14話 公爵様、朝まで眠る
隣の小部屋の洗い桶には、たっぷりとお湯が張られていた。下女たちが、かまどと何度も往復して、運んでくれたお湯だ。乳白色に溶けた入浴剤から、ひのきと柑橘の香りが、湯気といっしょに、ゆらゆらと立ちのぼっている。
公爵は、桶の前で、しばらく黙って立っていた。
「これに……入るのか」
「はい。肩まで、ゆっくりと。熱すぎたら、そこの水差しの水で、ぬるくしてください」
わたしは、桶の横の小さな台に、乾いた布を二枚と、着替えの寝衣を置いた。
「数を百まで、ゆっくり数えるくらいの時間で、十分です。長く入りすぎると、かえって疲れますから」
「百」
「はい。……では、わたしは、外でお待ちしております」
一礼して、小部屋を出た。扉を閉めて、廊下の壁に背中を預ける。
扉の向こうで、しばらく、何の音もしなかった。
それから、ちゃぷん、と、小さな水の音がした。
長い、長い、息を吐く音が、続いた。
◇ ◇ ◇
ずいぶんたってから、扉が開いた。
湯気が、ふわりと廊下に流れ出してきた。寝衣に着替えた公爵が、そこに立っていた。
濡れた淡い金の髪から、しずくが一滴、首すじを伝って落ちた。白い頬が、ほんのりと赤い。いつも喉もとまで留めていた襟が、今は、ゆるく開いていた。公爵は、自分の手のひらを、不思議そうに見下ろしていた。
「……体が、溶けるかと思った」
ぽつりと、そう言った。
わたしは、思わず笑いそうになって、あわてて頭を下げた。
「お部屋へ、どうぞ」
◇ ◇ ◇
東の小部屋は、さっきよりも、少しだけ暖かくなっていた。熾火が、暖炉の奥で、とろりと赤い。橙色の灯りが二つ、寝台からは見えない場所で、静かに揺れている。わたしは、白い陶器のカップを、公爵に差し出した。
「ゲルダさんが、北の森で摘んだ白い小さな花を、干して取ってあったんです。それを煎じて、蜂蜜を少しだけ。眠る前の体が、いちばん欲しがる甘さにしてあります」
公爵は、寝台の端に腰を下ろして、両手でカップを包んだ。ひと口。喉が、ゆっくりと動く。
「……甘い」
「お嫌でしたか」
「いや」
公爵は、もうひと口飲んで、目を伏せた。
「昔、母が、こういうものを作ってくれた気がする」
わたしは、何も言わなかった。ただ、空になったカップを、両手で受け取った。
「横になってください。最後に、もう一つだけ」
◇ ◇ ◇
公爵が、寝台に体を横たえた。
わたしは、暖炉の脇に置いておいた小鍋のふたを開けた。湯気の中から、小さくたたんだ白い布を、二枚取り出す。一枚は、手のひらくらいの大きさに、細長くたたんだもの。もう一枚は、もう少し長く、くるくると巻いたもの。
手首の内側に当てて、温度を確かめた。熱い、と感じる、一歩手前。
「失礼します。少しだけ、温かいです」
巻いたほうの布を、公爵の首のうしろに、そっと差し入れた。公爵の肩が、びくりと揺れた。それから、その肩から、するすると、力が抜けていくのがわかった。
「目を、閉じていただけますか」
公爵が、目を閉じた。長いまつげが、白い頬に影を落とした。細長くたたんだ布を、両目の上に、そっとのせる。
蒸しタオルの、アイパッド。現世のホテルで、特別な夜にだけ出てきた、あのおもてなしだ。
公爵の唇から、小さな息がもれた。
「……温かい」
「目と、頭の奥が、ずっと働きつづけていたんだと思います。少しのあいだ、何も見なくていいように」
わたしは、掛け布の手前の角を、三角に折り返した。ここで、眠っていいですよ、のしるし。それから、寝台の横にひざをついて、静かに言った。
「今夜は、わたしが起きています」
アイパッドの下で、公爵の眉が、わずかに動いた。
「扉のすぐ外にいます。何かあったら、わたしが起こします。北から知らせが来ても、エーリクさんの足音がしても、必ず、わたしが先に気づきます」
声が、少しだけふるえた。でも、最後まで言った。
「だから、公爵様は、眠ってください」
返事は、なかった。
わたしは立ち上がって、蜜蝋の灯りを一つだけ吹き消し、部屋を出た。
