18話 金鷲の館の、裏口
「パンを焼きはじめる前に、一度、見てきなさい」
ヴェルドさんは、そう言って、帳簿の上に一枚の地図を広げた。王都の地図だった。その真ん中あたりに、金色の小さな鷲の印が描きこまれている。
「金鷲の館だ。王国でいちばん客を集めている宿だ。客が、なぜあそこに金を払うのか。君の目で、見てくるといい」
わたしは、うなずいた。
東京の会社でも、新しい店を出す前には、まわりの店を何軒も見て回った。お客様の年齢。服の値段。店員さんの声のかけ方。競合を知らずに出す店は、たいてい、半年ももたなかった。
城で下働きをしていたひと月の給金が、銀貨12枚、手もとにあった。それを財布に入れて、わたしは、王都へ向かう乗合馬車に乗った。
◇ ◇ ◇
王都までは、馬車で二日かかった。
石畳の大通りは、人と馬車であふれていた。焼き栗の屋台の煙。香辛料の店の、鼻をくすぐるにおい。どこかの塔の鐘が鳴ると、鳩の群れが、いっせいに空へ舞い上がる。
金鷲の館は、大通りのいちばん目立つ角に建っていた。
すぐに、わかった。
建物全体が、金色に光っていたからだ。窓枠も、柱の飾りも、屋根の上の大きな鷲の像も、全部、金。門の前には、金の縁取りの赤い服を着た門番が四人、槍を持って立っている。門の向こうでは、四頭立ての馬車が、次から次へと客を降ろしていた。
門の脇の小さな掲示板に、宿の値段が書かれていた。
『金鷲の間 一泊 金貨5枚』
『黄金の間 一泊 金貨3枚』
『鷲の間 一泊 銀貨5枚』
わたしは、しばらく、その数字を見つめていた。
いちばん安い部屋でも、銀貨5枚。5万円。表参道のあのホテルより、ずっと高い。財布の中の銀貨12枚のうち、半分近くが、ひと晩で消えてしまう。
(……この5枚は、わたしの将来の自由を、増やすだろうか)
まずは、もっと安く、中を見られる方法を探そう。でも、掲示板のいちばん下に、もう一行、書かれていた。
『一階 茶房 どなたさまもお気軽に お茶一杯と、金鷲の焼き菓子 銅貨6枚』
金鷲の焼き菓子というのは、鷲の形に焼いた蜂蜜の菓子に、金箔をのせたものらしい。銅貨6枚。6千円のお茶とお菓子。
高い。でも、中を見られるなら、払う価値はある。わたしは、財布の口をきゅっと握って、門をくぐった。
◇ ◇ ◇
門をくぐって、三歩も歩かないうちだった。
「お嬢様」
金の縁取りの服の男の人が、すっと、わたしの前に立った。にこやかな顔だった。
「茶房へお越しでいらっしゃいますか。どうぞ、こちらへ」
ていねいな言葉だった。手のひらを上にして、行く先を示してくれる。わたしは、ほっとして、そのあとについていった。ところが、男の人が向かったのは、茶房の扉ではなかった。
建物の横の、細い通路だった。石の壁にはさまれて、日が当たらない。歩いていくうちに、生ごみと、古い油のにおいがしてきた。
「あの……茶房は」
男の人は、振り返らなかった。
通路のつきあたりに、小さな木の扉があった。そのそばに、槍を持った門番が二人、待っていた。男の人は、そこで初めて、わたしのほうを向いた。笑顔のままだった。
「まことに申しわけございません。当館は、お召し物にふさわしいお客様にだけ、ご利用いただいております」
わたしは、自分の服を見下ろした。
この世界に来たときから着ている、東京のコート。裾はすり切れて、ひじには、自分でつぎを当ててある。その下は、城でもらった下働きの服。靴は、かかとを折ったパンプスを、何度も直したもの。爪のあいだには、騎士寮を掃除したときの、木くずと漆喰のあとが残っていた。
門番の一人が、わたしの腕をつかんだ。
強くはなかった。でも、はなしてくれなかった。
「お出口は、こちらです」
木の扉が開いた。その向こうは、ごみ置き場だった。わたしは、背中を押されるようにして、扉の外に出された。
扉が、ぱたん、と閉まった。
