12話 雨の森と、眠らない公爵
目を覚ますと、天井が、ずいぶん高いところにあった。黒い石の天井だった。太い梁が何本も渡されていて、その上のほうは、薄暗くてよく見えない。
体が、重かった。まぶたを動かすだけで、頭の奥がずきずきと痛んだ。
(……ここ、どこ)
わたしは、大きな寝台に寝かされていた。体の上には、分厚い毛皮が何枚も重ねられている。獣の脂のにおいが、かすかにした。
寝台の横の暖炉では、薪がごうごうと燃えていた。顔の片側だけが、火照るほど熱い。それなのに、反対側の肩と背中には、どこからか、冷たい風がすうっと当たっていた。
部屋の隅で、何かが、かちり、と鳴った。
壁ぎわの大きな振り子時計だった。こち、こち、こち、と、規則正しい音が、静かな部屋の中に、やけに大きく響いている。
◇ ◇ ◇
「――気がつかれましたか」
扉が開いて、白い頭巾をかぶったおばあさんが入ってきた。腰は曲がっているけれど、足取りはしっかりしている。手には、湯気の立つ木の椀を持っていた。
「二日も眠っておいででしたよ。ひどい熱で」
「二日……」
声を出すと、のどが、ひりひりと痛んだ。
「ここは、ノルトハイムのお城でございます。わたくしは、侍女頭のゲルダと申します」
ノルトハイム。聞いたことのある名前だった。リンデンの食堂で、冒険者たちがときどき口にしていた。王国の北の果て。魔獣から国を守る、氷の公爵の領地。
「南の街道の見回りからお戻りになる途中で、閣下が、森の道に倒れていたあなたを見つけられたのです」
ゲルダさんは、わたしの体を支えて起こし、椀を手に持たせてくれた。大麦をやわらかく煮た、薄いかゆだった。ほんのりと、塩と、玉ねぎの味がした。ひと口すすると、空っぽのお腹に、温かいものが落ちていった。
「わたしの、ポーチ……ピンクの、小さな袋は」
「こちらに」
ゲルダさんが、寝台の横の小机を指した。泥を拭われたポーチが、ちょこんと置かれていた。
わたしは、それを、両手で胸に抱いた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、扉が、ノックもなく開いた。
入ってきたのは、二人の男の人だった。
一人は、栗色の髪を短く刈った、三十歳くらいの人。腰に剣を下げ、鋭い目で、わたしを上から下まで見た。
そして、もう一人。
背の高い人だった。銀に近い淡い金の髪。氷を削り出したような、青い瞳。黒い上着の襟を、喉もとまできっちりと留めている。顔立ちは、怖いくらいに整っていた。
でも、わたしが最初に目を奪われたのは、そのどれでもなかった。
目の下の、影だった。
薄い皮膚の下に、青黒い色が、くっきりと沈んでいる。ひと晩やふた晩の寝不足ではない。何年も、何年も積み重なった色だった。
(この人、眠ってない)
販売の仕事をしていたころ、毎日、何百人ものお客様の顔を見てきた。疲れている人は、すぐにわかる。
「ノルトハイム公爵、ユリウス・フォン・ノルトハイム閣下である」
栗色の髪の人が、低い声で言った。
「私は、副官のエーリク・ホルスト。……おまえ、名は」
「神楽坂、莉子です。……助けていただいて、ありがとうございました」
わたしは、寝台の上で、できるだけ深く頭を下げた。公爵は、何も言わなかった。ただ、扉のそばに立ったまま、氷みたいな目で、わたしを見下ろしていた。
「リンデンから来たそうだな」
エーリクさんが、一歩前に出た。
「代官所の所払いの記録に、その名前があった。身元のない流れ者。……北の森で、何をしていた。誰に頼まれて、閣下の通る道に倒れていた」
「頼まれて、なんて」
「閣下に取り入ろうとする者は、多いのだ。間者を送りこんでくる貴族もいる」