扉を閉める直前、振り返った。
公爵は、目の上に白い布をのせたまま、動かなかった。胸が、ゆっくりと上下していた。
◇ ◇ ◇
廊下に、小さな椅子を一つ置いた。ゲルダさんが貸してくれた毛布を、ひざにかけて座る。
回廊は、しんと静まりかえっていた。
鎧の音は、しなかった。遠くの塔で、交代の鐘が、かすかに鳴った。それも、厚い石の壁と、織物にさえぎられて、ほとんど聞こえない。
燭台の火が、じじ、と小さな音を立てた。
わたしは、扉の向こうの気配に、じっと耳をすませた。寝返りの音が、一度。それから、また静かになる。
しばらく待って、わたしは、指一本ぶんだけ扉を開けた。蒸しタオルは、冷えると、かえって体を冷やしてしまう。足音をしのばせて寝台に近づき、目の上の布と、首のうしろの布を、そっとはずした。どちらも、もう人肌くらいにぬるくなっていた。
二枚を、寝台の横の小さな台に置く。公爵は、目を覚まさなかった。わたしは、来たときと同じように、静かに部屋を出た。
(眠れて、いますように)
両手を、ひざの上で握りしめた。
真夜中の鐘が、遠くで鳴った。
そのしばらくあとだった。
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
うめき声だった。言葉にならない、苦しそうな声。寝台がきしむ音。息が、浅く、速くなっていく。
心臓が、どくんと跳ねた。
(夢を、見てるんだ)
ゲルダさんが言っていた。閣下は、お父上が亡くなってから、二刻と続けて眠ったことがない、と。いつも、同じ夢で目を覚まされるのだ、と。
扉の取っ手に、手をのばしかけた。
中に入って、揺り起こして、大丈夫ですよと言って、手を握って――。
その手が、取っ手の手前で、止まった。
(……それは、わたしの役目じゃない)
あの人の夢は、あの人のものだ。お父さんを亡くした痛みも、北を背負う重さも、あの人が背負ってきたものだ。わたしが代わりに背負うことはできない。背負えると思うのは、きっと、思い上がりだ。
わたしにできるのは、一つだけ。
あの人が、その重い荷物を、ほんのしばらく下ろしても大丈夫な場所を、守ることだけ。わたしは、扉に、そっと額を寄せた。そして、できるだけ静かな声で言った。
「公爵様。莉子です」
扉の向こうの、浅い息が、一瞬止まった。
「ここは、東の小さなお部屋です。お母様の、縫いもののお部屋です。わたしが、扉の外で起きています」
ゆっくりと、言葉を置くように。
「ここは、安全です」
しばらく、何の音もしなかった。
それから。
長い、長い息が、扉の向こうから聞こえてきた。寝台が、一度だけ、小さくきしんだ。
そして、静かになった。
深くて、ゆっくりとした、寝息だけが、残った。
わたしは、扉に額をつけたまま、目を閉じた。涙が、一粒だけ、頬を伝った。
◇ ◇ ◇
それから、足音は、一度も聞こえなかった。
回廊を行き来する、あの、こつ、こつ、という足音は。真夜中の鐘のあとにも、明け方の鐘の前にも。東の窓のある廊下の端が、少しずつ、灰色に白んでいった。
小鳥が、一羽、鳴いた。森の向こうの空が、薄い桃色に染まりはじめる。あのカーテンの、指一本ぶんのすきま。その向こうに、もうすぐ、朝の最初の光が差しこむ。
わたしは、毛布をひざにかけたまま、椅子の背にもたれた。まぶたが、重かった。一晩じゅう、張りつめていた糸が、ゆっくりとほどけていく。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。エーリクさんだった。夜明けの見回りなのだろう。
エーリクさんは、わたしの前で立ち止まり、扉を見た。それから、耳をすませるように、首をかしげた。扉の向こうからは、まだ、静かな寝息が聞こえていた。
「……閣下が」
エーリクさんの声が、かすれていた。
「閣下が、まだ、お休みになっている」
わたしは、返事をしようとした。でも、声にならなかった。最後に見えたのは、廊下の窓から差しこむ、金色の朝の光だった。




