15話 幕間 氷の公爵は、朝の光を知る
光が、まぶたを叩いた。
ユリウス・フォン・ノルトハイムは、それが何なのか、すぐにはわからなかった。鐘の音ではない。扉を叩く、伝令の拳でもない。剣の柄に手をのばさせる、あの、背骨の奥から突き上げてくる冷たい予感でもない。
ただ、やわらかくて、温かいものが、閉じたまぶたの上に、そっと置かれている。
目を開けた。
東の窓の、厚いカーテンの端。指一本ぶんのすきまから、細い金色の光が一筋、斜めに差しこんでいた。光の中で、細かなほこりが、ゆっくりと舞っている。ユリウスは、寝台の上で、しばらく動けなかった。
(……朝、か)
いつ、眠ったのか、覚えていなかった。
◇ ◇ ◇
体を起こすと、寝台の横の小さな台の上に、小さくたたまれた、白い布が二枚、置かれているのが見えた。ゆうべ、あの娘が、目の上と首のうしろにのせていったもの。眠りに落ちたあと、冷えてしまう前に、そっとはずしていったのだろう。触れると、もうすっかり冷たかった。
掛け布の手前の角が、三角に折り返されたままになっていた。ユリウスは、その三角を、しばらく見つめていた。
体が、軽かった。頭の奥に、いつも鉛のように沈んでいたものが、ない。目の奥の、焼けるような痛みが、ない。
そして、何より。
(……あの夢を、見なかった)
いや。見かけた、と思う。
吹雪。霜の山脈のふもと。白い牙をむいた、霜牙の群れ。雪の上に倒れた、父の背中。
――北を、頼む。
八年前。十九の冬。父、ヴィルヘルム・フォン・ノルトハイムの、最後の言葉だった。
あの日から、ユリウスは、眠るたびに、あの雪原に戻った。父に手をのばして、届かずに、目を覚ます。
二刻と眠れたことはなかった。眠らないほうが、ましだった。だから、夜は回廊を歩いた。北の窓から、山脈の黒い影を見張った。
ゆうべも、あの雪原に立った気がする。
けれど、そのとき、声がしたのだ。
――ここは、東の小さなお部屋です。
――ここは、安全です。
扉の向こうから。細くて、少しふるえた、けれど、少しも迷いのない声が。それを聞いたとたん、吹雪が、遠ざかった。足もとの雪が、やわらかな敷布に変わった。
そして、気がつけば、朝だった。
◇ ◇ ◇
ユリウスは、窓辺の小さな椅子に目をやった。
母の、縫いものの椅子だった。
幼いころ、この部屋で、母の膝に頭をのせて眠った。母は、針を動かしながら、北の古い子守歌を歌った。母が病で死んだのは、ユリウスが七つのときだった。それから、この部屋の扉は、ずっと閉ざされていた。
あの娘は、それを知っていて、この部屋を選んだのだろうか。
(……いや)
おそらく、知らなかった。ただ、この城でいちばん、壁が近くて、窓が一つで、東を向いている部屋を、探しただけだ。眠れない人間のために。
ユリウスは、寝衣のまま、扉を開けた。
◇ ◇ ◇
廊下に、小さな椅子が一つ、置かれていた。
その上で、あの娘が、眠っていた。
椅子の背に頭をあずけて、首を少しかしげている。ひざにかけた毛布が、半分、床にすべり落ちていた。黒い髪が、頬にかかっている。目の下に、うっすらと、疲れの影があった。
一晩じゅう、ここで起きていたのだ。
約束どおりに。
ユリウスは、部屋の中に戻り、椅子の背にかけてあった自分の外套を取った。黒い、厚い毛織りの外套。廊下に出て、それを、娘の肩から、そっとかけた。
娘は、目を覚まさなかった。ただ、外套の襟もとに顔をうずめるように、小さく身じろぎをした。
「……閣下」
振り返ると、エーリクが立っていた。
八年、そばに仕えてきた男だった。父の代からの、戦友の息子。どんな戦場でも、眉一つ動かさなかった男の目が、赤くなっていた。
「お休みに、なれたのですね」
「何刻だ」
「朝の六つの鐘が、少し前に鳴りました。……閣下は、真夜中から一度も、お部屋を出られませんでした」
ユリウスは、窓の外を見た。
森の上に、朝日が昇っていた。黒い木々の梢が、金色に縁どられて、光っている。
朝日を、美しいと思ったのは、いつ以来だろう。
「八年ぶりだな」
ユリウスは、自分の声が、ほんの少しやわらかいことに気づいた。
「私が、朝まで眠ったのは」
エーリクが、深く頭を下げた。
「……この娘を、疑いました。間者だと。お詫びのしようもありません」
「おまえが疑うのは、仕事だ」
ユリウスは、眠る娘の顔を、見下ろした。
――眠れない人には、きっと、北は守れません。
執務室で、この娘はそう言った。エーリクが剣に手をかけても、一歩も引かなかった。
誰も、ユリウスに、そんなことを言った者はいなかった。皆、彼を恐れるか、彼に取り入ろうとするか、そのどちらかだった。眠れていない、と見抜いた者さえ、いなかった。
そして、「ここは、安全です」と言った者も。
その言葉は、いつも、ユリウスが誰かに言う側の言葉だった。領民に。部下に。北の村々の子どもたちに。
自分が、言ってもらう日が来るとは、思わなかった。
「エーリク」
「はっ」
「この娘に、相応しい対価を用意しろ」
エーリクが、顔を上げた。
「金貨を、いかほど」
ユリウスは、すぐには答えなかった。
相応しい対価。八年ぶりの朝に、いくらの値をつければいい。
金貨百枚か。千枚か。どれだけ積んでも、足りない気がした。そして、どれだけ積んでも、この娘は、それを受け取らないような気がした。
「……目を覚ましたら、執務室へ通せ」
それだけ言って、ユリウスは、娘に背を向けた。
背中で、娘が、小さな寝言をつぶやくのが聞こえた。
「……おやすみなさいませ」
ユリウスは、足を止めた。
振り返りはしなかった。ただ、口の端が、自分でも気づかないうちに、ほんのわずかに、ゆるんでいた。
(名を、何と言ったか)
ゆうべ、扉の向こうから聞こえた名前を、思い出す。
(――莉子)
その名前を、ユリウスは、胸の中で一度だけ、くり返した。