わたしは、言葉を失った。
公爵が、そこで、初めて口を開いた。
「エーリク。もういい」
低い声だった。怒っているのでも、優しいのでもない。ただ、何の温度もない声だった。
「回復したら、出ていけ。それまでは、ここにいてかまわん」
それだけ言うと、公爵は、くるりと背を向けた。黒い上着の裾が、ひるがえった。扉が閉まる直前、エーリクさんが、ため息まじりにつぶやくのが聞こえた。
「……どこへ放り出すんです。南の村々は、どこもよそ者を嫌う。アステル湖の古い寮なら、空いていますがね。新しい寮ができてから、もう半年、誰も住んでいない」
「好きにしろ」
足音が、遠ざかっていった。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは眠れなかった。
二日も眠っていたせいもある。でも、それだけではなかった。
この部屋は、眠るための部屋ではなかった。
暖炉の火が強すぎて、顔だけが熱い。窓の木枠のすきまから、北の風が、ひゅう、ひゅう、と細い音を立てて入りこんでくる。振り子時計が、こち、こち、こち、と、休みなく時を刻む。
そして、一刻ごとに、城のどこかで、鐘が鳴った。ごうん、と腹の底に響く音。そのたびに、廊下の遠くで、鎧の金具ががちゃがちゃと鳴る。見張りの兵が、交代しているのだ。
(こんなお城で、みんな、どうやって眠ってるんだろう)
ふと、考えた。いちばん眠れていないのは、たぶん、この城の主だ。鐘が、また鳴った。真夜中を、とうに過ぎたころだった。
そのあとに、聞こえてきた。
こつ、こつ、こつ。
鎧の音ではない。革の靴が、石の床を踏む、ゆっくりとした足音。わたしは、毛皮を肩にかけて、そっと寝台を下りた。扉を、指一本ぶんだけ開けた。
長い回廊だった。等間隔に並んだ燭台の火が、黒い石の壁を、橙色に照らしている。その回廊の、ずっと先を、一人の人が歩いていた。
燭台を一つ、手に持って。背の高い、銀に近い金の髪の人。
公爵だった。
上着を脱いで、白いシャツ一枚になっている。回廊の端まで歩くと、立ち止まって、北向きの窓の外を見た。長いあいだ、身動きもせずに。
それから、また、ゆっくりと引き返してくる。
こつ、こつ、こつ。
わたしは、あわてて扉を閉めた。心臓が、どきどきと鳴っていた。扉の向こうを、足音が通りすぎていく。そして、また、遠ざかっていく。
しばらくすると、また、近づいてくる。
何度も。何度も。
それは、夜明けの鐘が鳴るまで、続いた。
◇ ◇ ◇
明け方、窓の外が、ほんの少しだけ白んできたころ。
わたしは、寝台の上にひざを抱えて座っていた。
胸の中で、何かが、ことり、と動いた。
あの人は、眠りたくないわけじゃない。眠れないのだ。ブラムさんと、同じだった。いや、もっとずっと長く、もっと深く。
――安全で、心が休まる居場所。
ヴェルドさんの言葉が、頭に浮かんだ。
この城には、それがない。この城の主にさえ。
わたしは、ポーチを開けた。
ラベンダーのピローミスト。半分だけ残った中身が、小さな瓶の中で揺れている。入浴剤が、3包。シルクのアイマスク。耳栓。
それから、白いお茶の香りのハンドクリーム。
全部、わたしが、眠れない夜を越えるために集めたものだった。
(……わたしにできることなんて、何もないかもしれない)
宿も、お金も、ニナも、なくした。身元のない、流れ者。
でも。
窓を磨くことなら、できる。シーツを整えることなら、できる。暗い食堂で、向かいに座って、黙って待つことなら、できる。
窓の外で、夜明けの鐘が鳴った。
その音を聞きながら、わたしは、ポーチのファスナーを、ゆっくりと閉めた。




