↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
手取り16万の私が異世界で高級ホテルを開業したら、冷徹な公爵様が常連になりました 〜ホカンス狂いの元OLが届ける、極上の癒やしとご褒美タイム〜  作者: Hamin
第3章 氷の公爵と、最初で最高の客

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/24

13話 一日とひと晩の、癒やし部屋

公爵の執務室は、城の北の塔の、いちばん上にあった。部屋に入ったとたん、冷たい空気が、頬をなでた。暖炉の火は消えかけていた。大きな机の上には、北の山脈の地図が何枚も広げられ、その上に、小さな木の駒がいくつも並んでいる。


公爵は、窓を背にして、地図を見下ろしていた。朝の光が、淡い金の髪の輪郭を、白く縁どっていた。わたしの顔を見ても、その表情は、少しも動かなかった。


「何の用だ」


ゲルダさんに頼んで、ここまで連れてきてもらった。ここまで来たら、もう、引き返せない。


わたしは、背すじをのばした。


「助けていただいた、お礼をさせてください」

「礼はいらん」

「お金も、宝石も、持っていません。でも、一つだけ、できることがあります」


一度、息を吸った。


「一日とひと晩だけ、わたしに、お部屋を作らせてください。公爵様が、お休みになるためのお部屋を」


部屋の空気が、ぴんと張りつめた。


窓ぎわに控えていた副官のエーリクさんが、眉をつり上げた。


「部屋なら、この城にいくらでもある」


公爵の声は、低く、平らだった。


「はい。でも、公爵様は、眠れていらっしゃいません」


エーリクさんが、「おい」と一歩踏み出した。公爵が、片手を上げて、それを止めた。


氷のような青い目が、まっすぐにわたしを見た。


「なぜ、そう思う」


「目の下の色です。それから、ゆうべ、回廊を歩く足音を聞きました。真夜中から、夜明けの鐘が鳴るまで、ずっと」


公爵は、何も言わなかった。長い、長い沈黙だった。


「……眠れぬのは、北を守る者の務めだ」


やがて、公爵は言った。


「魔獣は、夜に来る。私が眠っているあいだに、防衛線が破られたら、どうする」


わたしは、少しだけ迷った。それから、正直に言った。


「眠れない人には、きっと、北は守れません」


エーリクさんの手が、剣の柄にかかった。


公爵は、じっとわたしを見ていた。その目の奥で、何かが、ほんのわずかに揺れた気がした。


「……よかろう」


「閣下!」


「一日と、ひと晩だ。好きに使え。ゲルダと、手のあいている者を貸してやる」


公爵は、地図の上の駒を一つ、指先で倒した。


「ただし、今夜、私が眠れなければ。明日の朝、この城を出ていってもらう」


◇ ◇ ◇


それから、わたしは城じゅうを歩いた。


ゲルダさんのあとについて、回廊を、階段を、使われていない部屋を、一つずつ見て回った。


どの部屋も、天井が高く、広かった。窓は大きく、北の風が、木枠のすきまから容赦なく入りこんでくる。床も壁も、黒い石。暖炉の前だけが熱く、少し離れると、吐く息が白くなった。


(広すぎる)


広い部屋は、豪華に見える。でも、広すぎる部屋では、人は安心して眠れない。背中が、どこまでも無防備になるからだ。東の棟の、二階のつき当たりで、わたしは足を止めた。


小さな部屋だった。ほかの部屋の半分もない。壁が、ほどよく近い。窓は一つだけ。東を向いていて、その向こうに、黒い森と、遠い丘が見えた。


「ここは……」


「先の公爵夫人の、縫いものの部屋でございました」


ゲルダさんが、ほこりをかぶった小さな椅子を、そっとなでた。


「閣下のお母上です。閣下がお小さいころ、よくここで、お母上のお膝で眠っておられました。……お母上が亡くなってからは、誰も使っておりません」


わたしは、窓を開けた。


森のにおいがした。雨上がりの土と、針葉樹の、つんと青い香り。


「ここに、します」


◇ ◇ ◇


それから、一日じゅう、走り回った。


まず、音だった。


壁ぎわの振り子時計を、部屋の外に運び出した。窓の木枠のすきまには、ゲルダさんが探してくれた古い羊毛の布を、細く裂いて詰めこんだ。ひゅうひゅうという風の音が、ふっと消えた。石の壁には、倉庫にしまわれていた厚い織物を、何枚も重ねて掛けた。声を出してみると、石の部屋の硬い響きが、やわらかく吸いこまれていく。