裏通りを歩いていた人たちが、ちらちらと、わたしを見た。何か悪いことをして、つまみ出された女。そう見えたのだろう。
頬が、かあっと熱くなった。
◇ ◇ ◇
裏通りの壁にもたれて、わたしは、しばらく動けなかった。悔しかった。恥ずかしかった。でも、そのうち、頭の奥の、冷静な部分が、ゆっくりと動きはじめた。
(……あの人たちの考えも、わからないわけじゃない)
二十一歳の冬のことを思い出していた。
正社員になって、初めてボーナスが出た月に、一度だけ、日比谷の帝国ホテルに行ったことがある。泊まるお金はなかった。ロビーのラウンジで、お茶を一杯だけ飲みに行ったのだ。持っている中でいちばんいいワンピースを着て、何日も前から、靴を磨いて。
回転扉の前で、足がすくんだ。
そのとき、ドアマンの男の人が、まるで何度も来ている常連客を迎えるみたいに、やわらかく笑って言った。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お足もとにお気をつけて」
ロビーには、大きな花が生けてあった。話し声は、どれも小さかった。まわりのお客様たちも、みんな、少しだけよそ行きの服を着ていた。
あのとき、わかったのだ。
あの空気は、ホテルの人だけが作っているんじゃない。そこにいるお客様みんなで作っている。だから、ああいうホテルには、それを守るための決まりがある。服装のこととか、ふるまいのこととか。高いお金を払って、あの静けさを買いに来る人たちのために。
だから、金鷲の館が、お客様を選ぶこと。それ自体は、わからなくはない。
でも。
帝国ホテルのドアマンは、どんなお客様も、裏口から放り出したりはしなかった、と思う。もし、何かをお断りしなければいけないときでも、きっと、相手が恥ずかしくない形で、そっと伝えたはずだ。金鷲の館が守っていたのは、お客様の静けさじゃない。
自分たちの、見栄だ。
◇ ◇ ◇
その日の夕方まで、わたしは、金鷲の館の向かいの石段に座って、門を出入りする人たちを見ていた。宝石をじゃらじゃらとつけた貴婦人たち。大声で笑いながら、金貨を門番に投げる貴族の若者。開いた窓からは、楽団の大きな音と、強い香水のにおいが、通りまで流れてきた。
みんな、楽しそうだった。でも、誰一人、眠そうな顔をしていなかった。ここは、眠るための宿じゃない。見せるための宿だ。
わたしは、膝の上の帳面に、書きつけた。
『金鷲の館にあるもの:金。音楽。香水。宝石。見せびらかす楽しさ』
『金鷲の館にないもの:静けさ。眠り。安心。誰でも入れる扉』
それから、もう一行。
『ル・ソレイユは、見た目でお客様を分けない』
泥だらけの長靴をはいた農家のおじさんにも。継ぎはぎのコートを着た女の子にも。王都の貴族にも。同じ「いらっしゃいませ」を言う。
静けさを守るための約束は、作ろう。大きな声を出さない。香水をつけすぎない。でもそれは、見た目の決まりじゃない。ふるまいの約束だ。誰だって、守ろうと思えば守れる約束。
(扉は、誰にでも開いている宿にする)
帳面を閉じると、王都の空が、茜色に染まっていた。金鷲の館の屋根の上で、金の鷲が、夕日を受けて、ぎらぎらと光っていた。
◇ ◇ ◇
二日後、アステル湖のほとりに帰り着いたのは、夜明け前だった。騎士寮の台所に入ると、ニナが、もう起きて、窯に火を入れていた。
「おかえり。……どうだったの、金ぴかの宿」
わたしは、継ぎはぎのコートを脱いで、壁の釘にかけた。
「泊まれなかった。お茶も、飲めなかった。裏口から、追い出されちゃった」
ニナの顔が、みるみる赤くなった。
「なにそれ! あたし、今から王都に行って、文句言ってくる!」
「いいの」
わたしは、笑って、ニナの肩に手を置いた。
「おかげで、わかったから。わたしが、どんな宿を作りたいのか」
窯の中で、薪がぱちんとはぜた。
「ニナ。パンを、焼こう。この村の、いちばん最初のお客様の顔を、一人ずつ覚えるところから、始めよう」




