1話 午前2時のチェックイン
午前2時。
湖を渡ってきた風が、ロビーの大きな窓を、かすかに鳴らした。
午前2時という時刻には、少しだけ、思い出がある。まだ東京にいたころ、一度だけ、友だちと遊びすぎて、終電に乗り遅れた夜。始発を待つあいだ、駅前の24時間営業のファミレスで、ドリンクバーのぬるいココアを何杯もおかわりした。
白すぎる蛍光灯。お客さんが入ってくるたびに鳴る、軽いチャイムの音。眠そうな店員さんの「いらっしゃいませ」。あのころは、少しも特別だと思わなかった景色が、今は、胸の奥がきゅっとなるほど懐かしい。
わたしはフロントの奥で、銀の小鍋をそっと火から下ろした。カモミールと、ほんのひとつまみのラベンダー。北の森でとれる蜂蜜を、小さじに半分。湯気が立ちのぼると、甘くて、少しだけ青い香りが、夜のロビーにほどけていく。
(そろそろ、かな)
時計を見なくても、わかる。遠くの夜道から、蹄の音が近づいてくる。一頭だけ。速くも遅くもない。疲れを隠すのがうまい人の、足並みだ。
「オーナー。お見えです」
夜番のニナが、玄関の扉に手をかけて振り返った。17歳になったばかりの頬が、少しだけ赤い。この時間のお客様を迎えるのは、まだ緊張するのだろう。
「ありがとう、ニナ。扉は、わたしが開けるね」
わたしは制服の襟を指先で整えて、玄関へ歩いた。磨き上げた石の床に、自分の靴音が小さく響く。昼間なら、誰も気づかない音だ。夜のホテルでは、すべての音がやさしくなる。
扉を開けると、冷たい夜気といっしょに、雨のにおいが流れこんできた。黒い外套の男の人が、そこに立っていた。
背が高い。銀に近い淡い金の髪が、濡れて額に張りついている。氷を削り出したような、青い瞳。王国の北の守りを一人で背負う、ノルトハイム公爵。人は彼を、「氷の公爵」と呼ぶ。
戦場から、そのまま馬を走らせてきたのだろう。外套の裾には泥がはね、革の手袋の指先には、乾いた黒い染みがついていた。そして、何より――目の下の影が、前にいらした夜よりも、濃い。
「……遅くに、すまない」
低い声だった。人に命じることに慣れた声なのに、ほんの少し、かすれている。
わたしは、ゆっくりと頭を下げた。
「おかえりなさいませ、公爵様」
いらっしゃいませ、ではない。このホテルでは、二度目からのお客様を、そうお迎えする。ここは、あなたが帰ってくる場所です。そういう意味をこめて。
公爵様の肩から、ほんのわずかに、力が抜けたのがわかった。
◇ ◇ ◇
暖炉の前の椅子へご案内して、最初にお渡しするのは、温かいおしぼりだ。ハーブの水で蒸して、人肌より少しだけ熱くしてある。手のひらで包んだとき、「熱い」と感じる一歩手前の温度。
公爵様は手袋を外して、それを受け取った。長い指だった。剣だこのある、ごつごつした指が、白いタオルの中に沈んでいく。
「……毎回、思うのだが」
「はい」
「この温度は、どうやって決めている」
「公爵様の手を見て、決めています」
公爵様が、わずかに眉を上げた。
「手を?」
「今夜は、指先が白くなっていらっしゃいました。何時間も手綱を握ってこられたのだと思います。冷えきった指に熱いものを当てると、かえって痛いんです。だから、今夜はいつもより、少しぬるめに」
公爵様は、黙って自分の手を見下ろした。それから、ふっと――本当に、ふっと、口の端だけで笑った。
「戦場の斥候より、よく見ている」
「ホテルの人間は、それが仕事ですから」
わたしは、さっきの小鍋の中身を、白い陶器のカップに注いだ。
「カモミールに、ラベンダーを少しだけ。北の森の蜂蜜です。眠る前の体が、いちばん欲しがる甘さにしてあります」
公爵様は両手でカップを包み、ひと口飲んだ。喉が、ゆっくりと動く。もうひと口。
暖炉の薪が、ぱちん、とはぜた。窓の外では、雨が湖の面を打っている。細かい砂を、そっとまき続けているような音だった。
公爵様は、しばらく何も言わなかった。わたしも、何も聞かなかった。
戦のことは、こちらからは聞かない。話したい夜なら、この人は自分から話す。話したくない夜に言葉をせがむのは、おもてなしではないと、わたしは思っている。
やがて、カップの底が見えたころ。
「……三人、帰してやれなかった」
ぽつりと、声が落ちた。
わたしは、その言葉を、そのまま受け取った。
「三人」
「ああ。若い兵だった。一人は、春に子が生まれる予定だった」
慰めの言葉なら、いくつも頭に浮かんだ。公爵様のせいではありません。仕方がなかったんです。でも、それはきっと、わたしが楽になるための言葉だ。
