16話 パトロンではなく、パートナーとして
目を覚ますと、わたしは、自分の寝台の上にいた。
窓の外は、もう昼だった。肩に、黒い、厚い毛織りの外套がかけられていた。わたしのものではない。かすかに、針葉樹と、冷たい冬の空気のようなにおいがした。
「閣下が、廊下でお休みのあなたに、かけておいででしたよ」
ゲルダさんが、椀に入ったスープを運んできながら、目じりのしわを深くして笑った。
「それから、エーリク様が、ここまで抱えて運ばれました。……閣下は、朝まで、一度もお目覚めにならなかったそうです。お城じゅう、その話でもちきりですよ」
◇ ◇ ◇
執務室に入ると、公爵は、窓辺に立っていた。
昨日の朝とは、何かがちがって見えた。目の下の影は、まだ消えていない。でも、肩の線が、ほんの少しだけ、やわらかくなっていた。
「座れ」
勧められた椅子に、浅く腰かけた。
「約束は、果たされた。城を出ていく必要はない」
「……ありがとうございます」
公爵は、机の上の、小さな革袋を指で押しやった。
「当座の礼だ。金貨1枚ある」
金貨1枚。およそ、10万円。手取り16万円だったわたしには、ひと月の家賃と食費を払っても、まだおつりが来る金額だった。
でも、そのとき、ヴェルドさんの声が聞こえた。
――銀貨を一枚使う前に、問いなさい。
この金貨は、わたしの将来の自由を、増やすだろうか。
わたしは、革袋に手をのばさなかった。
「……お気持ちだけ、いただきます。お礼が欲しくて、お部屋を作ったわけではないので」
公爵の眉が、わずかに動いた。
「では、どうしたいんだ?」
思いがけない問いだった。この人は、わたしに、何が欲しいかではなく、どうしたいのかを聞いている。
「みなさんと同じ条件で、下働きをやらせてください」
窓ぎわのエーリクさんが、「は?」と間の抜けた声を出した。
「ゲルダさんや、下女のみなさんと同じお給金で、同じ仕事を。特別扱いは、いりません」
「理由を、聞こう」
「わたし、いつか、自分の手で作ってみたいものがあるんです」
「眠れない人が、『ここなら眠れる』と思える場所。重い荷物を背負った人が、しばらくのあいだ、それを下ろしていられる場所」
「でも、わたしは、まだこの国のことを、何も知りません。この国の人が、何に疲れて、何に安心するのか。だから、まず、ここで働いて、知りたいんです」
公爵は、しばらく何も言わなかった。
「……まず、住むところを提供しよう」
「この屋敷と、ここで働く人間を、よく知ってもらいたい。給金は、ゲルダに決めさせる」
「はい。……よろしくお願いします」
◇ ◇ ◇
楽な日々では、なかった。
噂は、わたしが下働きの部屋に移った次の日には、城じゅうに広がっていた。
――あの流れ者は、閣下に眠り薬を盛ったらしい。
――南の魔女だそうだ。
――身元も知れない女が、閣下の寝所に取り入って。
洗濯場では、誰も、わたしの隣で桶を使わなかった。台所でもらうスープは、いつも最後の、冷えきった鍋の底だった。
でも、今度は、逃げなかった。
木漏れ日亭で覚えたことを、一つずつ、ここでもやった。洗濯場の女の人たちの、あかぎれだらけの手に、残り少ないハンドクリームを一人ずつ塗った。すすぎの最後だけ、温めたお湯を使うことも提案した。
台所の煙突は、すすが詰まって、いつも煙が逆流していた。厩番の男の子と二人で、半日かけて掃除した。夜の見張りの兵たちには、交代の鐘の前に、蜂蜜をとかしたお湯を運んだ。
ひと月が、たった。
城の空気が、変わりはじめていた。
回廊に、針葉樹の葉の、青い香りがするようになった。洗濯場から、鼻歌が聞こえるようになった。台所の料理番のおばさんが、焼きたてのパンのいちばんおいしい端っこを、黙ってわたしの皿にのせるようになった。
そして、公爵は、毎晩、東の小部屋で眠った。入浴剤は、もう使わなかった。かわりに、ゲルダさんと、森の針葉樹の葉を煮出したお湯を作った。毎晩、少しずつ、眠る時間がのびていった。
◇ ◇ ◇
ある夕方、わたしは、執務室に呼ばれた。
公爵は、こわい顔をしていた。
机の上に、一冊の帳面が置かれていた。
わたしのものだった。夜、下働きの部屋で、思いつくままに書きためていた帳面。部屋の間取りの絵。窓の向き。シーツの干し方。眠れない人のための、たくさんの覚え書き。東の小部屋に、置き忘れていたのだ。
