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手取り16万の私が異世界で高級ホテルを開業したら、冷徹な公爵様が常連になりました 〜ホカンス狂いの元OLが届ける、極上の癒やしとご褒美タイム〜  作者: Hamin
第2章 お金の師匠と、奪われた宿

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11/25

11話 【どん底1】すべてを奪われた雨の日

雨は、夜のうちに本降りになった。


朝になっても、やまなかった。湖の面を、無数の雨粒が白く打ちつづけている。岸辺の柳は、重たく濡れて、枝を水に沈めていた。


わたしは、一睡もしていなかった。


ゆうべ、満室のお客様たちには、何も言えなかった。いつもどおりに夕食を出して、足湯を運んで、おやすみなさいませ、と頭を下げた。ニナにも、まだ、何も話していなかった。ゆうべは雨がひどくなって、ニナは木漏れ日亭に帰れず、屋根裏の小部屋に泊まっていた。


(何か、方法があるはず)


一晩じゅう、帳簿と契約書の写しを、何度も読み返した。でも、何度読んでも、あの小さな字は、変わらなかった。


◇ ◇ ◇


蹄《ひづめ》の音が近づいてきたのは、朝食のパンが焼きあがったころだった。窓から見ると、雨の中を、黒塗りの馬車と、十人ほどの兵がやってくる。そのうしろに、荷車が二台。


玄関の扉が、ノックもなしに開いた。


雨のしずくを垂らしながら入ってきたのは、代官《だいかん》のバルトロだった。その横に、もう一人。灰色の外套を着た、やせた男が立っていた。胸に、金の鷲《わし》の徽章《きしょう》をつけている。


「湖畔亭の賃貸契約は、昨日をもって解除された」


代官は、食堂じゅうに響く声で言った。


「この建物は、新しい貸主である金鷲《きんしゅう》商会のものとなる。中にある備品も、すべてだ」


朝食の席についていたお客様たちが、ざわめいた。


「待ってください」


わたしは、代官の前に出た。


「家賃は、ちゃんと用意していました。期日の日に、代官所にも行きました。窓口が閉まっていて――」


「言いわけは聞かん」


「それに、この寝具も、食器も、わたしが自分のお金で買ったものです。それまで取られるなんて」


灰色の外套の男が、懐から羊皮紙の写しを取り出して、わたしの目の前に広げた。あの段落を、指でなぞる。


『借り主が建物に施した造作、および建物内の備品の一切は、貸主に帰属する。』


男は、何も言わなかった。言う必要がない、という顔だった。


◇ ◇ ◇


兵たちが、二階へ上がっていった。通いのロッテさんが、まだ来ていなくてよかったと、こんなときなのに思った。


泊まっていたお客様たちが、雨の中へ追い出されていく。

「金は返してもらえるんだろうな」と怒鳴る行商人に、兵が槍の柄を向けた。

わたしは、一人一人に、頭を下げることしかできなかった。


新しいシーツが、乱暴に丸められて、荷車に投げこまれていく。市場で一枚ずつ選んだ、花の模様の皿。ニナが看板を彫った小刀。足湯の桶。乾かした銀穂草《ぎんすいそう》の束。


