紺色に金の線の入った、ホテルのカードキー。
「……これだけ?」
声に出したら、笑えてきた。笑っているのに、のどの奥が、きゅっと痛くなった。お金でもスマホでもなく、とっさにつかんだのが、これだった。手取り16万円のわたしが、最後に守ったのは、ハンドクリームとアイマスク。
(ばかみたい)
それでも、ポーチを抱える腕から、力が抜けなかった。
◇ ◇ ◇
じっとしていても、何も始まらない。
わたしは、折れたほうのパンプスのかかとを、思いきって反対側も石に打ちつけて折った。これで、歩きづらいけれど、左右の高さだけはそろった。ぺたんこの、不格好な靴。
太陽の高さからすると、たぶん、お昼を少し過ぎたくらい。山とは反対の方向へ、なだらかに土地が下っている。水は、低いほうへ流れるはずだ。
歩きはじめて、どれくらいたっただろう。
のどが、焼けるように渇いた。唇がかさかさになって、舌が口の中に張りつく。売り場で一日立ちっぱなしの日も、こんなにのどが渇いたことはなかった。
太陽が山のほうへかたむきかけたころ、足もとの景色が変わった。赤い土の上に、二本の、平行な溝が続いている。
車輪の跡だ。
(道だ。人が、通る道)
それだけで、涙が出そうになった。
◇ ◇ ◇
道に沿って歩くうちに、空の色が、ゆっくりと変わっていった。青から、すみれ色へ。山の端が、燃えるような橙色に縁どられる。銀色の草が、夕日を受けて、一面、金色に光った。
きれいだった。こんなときなのに、きれいだと思ってしまった。
そして、東の空に、月が昇った。
白い月が、一つ。その少し上に、もう一つ。青白くて、少し小さな月。
足が、止まった。
二つ、ある。
見まちがいかと思って、何度もまばたきをした。でも、何度見ても、月は二つだった。白いのと、青いの。並んで、静かに、こちらを見下ろしている。
「……ここ、日本じゃ、ない」
日本どころか。たぶん、地球ですら、ない。ひざから、力が抜けた。道の真ん中に座りこんで、わたしはポーチを抱きしめた。
帰りたい。あのワンルームに。給与明細に。代わりはいくらでもいる職場に。あんなに逃げ出したかった場所なのに、今は、それが全部、恋しかった。
◇ ◇ ◇
ごとん、ごとん、と、低い音が近づいてきたのは、空がすっかり暗くなったころだった。
顔を上げると、ランプの灯りが一つ、揺れながらこちらへ向かってくる。荷物を山のように積んだ荷馬車だった。引いているのは、耳の長い、ずんぐりした灰色の動物。ロバに似ているけれど、ロバより一回り大きい。
荷馬車は、わたしの数歩手前で止まった。
「おい。そこで何してる」
御者台から、太い声がした。ランプが、こちらに向けられる。まぶしくて、目を細めた。
ひげもじゃの、丸い顔の男の人だった。たぶん、50歳くらい。分厚い毛皮の上着を着て、片手で手綱を、もう片方の手を腰の短い剣にかけている。
不思議なことに、言葉はわかった。耳に入ってくる音は、日本語ではない。それなのに、意味だけが、まるで字幕みたいに頭の中に浮かんでくる。
「……み、道に、迷って」
自分の口から出た声も、日本語ではない音になっていた。男の人は、わたしの破れたストッキングと、ぺたんこのパンプスと、土だらけのコートを、順番に見た。
「盗賊の囮ってわけでも、なさそうだな」
剣にかけていた手が、ゆっくり離れた。
「その格好で、一人で荒れ地を歩いてきたのか。……ほら」
投げてよこされたのは、革の袋だった。中で、水が、たぷんと揺れた。
「飲め。ゆっくりな」
栓を抜いて、口をつけた。革のにおいの移った、ぬるい水。それなのに、今まで飲んだどんな高いミネラルウォーターより、おいしかった。のどを通って、胸の奥まで、しみこんでいく。
「……ありがとう、ございます」
◇ ◇ ◇
男の人は、オットーという名前の行商人だった。荷台には、塩と布と、乾かした香草の束が積まれていた。
「リンデンの町まで乗せてってやってもいいが、こっちも商売なんでな。何か払えるもんはあるか」
わたしは、ポーチを抱えたまま、首を横に振った。お金は、一円も――ここのお金は、一枚も持っていない。
(何か。何か、ないの)
ふと、オットーさんの手が目に入った。
手綱を握る、分厚い手。指の関節がひび割れて、ところどころ、赤く血がにじんでいた。荒れ地の乾いた風と、毎日の荷物の上げ下ろしのせいだろう。わたしは、ポーチからハンドクリームを取り出した。
