2話 金曜深夜、終電のホーム
「神楽坂さんさあ。こういうの、困るんだよね」
金曜日の、午後9時半。閉店後の売り場には、BGMのかわりに、空調の低いうなりだけが残っていた。
店長は、きれいに整えたネイルの指先で、タブレットの画面をわたしのほうに向けた。来週から始まる冬物セールの、目玉のニット。白とグレーとキャメル。その発注数が、それぞれ一桁ずつ少なかった。
「入力したの、神楽坂さんでしょ」
「……はい」
入力したのはわたしだ。でも、その数字を決めたのは、店長だった。三日前の朝礼のあと、「とりあえず去年と同じで」と言って、走り書きのメモを一枚渡された。去年の数字を、確かめもせずに。
そう言えばいい。わかっている。
「すみません。わたしの確認不足です」
口から出たのは、いつもの言葉だった。
店長は、ふう、と長い息をついた。
「まあ、本部にはわたしから言っとくけどさ。代わりはいくらでもいるんだから、そういう意識でやってくれる?」
代わりは、いくらでもいる。
その言葉は、胸の真ん中に、冷たい釘みたいに刺さった。痛い、と思う前に、わたしは頭を下げていた。
「はい。気をつけます」
◇ ◇ ◇
バックヤードの段ボールの山の向こうで、後輩のひよりが、ハンガーを抱えたまま固まっていた。三浦ひより。今年の春に入った、21歳。ほんとうは、あのメモを入力用に書き写したのは、ひよりだった。
「莉子さん、あの、さっきの、私が――」
「いいの、いいの」
わたしは笑って、ひよりの腕からハンガーの束を受け取った。
「ひよりちゃん、今日は早番からでしょ。もう帰りな。セールの売り場替え、わたしがやっとくから」
「でも」
「いいから。顔、真っ白だよ。ちゃんと何か食べて、寝てね」
ひよりは泣きそうな顔で何度も頭を下げて、裏口から帰っていった。
一人になったバックヤードで、わたしは段ボールを開けた。新しいニットの、羊毛と染料のにおい。ハンガーの向きをそろえる。首の部分を、全部同じ方向に。肩の線が、まっすぐ一列に並ぶように。
こういうことだけは、昔から得意だった。お父さんが、そういう人だったから。
老舗の文具メーカーで営業をしている父は、贈り物の包装紙の角を、いつも定規で測ったみたいにぴたりと折った。机の上のペンは、細い順に、キャップの向きをそろえて並べた。子どものころ、その手を見ているのが好きだった。
(……そういえば、もう半年くらい、実家に帰ってないな)
ハンガーの最後の一本をかけたとき、壁の時計は10時を回っていた。
◇ ◇ ◇
渋谷の夜は、金曜日がいちばん騒がしい。
スクランブル交差点のまわりには、飲み会帰りの人たちの笑い声と、焼き鳥のたれのにおいと、どこかの店から漏れてくる重たい低音があふれていた。11月の風は、思っていたより冷たい。コートの襟を立てると、首すじに残っていた売り場のほこりっぽい空気が、ようやく抜けていった。
駅へ向かう人の流れの中で、スマホが震えた。
『給与明細が発行されました』
わかっている数字を、わざわざ確かめる必要はない。それでも、指は勝手にアプリを開いていた。
『差引支給額 160,412円』
家賃、5万8千円。光熱費とスマホで、2万円ちょっと。それから、毎月1万円だけ、実家に入れている。残りで、食べて、通勤して、服を買って、生きる。
社割があっても、売り場に立つ服は自分で買わなければいけない。会社のブランドを着て、お客様の前に立つのも、仕事のうちだから。
――そして、わたしには、もう一つの出費がある。
信号待ちのあいだに、別のアプリを開いた。ホテルの予約サイト。
何も考えなくても、指が覚えている。表参道の、外資系のホテル。今夜、空いている部屋。18階。窓から都会の夜景が見える、いちばん小さいデラックスルーム。
『1泊 32,000円(税・サービス料込)』
ホテルで過ごす、バカンス。略して、ホカンス。もとは韓国で生まれた言葉で、「ホテル」と、フランス語で休暇を意味する「バカンス」をくっつけたものらしい。遠くへ旅に出なくても、ホテルの中だけで休暇を楽しむ。SNSでは、みんながそう呼んで、きらきらした写真を載せている。でもわたしは、あの部屋の写真を、一枚も撮ったことがない。誰かに見せたくて、泊まっていたわけではなかったから。
ここに泊まった夜のことを、わたしは全部覚えている。
チェックインのとき、名前を呼んでくれる声。部屋の扉を開けた瞬間の、白い花みたいな香り。ベッドに腰を下ろすと、体がゆっくり沈んで、それから、ふわりと受けとめられる感じ。夜、ターンダウンのあとに、掛け布の角が三角に折られていて、枕もとに小さなチョコレートと、手書きのカードが一枚。
『おやすみなさいませ。素敵な夜を』
あの部屋の中でだけ、わたしは、名前で呼ばれる人だった。誰かの代わりの、使い捨ての手ではなく。「神楽坂様」として、待っていてもらえる人だった。
(今夜。ひと晩だけ)
指が、予約ボタンの上で止まった。
今月のカードの引き落としは、まだ終わっていない。先月も、その前の月も、同じことを思った。もうやめよう、今月こそ、って。
でも、今日は。今日だけは。
『ご予約が確定しました』
