13話 一日とひと晩の、癒やし部屋
公爵の執務室は、城の北の塔の、いちばん上にあった。部屋に入ったとたん、冷たい空気が、頬をなでた。暖炉の火は消えかけていた。大きな机の上には、北の山脈の地図が何枚も広げられ、その上に、小さな木の駒がいくつも並んでいる。
公爵は、窓を背にして、地図を見下ろしていた。朝の光が、淡い金の髪の輪郭を、白く縁どっていた。わたしの顔を見ても、その表情は、少しも動かなかった。
「何の用だ」
ゲルダさんに頼んで、ここまで連れてきてもらった。ここまで来たら、もう、引き返せない。
わたしは、背すじをのばした。
「助けていただいた、お礼をさせてください」
「礼はいらん」
「お金も、宝石も、持っていません。でも、一つだけ、できることがあります」
一度、息を吸った。
「一日とひと晩だけ、わたしに、お部屋を作らせてください。公爵様が、お休みになるためのお部屋を」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
窓ぎわに控えていた副官のエーリクさんが、眉をつり上げた。
「部屋なら、この城にいくらでもある」
公爵の声は、低く、平らだった。
「はい。でも、公爵様は、眠れていらっしゃいません」
エーリクさんが、「おい」と一歩踏み出した。公爵が、片手を上げて、それを止めた。
氷のような青い目が、まっすぐにわたしを見た。
「なぜ、そう思う」
「目の下の色です。それから、ゆうべ、回廊を歩く足音を聞きました。真夜中から、夜明けの鐘が鳴るまで、ずっと」
公爵は、何も言わなかった。長い、長い沈黙だった。
「……眠れぬのは、北を守る者の務めだ」
やがて、公爵は言った。
「魔獣は、夜に来る。私が眠っているあいだに、防衛線が破られたら、どうする」
わたしは、少しだけ迷った。それから、正直に言った。
「眠れない人には、きっと、北は守れません」
エーリクさんの手が、剣の柄にかかった。
公爵は、じっとわたしを見ていた。その目の奥で、何かが、ほんのわずかに揺れた気がした。
「……よかろう」
「閣下!」
「一日と、ひと晩だ。好きに使え。ゲルダと、手のあいている者を貸してやる」
公爵は、地図の上の駒を一つ、指先で倒した。
「ただし、今夜、私が眠れなければ。明日の朝、この城を出ていってもらう」
◇ ◇ ◇
それから、わたしは城じゅうを歩いた。
ゲルダさんのあとについて、回廊を、階段を、使われていない部屋を、一つずつ見て回った。
どの部屋も、天井が高く、広かった。窓は大きく、北の風が、木枠のすきまから容赦なく入りこんでくる。床も壁も、黒い石。暖炉の前だけが熱く、少し離れると、吐く息が白くなった。
(広すぎる)
広い部屋は、豪華に見える。でも、広すぎる部屋では、人は安心して眠れない。背中が、どこまでも無防備になるからだ。東の棟の、二階のつき当たりで、わたしは足を止めた。
小さな部屋だった。ほかの部屋の半分もない。壁が、ほどよく近い。窓は一つだけ。東を向いていて、その向こうに、黒い森と、遠い丘が見えた。
「ここは……」
「先の公爵夫人の、縫いものの部屋でございました」
ゲルダさんが、ほこりをかぶった小さな椅子を、そっとなでた。
「閣下のお母上です。閣下がお小さいころ、よくここで、お母上のお膝で眠っておられました。……お母上が亡くなってからは、誰も使っておりません」
わたしは、窓を開けた。
森のにおいがした。雨上がりの土と、針葉樹の、つんと青い香り。
「ここに、します」
◇ ◇ ◇
それから、一日じゅう、走り回った。
まず、音だった。
壁ぎわの振り子時計を、部屋の外に運び出した。窓の木枠のすきまには、ゲルダさんが探してくれた古い羊毛の布を、細く裂いて詰めこんだ。ひゅうひゅうという風の音が、ふっと消えた。石の壁には、倉庫にしまわれていた厚い織物を、何枚も重ねて掛けた。声を出してみると、石の部屋の硬い響きが、やわらかく吸いこまれていく。
いちばん難しかったのは、鐘と、鎧の音だった。