いちばん難しかったのは、鐘と、鎧の音だった。


「見張りの交代の道を、今夜だけ、この棟から遠ざけていただけませんか。それから、鎧の金具に、布を巻いてほしいんです」


エーリクさんは、腕を組んで、わたしをにらんだ。


「城の守りを、なんだと思っている」

「守りを弱くしてほしいんじゃありません。見張りの人数は、そのままで。音だけを、消してほしいんです」


エーリクさんは、しばらく黙っていた。それから、大きなため息をついた。


「……閣下の、ご命令だからな」


次に、光だった。


燭台は、二つだけにした。背の低いものを、寝台から見えない位置に。炎の色が、白っぽい蝋燭《ろうそく》ではなく、橙色に揺れる、蜜蝋《みつろう》のものを選んでもらった。窓には、厚いカーテン。でも、東の端だけは、指一本ぶん、すきまをあけておく。


朝、鐘で起こされるのではなく、光で目が覚めるように。


それから、温度。


暖炉の火は、小さく。ぱちぱちと燃えるのではなく、熾火《おきび》が静かに赤く光るくらいに。そのかわり、かまどで温めた平たい石を、布で何重にもくるんで、寝台の足もとに入れた。


においも、変えた。


この城は、どこもかしこも、ランプの油と、鉄のにおいがした。部屋の窓を開けはなって、風を通した。床を水で拭いた。それから、森へ行って、針葉樹の若い葉を、両手いっぱいに摘んできた。浅い陶器の器に入れて、窓辺に置く。


最後に、寝台。


獣の脂のにおいのする毛皮は、全部、はずした。ゲルダさんが、古い長持《ながもち》の底から、先の公爵夫人が使っていたという亜麻《あま》のシーツを見つけてくれた。雨上がりの、よく晴れた日だった。中庭の日なたで、シーツを干した。夕方に取りこんで、暖炉の前で、温めた石を使って、しわを一本ずつのばした。


枕は、三つ。羽根のやわらかいものと、少し固めのもの。それから、ゲルダさんが「閣下は昔、これでないとお眠りにならなかった」と言った、麦の殻を詰めた、さらさらと鳴る小さな枕。


ポーチから、ピローミストを取り出した。半分だけ残ったラベンダー。その最後のひと吹きを、枕の上に、そっと落とした。


◇ ◇ ◇


「あの……これは、何に使うのでございますか」


夕方、台所の大きな洗い桶を、若い下女たちに部屋の隣の小部屋まで運んでもらったとき、みんなが、不思議そうに顔を見合わせた。人が、まるごと入れるくらいの、樽のような木の桶。


「お湯を、張りたいんです。肩まで、つかれるくらい」


「お湯に……閣下を、沈めるのでございますか!」


いちばん若い下女が、悲鳴のような声を上げた。


この国の人は、湯につかる習慣がない。体は、濡らした布で拭くだけ。お湯に体を沈めるなんて、病人か、赤ん坊くらいのものだ。


「沈めるんじゃなくて、温めるんです。体の芯から温まると、体は、自然に眠る準備を始めるんです」


わたしは、ポーチから、入浴剤を一包、取り出した。3包のうちの、1包。紙の袋を開けると、乳白色の粉から、ほのかに、ひのきと柑橘の香りが立ちのぼった。


下女たちが、いっせいに鼻をひくつかせた。


「……いい、においでございますね」

「でしょう?」


わたしが笑うと、下女たちも、つられて笑った。この城に来て、初めて聞く、笑い声だった。


◇ ◇ ◇


日が、沈んだ。


東の窓の外で、森が、藍色の闇に沈んでいく。部屋の中には、橙色の小さな灯りが二つ。熾火が、暖炉の奥で、とろりと赤く光っている。針葉樹の葉の香りと、かすかなラベンダー。


廊下から、足音が近づいてきた。


鎧の音はしなかった。エーリクさんは、約束を守ってくれたのだ。


扉の前で、足音が止まった。


わたしは、背すじをのばして、扉を開けた。


公爵が、立っていた。そのうしろに、腕を組んだエーリクさん。


公爵は、部屋の中を、ゆっくりと見回した。小さな部屋。厚い織物の壁。東の窓。三つの枕。


その視線が、窓辺の、小さな椅子の上で止まった。


母親の、縫いものの椅子だった。


ほんの一瞬。氷みたいだった青い目が、揺れたのを、わたしは見た。


「……見せてもらおう」


公爵の声は、少しだけ、かすれていた。


わたしは、深く頭を下げた。


「お待ちしておりました、公爵様。――今夜のお部屋に、ご案内いたします」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。