19話 焼きたてパンと、ロバのマロン
まだ暗いうちに、騎士寮の台所の大きな窯に火を入れた。午前4時。湖の上には、まだ星が残っている。かまどの薪がぱちぱちとはぜて、冷えきった石の台所に、少しずつ温かさが広がっていった。
「莉子、生地、ふくらんでる」
ニナが、寝ぼけまなこで、木の鉢にかけた布をめくった。ゆうべこねておいたパン生地が、鉢のふちまで、ふっくらと盛り上がっている。指で押すと、ゆっくりと押しかえしてきた。
この世界には、東京のスーパーで売っていた、小袋のドライイーストなんてない。だから、パンをふくらませるものから、自分で育てた。
ガラスの瓶に、林檎の皮と芯と、井戸の水を入れる。毎朝ふたを開けて空気を入れかえ、瓶をゆすってやる。五日めの朝、林檎のまわりに、細かな泡がぷつぷつと立ちはじめた。甘酸っぱい、お酒みたいなにおい。天然の酵母だ。
その水に粉を混ぜて、パン種にする。毎日、粉と水を少しずつ足して、育てて、増やしていく。お金で買うのではなく、毎日の手間で増やすもの。なんだか、ヴェルドさんの帳簿の「未来へ」の欄みたいだと思った。
ただ、天然の酵母は、のんびり屋だ。生地がふくらむまでに、ひと晩かかる。だから、パンの仕事は、前の晩に生地をこねて、布をかけて寝かせるところから始まる。
「よし。今日から、始めるよ」
騎士寮の窯は、二十人の騎士のパンを毎日焼いていただけあって、大きかった。グスタフ親方が、ひび割れたところを土の魔法でふさいでくれた。その窯に、丸めた生地を、一つずつ並べていく。
◇ ◇ ◇
ロバと荷車は、アステル村の宿場の馬屋で借りた。
「ロバ一頭と、荷車ひと台。ひと月で、銀貨6枚だ」
馬屋のおじさんは、わたしとニナを、じろじろと見た。
「女二人で、パンの行商ねえ。……まあ、金さえ払ってくれりゃ、文句はねえよ」
借りたロバは、灰色の、おとなしい雌だった。名前は、マロン。荷車には、ニナと二人で、雨よけの帆布の屋根をつけた。前には、板に字を書いた看板を下げる。
『焼きたてパン ル・ソレイユ』
まだ宿の名前しかない、宿の看板だった。
村役場にも行った。行商の鑑札をもらうためだ。窓口の書記のおじいさんは、わたしの顔を見るなり、眉をひそめた。
「よそ者の女が、行商か」
「はい。決まりの鑑札代と、毎月の売り上げの1割を、税として納めます」
わたしは、鑑札代の銅貨5枚を、窓口に置いた。それから、一つだけ、お願いをした。
「受け取りの証文に、役場の印を押していただけますか」
書記のおじいさんは、少し驚いたような顔をした。それから、ふん、と鼻を鳴らして、赤い印を、ぎゅっと押してくれた。リンデンで、走り書きの一枚を破られた日のことを、わたしは忘れていない。
◇ ◇ ◇
最初は、お昼だけの商いにした。
焼くのは、三種類。基本は、湖の塩をひとつまみのせた丸パン。かむほどに、林檎の酵母のほのかな甘酸っぱさが広がる。ほかに、よく売れそうなものを二つ。蜂蜜をぬってつやを出したパン。それから、腸詰めをまるごと一本はさんだ、旅人向けの長いパン。どれも、小銅貨3枚から5枚。
荷車を引いて、湖のほとりの道を、マロンといっしょにぽくぽくと歩く。パンの包みから、香ばしいにおいが、湯気といっしょに立ちのぼった。朝の空気は冷たく、ニナの頬は、林檎みたいに赤い。
街道の分かれ道と、村の広場の井戸の前。お昼の鐘が鳴るころ、その二か所に荷車を止めた。最初の日に焼いたのは、60個。売れたのは、40個だった。
その夜、わたしは、売れ残った20個のパンを前に、帳簿をつけた。それから、その日、パンを買ってくれた人たちの言葉を、思い出せるだけ書き出した。
――畑の帰りに、晩のパンを買いたいんだがねえ。
――街道を歩いてると、夕方には腹が減るんだ。
――昼は、まだ前の日のパンが残ってるんだよ。
(お昼じゃ、なかったんだ)
みんなが本当にパンを欲しいのは、お昼よりも、少しあとの時間だった。次の週から、商いの時間をのばした。お昼の鐘から、夕方の鐘まで。畑から帰ってくるおかみさんたちと、宿場に向かう旅人たちが、荷車の前で足を止めるようになった。
◇ ◇ ◇
商いのない時間は、全部、騎士寮の改修にあてた。
夕方に荷車を返すと、その足で、東の棟へ向かう。グスタフ親方に借りた鉋で、窓枠の古い木を削る。すきまに羊毛を詰める。床板のきしむところに、くさびを打つ。
最初の夜は、腕が上がらなくなった。次の朝、パン生地をこねる手が、ぶるぶるとふるえた。
「莉子、無理しすぎ」
