17話 アステル湖のほとりで
アステル湖に着いたのは、まだ夜が明けきらないころだった。ノルトハイムの城から、馬で二日。ヴェルドさんと、エーリクさんと、わたしの三人で、最後の丘を越えた。丘の上から見下ろした湖は、白い霧に包まれていた。
対岸の森も、空との境目も、何も見えない。ただ、ひんやりと湿った空気の中に、水と、枯れはじめた葦のにおいが、静かに満ちていた。
「あそこだ」
エーリクさんが、霧の中を指さした。
湖のほとりに、黒い大きな影が、うずくまるように建っていた。王都へ向かう街道が、そのすぐ前を通っている。旅人の目には、いやでも入る場所だった。いちばん近いアステル村の真ん中までは、歩いて二十分ほど。
「騎士がいたころは、このあたりに魔獣など寄りつかなかったのだがな」
エーリクさんが、馬の手綱を引きしぼりながら、ぼそりと言った。
「寮が空になってから、ときどき、森の奥で足跡が見つかるそうだ。……今のところは、まだ、姿を見せてはいないが」
◇ ◇ ◇
古い騎士寮は、思っていたよりも、ずっと大きかった。灰色の石を積み上げた、二階建て。窓は小さく、壁は厚い。屋根の一部は崩れかけ、軒下には、鳥の古い巣がいくつも残っていた。
重い木の扉を押すと、ぎいい、と長い音が、建物の奥まで響いていった。
中は、ほこりと、古い革と、鉄のにおいがした。大きな食堂には、傷だらけの長い机が、そのまま残されていた。壁には、騎士たちが小刀で刻んだらしい落書き。『ディーターの馬鹿』『酒、もう一杯』『母さんに会いたい』。
わたしは、最後の一つの前で、しばらく立ち止まった。ここで暮らしていた人たちも、眠れない夜を過ごしたのかもしれない。
「どうだ」
ヴェルドさんが、杖で床の石をこつこつとたたいた。わたしは、答えるかわりに、食堂の奥の扉を開けた。
その先に、長い回廊が続いていた。
片側は、石の柱がずらりと並ぶだけで、壁がない。柱と柱のあいだから、湖が見えた。
――そのときだった。
霧が、ゆっくりと、晴れはじめた。
対岸の森の上に、太陽が、顔を出した。最初の光が、湖の面に落ちた。
湖が、金色に、燃えた。
さざ波の一つ一つが、光の粒になって、きらきらと揺れている。その光が、回廊の柱のあいだを通りぬけて、ほこりだらけの石の床を、まっすぐな金色の縞模様に染めていった。わたしは、息をするのも忘れて、その光を見ていた。
「……ル・ソレイユ」
口から、こぼれていた。
「なんだ、それは」
「わたしの……遠い国の、もう一つ遠い国の言葉で、『太陽』っていう意味です」
わたしは、振り返った。
「この宿の名前は、ル・ソレイユにします。眠れなかった人に、この朝を届ける宿です」
ヴェルドさんは、湖を見たまま、何も言わなかった。エーリクさんが、小さく口笛を吹いた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、土の魔法の職人たちがやってきた。親方のグスタフさんは、岩みたいな肩をした、白いひげのおじいさんだった。壁に手のひらを当てて、目を閉じる。それだけで、石の中のひびや、湿り気がわかるのだという。
「いい石だ。百年はもつ。……で、嬢ちゃん。何から始める」
わたしは、答えられなかった。
二十の部屋。大きな食堂。長い回廊。崩れかけた屋根。手もとにあるのは、改修のための金貨10枚と、わたしの二本の手だけ。
やりたいことが、多すぎた。頭の中で、全部がいっぺんに叫んでいる。
その夜、湖のほとりの仮小屋で、わたしは、羊皮紙の前でうなっていた。
(……前にも、こんなことがあった)
東京の会社で、新しい店の開店準備の資料を、まるごと一つ、AIに作らせようとしたことがあった。
「開店準備の資料を全部作って」と頼んだら、返ってきたのは、どこにでもありそうな、ぼんやりした文書だった。
でも、頼み方を変えた。
まず、必要な項目を、全部書き出して。次に、その順番を決めて。それから、一つずつ頼んで、一つずつ、ちゃんとできているか確かめる。
そうしたら、驚くほど、いいものができた。
大きな頼みごとは、小さく分ける。一度に全部は、頼まない。
(人がやる工事も、きっと同じだ)
わたしは、羊皮紙に、線を引いた。
『一、屋根と、水まわり(雨が入れば、ほかの全部がむだになる。ここだけは、親方にお願いする)』
『二、東の棟の八部屋の、壁と窓(音と、光と、すきま風)』
『三、東の角部屋を、ひと部屋だけ、先に仕上げる』
『四、ひと部屋めを見本にして、残りの七部屋』
『五、食堂と回廊、それから足湯の部屋』
『六、西の棟の十二部屋は、八部屋が埋まるようになってから』
次の朝、グスタフさんに見せると、親方は、ひげをなでて、にやりと笑った。
「ひと部屋だけ、先にか」
「職人さんを何人も雇うお金は、ありません。屋根と水まわりのほかは、わたしが自分でやります。パンを売らない半日で」
グスタフさんが、目をむいた。
「はい。まず、ひと部屋だけ、完璧にします。そこで、わたしも、職人のみなさんも、『眠れる部屋』がどういうものか、体で確かめてから、ほかの部屋に移りたいんです」