「見張りの交代の道を、今夜だけ、この棟から遠ざけていただけませんか。それから、鎧の金具に、布を巻いてほしいんです」
エーリクさんは、腕を組んで、わたしをにらんだ。
「城の守りを、なんだと思っている」
「守りを弱くしてほしいんじゃありません。見張りの人数は、そのままで。音だけを、消してほしいんです」
エーリクさんは、しばらく黙っていた。それから、大きなため息をついた。
「……閣下の、ご命令だからな」
次に、光だった。
燭台は、二つだけにした。背の低いものを、寝台から見えない位置に。炎の色が、白っぽい蝋燭ではなく、橙色に揺れる、蜜蝋のものを選んでもらった。窓には、厚いカーテン。でも、東の端だけは、指一本ぶん、すきまをあけておく。
朝、鐘で起こされるのではなく、光で目が覚めるように。
それから、温度。
暖炉の火は、小さく。ぱちぱちと燃えるのではなく、熾火が静かに赤く光るくらいに。そのかわり、かまどで温めた平たい石を、布で何重にもくるんで、寝台の足もとに入れた。
においも、変えた。
この城は、どこもかしこも、ランプの油と、鉄のにおいがした。部屋の窓を開けはなって、風を通した。床を水で拭いた。それから、森へ行って、針葉樹の若い葉を、両手いっぱいに摘んできた。浅い陶器の器に入れて、窓辺に置く。
最後に、寝台。
獣の脂のにおいのする毛皮は、全部、はずした。ゲルダさんが、古い長持の底から、先の公爵夫人が使っていたという亜麻のシーツを見つけてくれた。雨上がりの、よく晴れた日だった。中庭の日なたで、シーツを干した。夕方に取りこんで、暖炉の前で、温めた石を使って、しわを一本ずつのばした。
枕は、三つ。羽根のやわらかいものと、少し固めのもの。それから、ゲルダさんが「閣下は昔、これでないとお眠りにならなかった」と言った、麦の殻を詰めた、さらさらと鳴る小さな枕。
ポーチから、ピローミストを取り出した。半分だけ残ったラベンダー。その最後のひと吹きを、枕の上に、そっと落とした。
◇ ◇ ◇
「あの……これは、何に使うのでございますか」
夕方、台所の大きな洗い桶を、若い下女たちに部屋の隣の小部屋まで運んでもらったとき、みんなが、不思議そうに顔を見合わせた。人が、まるごと入れるくらいの、樽のような木の桶。
「お湯を、張りたいんです。肩まで、つかれるくらい」
「お湯に……閣下を、沈めるのでございますか!」
いちばん若い下女が、悲鳴のような声を上げた。
この国の人は、湯につかる習慣がない。体は、濡らした布で拭くだけ。お湯に体を沈めるなんて、病人か、赤ん坊くらいのものだ。
「沈めるんじゃなくて、温めるんです。体の芯から温まると、体は、自然に眠る準備を始めるんです」
わたしは、ポーチから、入浴剤を一包、取り出した。3包のうちの、1包。紙の袋を開けると、乳白色の粉から、ほのかに、ひのきと柑橘の香りが立ちのぼった。
下女たちが、いっせいに鼻をひくつかせた。
「……いい、においでございますね」
「でしょう?」
わたしが笑うと、下女たちも、つられて笑った。この城に来て、初めて聞く、笑い声だった。
◇ ◇ ◇
日が、沈んだ。
東の窓の外で、森が、藍色の闇に沈んでいく。部屋の中には、橙色の小さな灯りが二つ。熾火が、暖炉の奥で、とろりと赤く光っている。針葉樹の葉の香りと、かすかなラベンダー。
廊下から、足音が近づいてきた。
鎧の音はしなかった。エーリクさんは、約束を守ってくれたのだ。
扉の前で、足音が止まった。
わたしは、背すじをのばして、扉を開けた。
公爵が、立っていた。そのうしろに、腕を組んだエーリクさん。
公爵は、部屋の中を、ゆっくりと見回した。小さな部屋。厚い織物の壁。東の窓。三つの枕。
その視線が、窓辺の、小さな椅子の上で止まった。
母親の、縫いものの椅子だった。
ほんの一瞬。氷みたいだった青い目が、揺れたのを、わたしは見た。
「……見せてもらおう」
公爵の声は、少しだけ、かすれていた。
わたしは、深く頭を下げた。
「お待ちしておりました、公爵様。――今夜のお部屋に、ご案内いたします」