「それから、これだ」


代官が、台所の奥の、小さな鉄の金庫を指した。


「開けろ」

「……これは、売上です。食材や、エマさんへの手間賃を払うための」

「開けろと言っている」


ふるえる手で、鍵を回した。


中には、この二か月で積み上げた銀貨が、帳簿といっしょに入っていた。代官は、それを革袋ごとつかみ出して、重さを確かめるように手の上で弾ませた。


「おまえは、代官所の営業許可を受けずに、宿を開いた。これは、その罰金として没収する」


「営業、許可……? そんなこと、誰も――」


「知らなかったでは、すまされん。それに、宿泊税も、まだ足りておらん」


「宿泊税は、納めました! 受け取りの証文も、ここに」


わたしは、帳簿のあいだから、あの走り書きの一枚を取り出した。代官は、それを指先でつまみ上げた。ちらりと見て、鼻で笑った。


そして、わたしの目の前で、ゆっくりと、二つに裂いた。四つに。八つに。紙切れが、雨に濡れた床の上に、ひらひらと落ちていった。


「こんな紙切れが、証文になるものか」


◇ ◇ ◇


「身元のない流れ者が、王国の土地で、許しもなく商いをしたのだ」


代官は、わたしを見下ろして言った。


「本来なら、牢に入れるところだ。だが、慈悲をかけてやろう。今日のうちに、リンデンから出ていけ。二度と、この地に足を踏み入れるな」


所払い、という言葉を、どこか遠くで聞いた気がした。


「……莉子《りこ》!」


階段の上から、ニナが駆け下りてきた。兵の腕をすり抜けて、わたしと代官のあいだに、両手を広げて立った。


「なんでだよ! 莉子は、なんにも悪いことしてない! あんたたちのほうが、泥棒じゃないか!」


「ほう」


代官の細い目が、ニナに向いた。


「この小娘も、流れ者の手先か。いっしょに牢に放りこんでもいいのだぞ」


兵の一人が、ニナの肩をつかんだ。


その瞬間、わたしの体は、勝手に動いていた。


「その子は、関係ありません」


自分でも驚くほど、冷たい声だった。


「わたしが、木漏れ日亭から、安い給金で連れてきただけの下働きです。この宿のことは、何も知りません」


ニナが、信じられないという顔で、わたしを振り返った。


「莉子……?」


わたしは、ニナの目を見なかった。見たら、言えなくなるとわかっていた。


「もういいの。あんたなんか、もういらない。……木漏れ日亭に、帰りな」


ニナの顔が、くしゃりとゆがんだ。


「――うそつき!」


雨の音よりも、大きな声だった。


「うそつき! 莉子の、うそつき!」


ニナは、わたしの胸を、両手のこぶしで一度だけたたいた。それから、雨の中へ、飛び出していった。青い髪紐が、灰色の雨の中で、一度だけ揺れて、見えなくなった。


代官が、興味をなくしたように、鼻を鳴らした。兵の手が、ニナを追うことはなかった。それで、よかった。それで、よかったはずなのに。


◇ ◇ ◇


兵に両脇をはさまれて、リンデンの北の門まで連れていかれた。持ち物を調べられた。濡れたコートのポケットは、空っぽだった。ピンクのポーチを開けた兵は、中のハンドクリームやアイマスクを見て、「なんだ、がらくたか」とつぶやき、それをわたしの手に押しもどした。


門の外へ、突き飛ばされた。


背中で、重たい木の門が、ごうん、と閉まった。


◇ ◇ ◇


北へ続く道を、歩いた。


ほかに、行くところがなかった。西には、あの荒れ地。東には、王都。南には、リンデン。北には、深い森と、その先の、霜の山脈。


雨は、少しも弱くならなかった。


濡れた髪から、しずくが首すじを伝って、背中に流れこむ。かかとを折ったパンプスは、泥を吸って、一歩ごとに、ぐちゃりと重たい音を立てた。ストッキングの破れ目から入った雨が、足の指の感覚を、少しずつ奪っていく。


(また、何もなくなった)


この世界に来たときと、同じだった。ポーチ一つ。違うのは、あのときより、ずっと寒いことだけ。


窓を磨いた。シーツを煮た。帳簿をつけた。8割を未来に、2割をご褒美に。ヴェルドさんに教わったとおりに、まじめに、ちゃんと、やったのに。


(結局、同じなんだ)


現世でも、ここでも。どんなにがんばっても、最後には、誰かに取り上げられる。代わりはいくらでもいる、使い捨ての手。


――わたしは、どこへ行っても、消耗品なんだ。


ニナの声が、耳の奥で鳴りつづけていた。


うそつき。莉子の、うそつき。


あの子だけは、守りたかった。守れたのかどうかも、わからない。ただ、あの子に、いちばんひどい言葉を言ったのは、わたしだった。


◇ ◇ ◇


日が暮れはじめたころ、道は、森の中に入った。


背の高い黒い木々が、両側から覆いかぶさってくる。雨の音が、木の葉に当たって、ざあざあと、何倍にも大きく聞こえた。


足が、もう、上がらなかった。


木の根に、つまずいた。泥の中に、手をついた。立ち上がろうとして、もう一度、ひざから崩れた。


冷たい泥が、頬にふれた。


ポーチだけは、胸に抱えていた。こんなときでも、腕が、それを離そうとしなかった。


(……あの夜と、同じだ)


終電の階段から落ちた、金曜日の夜。あのときは、まぶしい光と、「おやすみなさいませ」という声があった。


今は、何もない。


真っ暗な森と、冷たい雨。誰も、わたしの名前を呼ばない。


まぶたが、重くなっていった。


――そのとき。


雨の音のむこうから、別の音が聞こえた。


蹄の音。一頭ではない。何頭も。泥をはね上げて、こちらへ近づいてくる。


木々のあいだに、松明《たいまつ》の赤い火が、いくつも揺れていた。


「止まれ! 道に、誰か倒れている!」


鋭い声がした。馬が止まる気配。鎧の金具が、がちゃりと鳴る音。誰かが、馬から下りて、泥を踏んで近づいてくる。


かすむ目に、黒い外套の裾が映った。その上から、低い、氷のように冷たい声が、降ってきた。


「――まだ、息がある」


それが、わたしが最後に聞いた声だった。

本日の帳簿の締めでございます。


『入り』――読者の皆さまが、ここまで莉子と歩いてくださった時間。

『出』――ひだまりの宿と、銀貨と、ニナの笑顔。

『残高』――ポーチ一つと、まだ消えていない、小さな息。


第2章をお読みいただき、本当にありがとうございました。

帳簿の上では、莉子はすべてを失いました。けれど、ヴェルドが教えたとおり、大切なものは一か所にだけ置いてあるわけではありません。


雨の森で、彼女を見つけたのは誰なのか。

続きが気になると思っていただけましたら、★評価とブックマークで、莉子の帳簿に「未来への預け入れ」をしていただけるとうれしいです。


次章、いよいよ「氷の公爵」が登場します。

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