ニナが、わたしの手から、生地をひったくった。
「こねるのは、あたしがやる。莉子は、成形だけ」
「……ありがとう、ニナ」
ニナは、ぷいと横を向いた。でも、こねる手つきは、木漏れ日亭のころより、ずっとたくましくなっていた。
月の終わり、わたしは、売り上げの1割を、役場の窓口に納めた。銀貨5枚と、銅貨2枚。書記のおじいさんは、黙って、印を押した。二か月めには、何も言わずに、印を押すようになった。
◇ ◇ ◇
その日は、朝から、雲一つない青空だった。
いつもより多く、120個を焼いた。秋の収穫の日で、畑に出る人が多いと聞いたからだ。
ところが、お昼を過ぎたころ。
西の山の向こうから、黒い雲が、すごい速さで湧いてきた。風が、ざあっと湖面を逆立てる。あっという間に、大粒の雨が、荷車の帆布の屋根を、ばらばらと叩きはじめた。
広場から、人が、いっせいに消えた。畑の人たちも、街道の旅人も、みんな、どこかの軒下へ逃げこんでしまった。夕方の鐘が鳴るころ、荷車の上には、まだ、100個近いパンが残っていた。
雨の日は、商いを休む。だから、いつもは雨の日の分を焼かない。でも、今日のパンは、もう焼いてしまった。帰り道、雨に濡れたマロンの背中を見ながら、わたしは泣きそうになった。
(パン100個。小銅貨で、400枚。銀貨にして、4枚)
ニナが、帆布の下で、ずぶ濡れの肩をすくめた。
「……明日、売れば?」
「明日には、かたくなっちゃう。焼きたてじゃないパンを、焼きたての値段では売れないよ」
そう言ってから、わたしは、はっとした。
焼きたての値段では、売れない。
でも、焼きたてではない値段なら。
東京のスーパーで、閉店前に、パンやお惣菜に貼られていた、あの黄色いシール。半額。仕事帰りに、それを探して、何度も買った。次の朝、わたしは、看板の横に、新しい板を下げた。
『きのうのパン 半額』
『薄く切って、火であぶると、焼きたてに戻ります』
お昼の鐘が鳴る前に、100個のパンは、なくなった。畑のおかみさんたちが、「これなら、毎日でもいい」と笑った。それからは、焼きすぎた日の分は、次の日に、半額で売ることにした。
◇ ◇ ◇
でも、本当は、焼きすぎないほうがいい。
雨の日にたくさん焼かないために。晴れの日に足りなくならないために。次の日の空模様が、わかればいいのに。
その話を、ある日、荷車の前で、行商人のオットーさんにした。王都への街道を通るたびに、わたしのパンを買ってくれるようになっていたのだ。
「空模様、ねえ」
オットーさんは、ひげをなでて、それから、荷台の奥から、小さな木の籠を取り出した。籠の中で、白い、ふわふわしたものが、もぞりと動いた。うさぎだった。手のひらにのるくらいの大きさで、耳が、ふつうのうさぎよりずっと長い。
「北の山で捕まえた、空読みうさぎだ。魔物の一種だが、おとなしい。こいつの毛の色で、次の日の天気がわかる」
「毛の色、ですか」
「次の日が晴れなら、真っ白。曇りなら、灰色。雨なら、青くなる。……銀貨2枚でどうだ」
銀貨2枚。2万円。わたしは、帳簿の数字を、頭の中でめくった。雨の日に余らせたパンは、銀貨4枚分だった。
「買います」
ニナは、そのうさぎに、ソラという名前をつけた。
◇ ◇ ◇
ソラの毛は、本当に、次の日の空を当てた。
夕方、毛が真っ白なら、次の日は120個。灰色なら、80個。うっすら青みがかったら、50個だけ焼いて、あとは生地を寝かせておく。真っ青なら、休み。
わたしは、毎晩、ソラの毛の色と、焼いた数と、売れた数を、帳簿に並べて書いた。ひと月もすると、焼く数と、売れる数の差が、だんだん小さくなっていった。最初の月に、ひと月で200個近くあった売れ残りが、次の月には、40個になった。
「莉子、ソラ、すごいね」
ニナが、ソラの長い耳を、指先でそっとなでた。ソラは、目を細めて、ふごふごと鼻を鳴らした。
「ソラもすごいけど、毎日書いてきた帳簿も、すごいんだよ」
わたしは、帳簿の、びっしりと並んだ数字を指でなぞった。一日だけでは、何もわからない。でも、毎日の記録を並べると、少しずつ、明日のことが見えてくる。
夕暮れの広場を、マロンの荷車でぽくぽくと帰る。井戸の前で遊んでいた子どもたちが、わたしたちに手をふった。
「パンのお姉ちゃん、また明日ね!」
わたしは、手をふりかえした。
よそ者の女。最初は、そう呼ばれていた。今は、パンのお姉ちゃん。それだけのことが、こんなにうれしいとは思わなかった。