公爵は、その帳面を、指でとんとたたいた。
「宿を、建てたいのか」
心臓が、止まりそうになった。
「……はい」
「ならば、その金を出そう」
「それも……いただくのでは、だめなんです」
「いただいたお金で建てた宿は、公爵様の宿です。わたしは、また、誰かの宿の、使い捨ての手になってしまう。……少しだけ、考える時間をください。相談したい人がいるんです」
◇ ◇ ◇
その人が、ノルトハイムの城門に現れたのは、それから五日後のことだった。
「――莉子」
城門の前で、灰色の髪の老紳士が、杖をついて立っていた。その顔を見たとたん、わたしの足は、勝手に走りだしていた。
「ヴェルドさん……!」
「王都から戻ってみれば、湖のほとりに、金の鷲の旗が立っていた。君の手紙は、ひと月遅れで、王都からリンデンに回ってきた。マルタから話を聞いて、すぐに追ってきた」
「よく、生きていた」
その一言で、こらえていたものが、全部あふれた。
「全部、なくしました」
ヴェルドさんの外套にすがって、子どもみたいに泣いた。
「全部では、ない」
ヴェルドさんは、外套の内側から、一枚の紙を取り出した。わたしがポーチの奥にしまっていたのと同じ、商会の預かり証の、控え。
「君が、毎月、5枚ずつ預けた金だ。銀貨20枚。それに、わずかだが、利息がついている」
◇ ◇ ◇
それから三晩、わたしとヴェルドさんは、城の一室で、羊皮紙に向かった。
書いていたのは、「出資の願い状」だった。金を出す者と、汗を流して働く者が組んで、一つの商いをする。その組み方を、ヴェルドさんの国の商人たちは「コメンダ」と呼ぶ。願い状は、金を出してくれる人に、何を、どうやって、いくらで、と書いて見せるための文書だ。
場所は、エーリクさんが話していた、アステル湖のほとりの古い騎士寮。新しい寮ができてから半年、誰も住んでいない石造りの建物だ。二十人の騎士が暮らせる部屋と、大きな食堂と、湖に面した長い回廊がある。王都と北の公爵領の、ちょうどあいだにある。
「新しく建てるより、古いものを生かしたほうが、安く、早い。それに、厚い石の壁は、音を通さない」
ところが、一晩めは、そこから先の話が、まったくかみ合わなかった。
「貴族を相手にするなら、広い部屋と、金の飾りだ。暖炉は大きく、天井には絵を描かせる。王都の金鷲の館に負けぬようにな」
「ちがうんです。そうじゃなくて……もっと、こう、安心できる感じで」
「安心とは、何だ。いくらかかる。どう作る」
言いたいことは胸の中にあるのに、言葉にしたとたん、ばらばらにほどけてしまう。
「君の話は、雲をつかむようだ。雲に、金は出せん」
その夜、下働きの部屋の寝台で、天井を見ながら、ふと、東京の会社のことを思い出した。
営業事務の仕事で、お客様に送るお詫びや案内のメールを、AIに手伝ってもらって整えていたこと。
「いい感じのお詫びメールを」とだけ頼むと、ちぐはぐな文が返ってきた。でも、頼み方を変えたら、驚くほど伝わった。
あなたは誰として書くのか。何のために書くのか。相手はどんな人で、何があったのか。書いてはいけないことは何か。最後に、どんな形に仕上げてほしいのか。
(……人に話すときも、同じなのかもしれない)
次の夜、わたしは、羊皮紙の切れ端に、順番に書いてから話した。
『誰として:眠れない人のための宿を作る者として』
『何のために:泊まった人が、朝、「よく眠れた」と言って帰るために』
『どんな相手に:北から帰る兵士。重い荷を背負った商人。見栄を張りつかれた貴族。みんな、心のどこかが疲れている人たち』
『してはいけないこと:金の飾りで驚かせない。広すぎる部屋にしない。音と光とにおいと温度を、何より大事にする』
『どんな形に:湖に面した二十の部屋。まず八部屋から、ひと部屋ずつ、眠りのために整える』
一行読むごとに、ヴェルドさんの眉間のしわが、少しずつほどけていった。
「……なるほど。順序がある」
ヴェルドさんは、切れ端を指でなぞった。
「最初に、誰のためか。最後に、どんな形か。商人の契約書と、同じ組み立てだ。……君は、どこでこんな話し方を覚えた」
「遠い国の、仕事で、です」
それから先は、早かった。
ヴェルドさんは、羊皮紙に数字を書きこもうとして、ペンを止めた。