画面に表示された文字を見て、胸の中で、何かがぱちんと弾けた。甘くて、温かくて、少しだけ苦いもの。
残高は、見ないことにした。
◇ ◇ ◇
スマホが、もう一度震えた。今度はLINEだった。
『お母さん:蒼の就活のスーツ代、少し出せない? お父さんには内緒で』
続けて、もう一通。
『お母さん:あんた、まだホテルなんかにお金使ってるんじゃないでしょうね』
わたしは、ひとりで小さく笑った。お母さんは、いつも、いちばん痛いところを、いちばん正しい言葉で言う。
弟の蒼は、大学3年生。わたしとちがって、何でも要領よくこなす子だ。きっと、どこかいい会社に決まるのだろう。
わたしが高校をやめたのは、17歳になる少し前だった。お父さんの会社のボーナスが出なくなって、台所でお母さんが通帳を見ながら黙りこんでいた冬。
「わたし、働くよ。蒼は大学行きたいんでしょ」と、自分から言った。
誰も、止めなかった。止めてほしかったのかどうか、今でもよくわからない。
『莉子:了解。来週振り込むね』
既読がつく前に、アプリを閉じた。二通目には、返事をしなかった。
◇ ◇ ◇
表参道のホテルに着いたのは、10時半を少し過ぎたころだった。回転扉を抜けると、白い花の香りがした。フロントの女の人が、顔を上げて、ほほえんだ。
「神楽坂様、お待ちしておりました」
それだけで、胸の奥の、冷たい釘が、少しだけゆるんだ。
18階の、いちばん小さいデラックスルーム。窓の外に、東京の夜景が、光の海みたいに広がっていた。紺色に金の線の入ったカードキーを、ポーチの中にしまう。ルームサービスは高いから、夕ごはんは、駅前のコンビニで買ったおにぎりと、サラダと、小さなプリン。それを、窓ぎわのテーブルに並べて、夜景を見ながら食べた。
プリンのふたを開けたとき、スマホが鳴った。
画面には、『店長』の二文字。
(……見なかったことに、しよう)
一度、切れた。二度め。三度め。わたしは、ため息をついて、通話のボタンを押した。
「神楽坂さん? ごめん、今どこ? 本部が、明日のセールの値札のデータ、全部まちがえて流したの。朝の開店までに、売り場の値札を貼りかえないと。わたしも、今から店に行くから」
電話の向こうで、店長の声が、めずらしく焦っていた。
「……わかりました。すぐ行きます」
電話を切ってから、わたしは、食べかけのプリンを見つめた。それから、スプーンを置いて、コートを羽織った。部屋を出る前に、お母さんのLINEをもう一度開いた。二通目に、ようやく、返事を打った。
『莉子:ごめん。今夜も、表参道のホテル。でも、これから店に戻る。仕事』
既読は、つかなかった。もう、寝てしまったのだろう。
部屋の扉が、背中で、かちりと閉まった。
◇ ◇ ◇
それから終電の間際まで、店長と二人で、売り場じゅうの値札を貼りかえた。
白いニット。グレーのニット。キャメルのニット。一枚ずつ、古いシールをはがして、新しいシールを、まっすぐに貼る。店長は、黙々と手を動かしていた。夜中の売り場に、シールをはがす、ぴりっ、ぴりっ、という音だけが響いた。
最後の一枚を貼りおえたとき、店長が、ぽつりと言った。
「……今日、ごめんね。メモの数字、わたしのまちがいだった」
わたしは、驚いて、店長の顔を見た。店長は、こちらを見ないまま、壁の時計を指さした。
「ほら、もう終電。早く帰りな」
◇ ◇ ◇
終電まで、あと4分。
改札を抜けると、構内放送の声がやけに遠く聞こえた。階段の上から、ホームの白い蛍光灯が見える。ちょうど、表参道へ向かう電車が滑りこんでくるところだった。
(間に合う)
わたしは、階段を駆け下りた。
肩にかけたトートバッグが、走るたびに背中で跳ねた。その中で、何かがかちゃりと鳴る。
ポーチだ。
小さな、くすんだピンクのポーチ。中に入っているのは、わたしの「お守り」たちだった。ラベンダーのピローミスト。白いお茶の香りのハンドクリーム。旅行用の入浴剤が3包。シルクのアイマスクと、耳栓。小さなガラスの香水瓶。それから、今夜の部屋の、紺色に金の線が入ったカードキー。
どんなに疲れた日も、このポーチを開けて、ハンドクリームのふたを開けると、少しだけ息ができた。
階段の、真ん中あたりだった。
トートバッグの口から、そのポーチが、ふわりと飛び出した。
「あ――」
手を伸ばしていた。考えるより先に。財布でも、スマホでもなかった。わたしがつかもうとしたのは、あの小さなポーチだった。
指先が、ポーチをつかんだ。その瞬間、右足のパンプスのかかとが、階段の角を踏みはずした。
体が、宙に浮いた。
ホームの蛍光灯が、ぐるりと回った。誰かの悲鳴。電車の発車ベルの音。落ちていく一瞬、頭に浮かんだのは、ほんとうにどうでもいいことだった。
(あ……あの部屋に、帰れないな。プリン、食べかけなのに)
ポーチを胸に抱きしめた。ピローミストのふたが外れたのか、ラベンダーの香りが、ふわっと広がった。
痛みは、来なかった。
かわりに、まぶしい光が、目の奥まで満ちてきた。白い。あのホテルのシーツみたいに、白くて、静かな光。
遠くで、誰かが言った気がした。
――おやすみなさいませ。
それきり、何も聞こえなくなった。




