10話 金鷲の代官
その男が『ひだまり』にやってきたのは、湖のほとりの柳が、すっかり濃い緑になったころだった。昼下がり。わたしとロッテさんが、裏庭でシーツを取りこんでいると、表のほうで、馬のいななきと、車輪のきしむ音がした。
玄関に回ると、黒塗りの馬車が一台、止まっていた。そのうしろに、槍を持った兵が四人。
馬車から降りてきたのは、太った男だった。
脂でつやつやした丸い顔に、細い口ひげ。ずんぐりとした指の一本一本に、宝石のついた指輪がはまっている。近づいてくると、きつい香油のにおいが、鼻を刺した。湖の風が、一瞬で、どこかへ追いやられてしまうくらいの。
「おまえが、ここの主か」
男は、わたしを、頭のてっぺんからつま先まで、じろりと見た。
「リンデンの代官、バルトロ・ゲスナーである」
◇ ◇ ◇
代官は、案内も待たずに、どかどかと中へ入ってきた。
食堂の暖炉。磨いた床。窓辺に吊るした、乾かした銀穂草の束。一つ一つを、値踏みするように眺めていく。
「ふん。流れ者の小娘が、ずいぶんと繁盛しているそうではないか」
「……おかげさまで」
「税は、どうなっている」
「税、ですか。家賃といっしょに、毎月、代官所に納めていますが」
「それは、土地の税だ」
代官は、指輪だらけの指を一本立てた。
「宿を営む者は、泊まり客一人につき、宿泊税を納める決まりになっている。知らなかったとは言わせんぞ」
知らなかった。契約のとき、窓口の書記は、そんなことは一言も言わなかった。
「申しわけありません。存じませんでした。いくら、お納めすればいいでしょうか」
「客一人、一泊につき、銅貨1枚。それを、店を開いた日から、すべてだ」
頭の中で、急いで計算した。これまでに泊まったお客様は、のべで……。
(銀貨で、20枚ちょっと)
痛い。でも、払えない額ではない。
「わかりました。帳簿を確かめて、すぐにお持ちします」
わたしがそう答えると、代官は、一瞬だけ、拍子抜けしたような顔をした。それから、薄く笑った。
「殊勝な心がけだ。……まあ、せいぜい、励むがいい」
◇ ◇ ◇
代官が帰っていく馬車を、わたしとロッテさんは、玄関から見送った。
そのとき、気がついた。
湖のほとりの道の、少し離れたところに、もう一台、馬車が止まっていた。代官の馬車よりも、ずっと大きくて、立派な馬車だった。白い車体に、金色の飾り。扉には、翼を広げた大きな鳥の紋章が、金で描かれている。
鷲だ。金色の、鷲。窓には、薄い紗の幕が下りていた。その幕のむこうに、人影が一つ、見えた気がした。
じっと、こちらを見ている。わたしたちの宿を。
背中に、冷たいものが走った。
金の鷲の馬車は、しばらくそこに止まっていた。それから、音もなく、王都のほうへ走り去っていった。
「……なんだい、あれは」
ロッテさんが、エプロンの端を握りしめていた。
「わからない」
わたしは、ロッテさんの肩に、そっと手を置いた。
「でも、大丈夫。ちゃんと税を払えば、文句は言われないから」
自分に言い聞かせるような声だった。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしはヴェルドさんに手紙を書いた。
代官が来たこと。宿泊税のこと。金の鷲の紋章の馬車のこと。書きながら、何度もペンが止まった。
王都にいるヴェルドさんに届くまで、早くても十日はかかる。返事が来るのは、さらにその先だ。
(ヴェルドさんが戻るまで、あとひと月。それまで、ちゃんとやっていれば)
宿泊税の銀貨21枚は、次の日、代官所に納めた。窓口の書記は、受け取りの証文を、なぜかなかなか書こうとしなかった。三度頼んで、ようやく、走り書きの一枚をくれた。
◇ ◇ ◇
月の終わりが、近づいていた。
家賃の納めどきは、月の最後の日。代官所の窓口が閉まる、夕方の鐘までに。その日の朝、わたしは、銀貨15枚を革袋に入れて、リンデンへ向かった。けれど、代官所の扉の前には、兵が二人、立っていた。
「今日は、窓口はやっていない」
「えっ……でも、今日は月の最後の日で、家賃を納めないと」
「担当の書記が、病で休みだ。明日、出直せ」
「ほかの方に、お預けすることはできませんか。受け取りの証文さえいただければ」
「担当でない者は、金を受け取れん決まりだ。帰れ」
何度頼んでも、兵は首を横に振るばかりだった。
夕方の鐘が、町の空に、ごうん、ごうん、と鳴りひびいた。わたしは、閉ざされた代官所の扉の前で、革袋を握りしめたまま、立ちつくしていた。
(明日。明日、いちばんに来れば、大丈夫)
そう思うしかなかった。
◇ ◇ ◇
次の日の朝、窓口は開いていた。
きのうは病だったはずの書記が、顔色ひとつ悪くなく、机に座っていた。差し出した銀貨15枚を、書記は、指一本ふれずに見下ろした。
「納めどきは、昨日でしたね」
「昨日、来ました。でも、窓口が閉まっていて――」
「こちらには、記録がありません」
書記は、引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。見おぼえのある、羊皮紙だった。わたしが、ひと月半前に、名前を書いた契約書。書記の指が、下のほうの、小さな字の段落を指した。
あのとき、目がすべって、頭に入ってこなかった段落だった。
わたしは、その字を、一つずつ読んだ。
『借り主が、賃料の支払いを期日より一日でも遅れた場合、本契約は直ちに解除されるものとする。』
『その際、借り主が建物に施した造作、および建物内の備品の一切は、貸主に帰属する。』
『なお、本物件の貸主の権利は、代官所の承認のもと、第三者に譲渡されることがある。』
指先から、血の気が引いていった。
「……貸主は、ハンスさんです。ハンスさんなら、一日の遅れくらい」
書記は、表情を変えずに言った。
「湖畔亭の貸主の権利は、先週、ハンス殿から、ある商会に譲られました。代官所が、それを承認しております」
「ある、商会……」
書記は、答えなかった。
ただ、羊皮紙の一番下、わたしの名前のさらに下に、新しく押されたばかりの、赤い封蝋を指でたたいた。
翼を広げた、鷲の紋章だった。
◇ ◇ ◇
どうやって『ひだまり』まで帰ったのか、覚えていない。
気がつくと、湖のほとりの道に立っていた。
夕暮れの湖が、きれいだった。柳の枝が、さらさらと風に鳴っていた。その日は、七日に一度、ニナが手伝いに来る日だった。二階の窓から、ニナが手をふっていた。青い髪紐が、夕日の中で揺れていた。
「莉子ー! おかえりー! 今夜、満室だよー!」
わたしは、手をふり返せなかった。
湖の向こうの空が、重たい灰色の雲に、ゆっくりと覆われはじめていた。
遠くで、雷が、低く鳴った。