「あの……手を、貸してもらえますか」
「手?」
けげんな顔で差し出された手のひらに、白いクリームを少しだけ出した。
店にいたころ、新しいハンドクリームが入るたびに、テスターでお客様の手に塗った。手の甲から、指の一本一本へ。関節のしわに沿って、親指で、くるくると小さく円を描くように。最後に、手首の内側を、両手でそっと包む。
白いお茶の香りが、夜の空気の中に、ふわりと広がった。
オットーさんは、しばらく、ぽかんとしていた。
それから、自分の手を、鼻先に持っていった。
「……こりゃあ、なんだ。王都の貴婦人みてえな匂いがする」
「手のための、薬みたいなものです。ひび割れが、少し楽になると思います」
「痛くねえ」
オットーさんは、握ったり開いたりしながら、自分の手をまじまじと見つめた。
「何年も、冬はずっと痛かったんだぜ。……おい、あんた、何者だ?」
何者。わたしは、少し考えた。
「ただの、販売員です」
オットーさんは、わけがわからないという顔をしたまま、大きな声で笑った。
「わかった。乗りな、ハンバイインさん。運賃は、今ので十分だ」
◇ ◇ ◇
荷台の、布の束のあいだに座らせてもらった。
がたがたと揺れる荷馬車の上で、オットーさんはいろいろなことを教えてくれた。
ここは、アウレリア王国という国の、西の外れ。リンデンは、冒険者と行商人が集まる宿場町。お金は、金貨と銀貨と銅貨。いちばん安い宿でも、ひと晩、銅貨5枚はかかる。
「銅貨5枚って、パンなら何個くらい買えますか」
「パン? そうだな、大きい丸パンなら、10個ってとこか」
丸パン10個。頭の中で、勝手に計算が始まる。パン1個が500円くらいだとしたら、銅貨1枚が、だいたい千円。
(ひと晩、5千円。……カプセルホテルくらい、かな)
こんなときでも、宿の値段を円に直している自分が、少しおかしかった。
「金がねえなら、木漏れ日亭に行ってみな」
「こもれびてい?」
「裏通りの、ぼろい宿さ。女将のマルタばあさんは口は悪いが、情には厚い。俺も若いころ、ツケで泊めてもらったことがある」
◇ ◇ ◇
リンデンの町に着いたのは、二つの月が、空の高いところまで昇ったころだった。石畳の道。木と漆喰でできた、背の低い家々。酒場の窓から、笑い声と、肉を焼く煙のにおいが漏れてくる。
オットーさんと別れて、教えられた裏通りへ入った。木漏れ日亭は、すぐに見つかった。軒先に、木の看板が下がっている。風に揺れるたびに、きい、きい、と鳴った。
扉は、もう閉まっていた。窓の灯りも、消えている。
わたしは、扉の前に立って、手を上げた。
たたけば、きっと、誰かが出てきてくれる。でも。
――こんな時間に、何。
――お金もないのに?
――悪いけど、うちも余裕ないのよ。
まだ誰にも言われていない言葉が、次々に頭の中で鳴った。上げた手が、扉の手前で、どうしても止まってしまう。
(……迷惑、だよね)
結局、わたしは手を下ろした。
宿の裏手に、小さな馬小屋があった。戸は、半分開いたままだった。中では、栗色の馬が一頭、のんびりと干し草を食べていた。
「……ちょっとだけ、ごめんね」
馬は、大きな目でちらりとわたしを見て、また干し草に顔をうずめた。
隅に積まれた干し草の上に、体を丸めた。ちくちくする。土と、草と、馬の汗のにおい。コートの前をかき合わせても、夜の冷たさが、背中からしみこんでくる。
ポーチを開けて、ハンドクリームのふたを開けた。白いお茶の香り。表参道のホテルの、あの部屋の、洗面台に置いてあったのと同じ香り。
吸いこんだとたん、涙があふれた。
声を殺して、泣いた。馬が、ぶるる、と鼻を鳴らした。
(帰りたい)
(帰りたい。でも、どこに?)
あのワンルームは、帰る場所だったんだろうか。ほんとうに安心して眠れた夜なんて、この何年かで、何回あっただろう。
泣きつかれて、まぶたが重くなっていく。
戸のすきまから、月の光が、細く差しこんでいた。白い光と、青い光が、干し草の上で、二本の線になって並んでいる。
その光の向こうで、看板が、きい、と鳴った。
『木漏れ日亭』
(明日、あの扉を、たたこう)
それが、異世界で眠る前に、わたしが決めた、最初のことだった。