「ふん。いちばん手間のかかるやり方だな」
グスタフさんは、肩を回した。
「だが、いちばん、しくじらないやり方だ」
それから親方は、腰の道具袋から、使いこんだ鉋を一つ取り出して、わたしの手に押しつけた。
「貸してやる。屋根は、材料の代だけでいい。そのかわり、毎朝、焼きたてのパンを一つ持ってこい」
東の角部屋の広さと、窓の向きは、わたしが決めた。ノルトハイムの城の、あの小さな縫いものの部屋と、同じに。壁がほどよく近くて、窓が一つ、東を向いている部屋に。
◇ ◇ ◇
その泉を見つけたのは、工事が始まって十日ほどたった、夕方だった。裏の林を歩いていると、どこからか、ぷつ、ぷつ、と、小さな音が聞こえてきた。
音のするほうへ、落ち葉を踏んで進んだ。
岩のくぼみに、小さな泉がわいていた。澄んだ水の底から、細かな泡が、絶えず、ぷつぷつと立ちのぼっている。手を入れてみると、水は、ほんのりと生ぬるかった。
「そいつに、さわるな、嬢ちゃん」
うしろから、職人の一人の声がした。
「腐った水だ。泡が出るのは、地の底で何かが腐ってるからだって、この辺のもんは、誰も近づかねえ」
わたしは、手のひらに水をすくった。においをかぐ。何のにおいもしない。
そっと、口に含んだ。
舌の上で、細かな泡が、しゅわっと弾けた。かすかな塩気と、鉄のような味。
「……炭酸水だ」
職人さんが、ぎょっとした顔で、わたしを見ていた。東京のコンビニの冷蔵庫に並んでいた、ペットボトルの炭酸水。仕事帰りに、よく買った。のどの奥で泡が弾けると、少しだけ、一日の疲れが流れていく気がした。
この国の人は、まだ、これを知らない。
わたしは、泉のほとりにしゃがんで、立ちのぼる泡を、しばらく見つめていた。
◇ ◇ ◇
ひと月後。東の角部屋の屋根が仕上がったのを見届けて、わたしは、リンデンへ向かった。
町の門をくぐると、湖畔のほうの丘の上に、金色の鷲の旗が見えた。あの『ひだまり』の屋根の上で、ばたばたとはためいている。窓には、金ぴかの飾りがつけられて、玄関には、見たこともない大きな看板がかかっていた。
胸が、ずきりと痛んだ。
でも、わたしは、目をそらさずに、その旗を一度だけ見た。それから、裏通りへ向かった。
木漏れ日亭の窓は、ぴかぴかに磨かれていた。
扉を開けると、食堂の奥から、エマさんが顔を出した。手に、あの『木漏れ日亭の手順帳』を持っている。ページの端が、何度もめくられて、すっかり丸くなっていた。
「莉子さん!」
その声に、台所の奥で、何かが、がしゃんと落ちる音がした。青い髪紐の、赤茶色の髪が、のれんの向こうから、のぞいた。
ニナだった。
ニナは、わたしの顔を見て、一瞬、泣きそうな顔をした。それから、ぎゅっと唇をかんで、そっぽを向いた。
「……何しに来たの。うそつき」
わたしは、ニナの前まで歩いていった。
「うん。うそついた」
ニナが、目だけで、こちらを見た。
「あの日、ニナまで牢に入れられたらって思ったら、こわくて。ああ言うしか、思いつかなかった。……でも、ニナに、いちばんひどいことを言った。ごめんなさい」
わたしは、深く頭を下げた。
長い沈黙だった。
「……ばか」
小さな声がした。
顔を上げると、ニナの目から、大つぶの涙が、ぼろぼろとこぼれていた。
「ばか。莉子の、ばか。あたし、ずっと……ずっと、この髪紐、外せなかったんだから」
ニナが、わたしの胸に飛びこんできた。わたしは、その小さな背中を、両腕で抱きしめた。日なたの干し草と、焼きたてのパンのにおいがした。台所の椅子で、マルタさんが、ふん、と鼻を鳴らした。
「連れていきな」
「えっ」
「木漏れ日亭は、エマと、エマの坊主と、その手順帳で、ちゃんと回ってる。このあいだから、もう一人、通いの娘も雇ったしね。……その子の居場所は、もう、決まってるみたいだからね」
マルタさんは、そう言って、目もとを前掛けでごしごしとこすった。ニナは、わたしのパン屋の、最初の店員になった。給金は、木漏れ日亭と同じだけ、きちんと払う。そう決めた。
◇ ◇ ◇
その夜、木漏れ日亭の食堂に、もう一人、懐かしい人が現れた。熊みたいに大きな体。左の頬の、古い傷。
「最後の仕事を、片づけてきた」
ブラムさんは、腰の剣を外して、テーブルの上に置いた。
「剣は、もう置いた。……だが、嬢ちゃん。前に言ったよな。どこかの宿の用心棒でもやるか、って」
ブラムさんは、照れくさそうに、頭をかいた。
「その口、まだ空いてるか」
わたしは、少しだけ迷って、正直に言った。
「……今は、まだ、お給金を払えないんです。宿どころか、最初はパン屋なので」
「パン屋?」
「はい。部屋が埋まるようになって、もし、魔獣が出るようになったら。そのときは、必ず呼びます」
ブラムさんは、目を丸くして、それから、腹をかかえて笑った。
「わかった。そのときまで、リンデンで、腹をすかせて待ってる」
窓の外で、菩提樹の葉が、さわさわと鳴っていた。