「……重かったですね」
わたしは、それだけを言った。
公爵様は、目を閉じた。長いまつげに、暖炉の火が小さく映っていた。
「ああ。重かった」
それきり、また静かになった。でも、さっきまでとは違う静けさだった。重い荷物を、ほんの少しのあいだだけ床に下ろした人の、静けさ。
◇ ◇ ◇
お部屋は、二階の東の角。いつもの部屋だ。
公爵様は、このホテルでいちばん広い部屋を好まない。広すぎる部屋は、戦場の夜営地に似ているのだそうだ。だから、壁がほどよく近くて、窓が一つだけ東を向いた、この部屋を。
扉を開けると、ほのかにヒノキに似た木の香りがした。夕方のうちに、北の森の針葉樹の葉を浅い器に入れて、窓辺に置いておいたのだ。
部屋の中は、少しだけ涼しくしてある。北で育った人は、暖かすぎる部屋では眠りが浅くなる。シーツには、夕方のうちにアイロンをかけた。触れると、ひんやりとして、それからすぐに、肌の温度になじむ。
枕は三つ。やわらかい羽根と、少し固めの羽根と、そば殻に似た、さらさらとした実の殻を詰めたもの。公爵様が選ぶのは、いつも少し固めの羽根だ。
時を刻む音のするものは、すべて部屋の外に出してある。燭台の火は低く、橙色に。そして、東の窓の厚いカーテンは、端を指一本ぶんだけ、あけておく。
朝6時ごろ、そのすきまから、湖に反射した最初の光が差しこむ。鐘で起こされるのではなく、光で目が覚めるように。
わたしは寝台の掛け布の角を、三角に折り返した。これは、遠い昔――まだわたしが、こちらではない世界にいたころ。ひと晩3万円の部屋で、知らない誰かがわたしのためにしてくれたことだ。あの三角を見るたび、わたしは、ここで眠っていいんだと、許された気がした。
「では、ごゆっくりお休みくださいませ」
扉の前で一礼して、下がろうとしたときだった。
「莉子」
名前を呼ばれて、心臓が小さく跳ねた。この人がわたしの名前を呼ぶのは、たいてい、扉が閉まる直前だ。振り返ると、公爵様は寝台の端に腰かけて、こちらを見ていた。外套を脱いだその人は、氷の公爵ではなく、ただの、とても疲れた一人の男の人に見えた。
「君の宿でしか、私は眠れない」
「……存じております」
わたしは、いつもどおりに、ほほえんだ。
「ですから、いつでもお部屋をご用意しております。公爵様は、このホテルの、常連客第1号ですから」
「第1号、か」
公爵様は、その言葉を、口の中で確かめるように繰り返した。
「それは、この先もずっと、私のものだな」
返事をする前に、扉が静かに閉まった。
わたしは廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。頬が熱い。
(……今のは、どういう意味ですか、公爵様)
◇ ◇ ◇
廊下の窓から、湖が見えた。
雨は、いつのまにか小降りになっていた。東の空の端が、ほんのわずかに、藍色を薄めはじめている。あと数時間で、ここに朝が来る。湖が金色に光って、このホテルの名前の由来になった、あの朝日が昇る。
ル・ソレイユ。遠い世界の言葉で、太陽という意味だ。
わたしは、胸の前で、そっと手を握った。
この手は、三年と少し前まで、何も持っていなかった。手取り、16万円。家賃5万8千円のワンルームで、月末が近づくと、残高を見るのが怖くて、銀行のアプリを開けなかった。それなのに、つらいことがあるたびに、ひと晩3万円のホテルを予約した。
ふかふかのベッドと、誰かが完璧に整えてくれた部屋の中でだけ、わたしは「大切にされている人」になれた気がしたから。そして、チェックアウトの朝には、いつも、少しだけ泣きたくなった。
――あのころのわたしは、自分のことを、すり減ったら捨てられる消耗品だと思っていた。
そのわたしが、今は、異世界でいちばん眠れない人に、朝を届けている。
「オーナー」
階段の下から、ニナが小さな声で呼んだ。
「公爵様のお部屋、灯りが消えました」
「……そう」
わたしは、ほっと息をついた。胸の奥で固まっていたものが、ゆっくりとほどけていく。
「じゃあ、6時に、東のカーテンのすきまから光が入るか、外から確かめてね。それから、朝食は――」
「ミルク粥と、焼きりんご。シナモンは少なめ、ですよね。わかってます」
ニナが、得意そうに胸を張った。わたしも、つられて笑った。
窓の外で、雨がやんだ。
これは、手取り16万円のわたしが、異世界で高級ホテルを開業するまでの物語。そして、眠れなかった人たちが、もう一度、朝を好きになるまでの物語だ。始まりは、ある金曜日の深夜。終電の、駅のホームだった。