「だがな、莉子。金の前に、もう一つ問題がある。湖のそばの村は、よそ者を嫌う。身元の知れない若い女が、いきなり大きな宿を開けば、村も役場も、まず疑ってかかる」
『ひだまり』のことが、頭をよぎった。リンデンと、同じことになる。
わたしは、羊皮紙の切れ端に、また順番に書いた。
『一、焼きたてのパンを、売り歩く』
『二、村の中で、短いあいだだけ、パンの店を開く』
『三、それから、宿を開く』
「パン?」
「パンなら、村の人に毎日会えます。顔と名前を、少しずつ覚えてもらえます。税も、小さな額から、きちんと納めます。パン屋で働いてくれた人には、そのまま宿の最初の仲間になってもらいます」
ヴェルドさんは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりとうなずいた。
「信用も、銀貨と同じだ。少しずつしか、たまらん」
それから、二人で、数字を書きこんでいった。
『建物の改修 金貨10枚(材料と道具の代だけ。手は、わたし。パンを売らない半日に)』
『寝具・家具・食器 金貨50枚(まずは八部屋の分)』
『従業員の教育と、開業までの運転資金 金貨0枚(パンの売り上げでまかなう)』
『合計 金貨60枚』
金貨60枚。600万円。
「二十の部屋を、一度には作りません。まず、八部屋。部屋が埋まるようになったら、その利益で、次の部屋を作ります」
ヴェルドさんは、しばらく羊皮紙を見つめていた。それから、低い声で、笑った。
「……わしの弟子は、ときどき、師匠より先を行く」
◇ ◇ ◇
四日めの朝、わたしは、出資の願い状を持って、執務室に立った。
公爵は、黙って、一枚一枚をめくった。
「金貨60枚」
公爵は、最後の一枚から顔を上げた。
「少なすぎる。百枚出そう」
「60枚で、足ります。必要のないお金は、いただきません」
「わたしが出せるのは、銀貨20枚と、わずかな利息だけです」
「それから、わたしの手と、目と、時間を、全部」
公爵の青い目が、まっすぐにわたしを見た。
「契約の条件を、聞こう」
わたしは、自分で書いた羊皮紙を、もう一枚、差し出した。今度は、一行残らず、自分で読んで、自分で書いたものだった。コメンダの契約書だ。
『一、宿を経営する権利は、出資の額に応じて持つ。ただし、日々のおもてなしのやり方は、神楽坂莉子が決める。』
『二、毎年の利益は、4割を出資者への配当に、4割を宿の改築と蓄えに、2割を従業員へのご褒美にあてる。』
『三、神楽坂莉子は、利益の中から、出資者の持ち分を、少しずつ買い取ることができる。持ち分が半分を超えるまでは、宿の表向きの主は、出資者が務める。』
公爵は、その三行を、長いあいだ見つめていた。
「……三つめは」
「いつか、この宿が、公爵様のお金がなくても、一人で立てるようにしたいんです。パトロンに守ってもらう宿ではなく、パートナーと一緒に立つ宿に」
「表向きの主は」
「それまでは、公爵様のお名前を、お借りしたいんです。女が一人で宿の主になることを、よく思わない人も、まだ多いので」
公爵が、ペンを取った。
そして、わたしの三行の下に、自分の手で、一行を書き足した。
『四、湖に面した東の角部屋は、出資者ユリウス・フォン・ノルトハイムのために、いつでも空けておくこと。』
「これは……」
「常連客の、権利だ」
公爵は、表情ひとつ変えずに、署名をした。それから、ペンを、わたしのほうへ差し出した。
「パトロンではなく、パートナーとして。――それで、いいのだろう」
わたしは、ペンを受け取った。
今度は、最後の一行まで、全部、読んだ。そして、羊皮紙の一番下に、自分の名前を書いた。
神楽坂莉子。
この世界で書いた、二度目の、契約の名前だった。窓の外で、北の空が、いつのまにか、雲一つなく晴れわたっていた。
――朝の伝言――
第3章までお読みくださった、すべての方へ。
八年ぶりの朝の光は、思っていたよりも、まぶしいものでした。
扉の外で、一晩じゅう起きていてくれた人がいたことを、私は、たぶん一生忘れないでしょう。
ここまで莉子の宿に足を運んでくださったことに、心から感謝を。
もしこの物語の夜が、あなたの眠りを少しでも温めたなら、★評価とブックマークで、東の角部屋を予約していただけると幸いです。
次の章では、湖のほとりの古い寮が、生まれ変わりはじめます。
ユリウス・フォン・ノルトハイム
(代筆:作者)




