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手取り16万の私が異世界で高級ホテルを開業したら、冷徹な公爵様が常連になりました 〜ホカンス狂いの元OLが届ける、極上の癒やしとご褒美タイム〜  作者: Hamin
第4章 湖畔の古い寮と、パンの香り

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19/24

19話 焼きたてパンと、ロバのマロン

まだ暗いうちに、騎士寮の台所の大きな窯に火を入れた。午前4時。湖の上には、まだ星が残っている。かまどの薪《まき》がぱちぱちとはぜて、冷えきった石の台所に、少しずつ温かさが広がっていった。


「莉子《りこ》、生地、ふくらんでる」


ニナが、寝ぼけまなこで、木の鉢にかけた布をめくった。ゆうべこねておいたパン生地が、鉢のふちまで、ふっくらと盛り上がっている。指で押すと、ゆっくりと押しかえしてきた。


この世界には、東京のスーパーで売っていた、小袋のドライイーストなんてない。だから、パンをふくらませるものから、自分で育てた。


ガラスの瓶に、林檎の皮と芯と、井戸の水を入れる。毎朝ふたを開けて空気を入れかえ、瓶をゆすってやる。五日めの朝、林檎のまわりに、細かな泡がぷつぷつと立ちはじめた。甘酸っぱい、お酒みたいなにおい。天然の酵母だ。


その水に粉を混ぜて、パン種にする。毎日、粉と水を少しずつ足して、育てて、増やしていく。お金で買うのではなく、毎日の手間で増やすもの。なんだか、ヴェルドさんの帳簿の「未来へ」の欄みたいだと思った。


ただ、天然の酵母は、のんびり屋だ。生地がふくらむまでに、ひと晩かかる。だから、パンの仕事は、前の晩に生地をこねて、布をかけて寝かせるところから始まる。


「よし。今日から、始めるよ」


騎士寮の窯は、二十人の騎士のパンを毎日焼いていただけあって、大きかった。グスタフ親方が、ひび割れたところを土の魔法でふさいでくれた。その窯に、丸めた生地を、一つずつ並べていく。


◇ ◇ ◇


ロバと荷車は、アステル村の宿場の馬屋で借りた。


「ロバ一頭と、荷車ひと台。ひと月で、銀貨6枚だ」


馬屋のおじさんは、わたしとニナを、じろじろと見た。


「女二人で、パンの行商ねえ。……まあ、金さえ払ってくれりゃ、文句はねえよ」


借りたロバは、灰色の、おとなしい雌だった。名前は、マロン。荷車には、ニナと二人で、雨よけの帆布の屋根をつけた。前には、板に字を書いた看板を下げる。


『焼きたてパン ル・ソレイユ』


まだ宿の名前しかない、宿の看板だった。


村役場にも行った。行商の鑑札をもらうためだ。窓口の書記のおじいさんは、わたしの顔を見るなり、眉をひそめた。


「よそ者の女が、行商か」

「はい。決まりの鑑札代と、毎月の売り上げの1割を、税として納めます」


わたしは、鑑札代の銅貨5枚を、窓口に置いた。それから、一つだけ、お願いをした。


「受け取りの証文に、役場の印を押していただけますか」


書記のおじいさんは、少し驚いたような顔をした。それから、ふん、と鼻を鳴らして、赤い印を、ぎゅっと押してくれた。リンデンで、走り書きの一枚を破られた日のことを、わたしは忘れていない。


◇ ◇ ◇


最初は、お昼だけの商いにした。


焼くのは、三種類。基本は、湖の塩をひとつまみのせた丸パン。かむほどに、林檎の酵母のほのかな甘酸っぱさが広がる。ほかに、よく売れそうなものを二つ。蜂蜜《はちみつ》をぬってつやを出したパン。それから、腸詰めをまるごと一本はさんだ、旅人向けの長いパン。どれも、小銅貨3枚から5枚。


荷車を引いて、湖のほとりの道を、マロンといっしょにぽくぽくと歩く。パンの包みから、香ばしいにおいが、湯気といっしょに立ちのぼった。朝の空気は冷たく、ニナの頬は、林檎みたいに赤い。


街道の分かれ道と、村の広場の井戸の前。お昼の鐘が鳴るころ、その二か所に荷車を止めた。最初の日に焼いたのは、60個。売れたのは、40個だった。


その夜、わたしは、売れ残った20個のパンを前に、帳簿をつけた。それから、その日、パンを買ってくれた人たちの言葉を、思い出せるだけ書き出した。


――畑の帰りに、晩のパンを買いたいんだがねえ。

――街道を歩いてると、夕方には腹が減るんだ。

――昼は、まだ前の日のパンが残ってるんだよ。


(お昼じゃ、なかったんだ)


みんなが本当にパンを欲しいのは、お昼よりも、少しあとの時間だった。次の週から、商いの時間をのばした。お昼の鐘から、夕方の鐘まで。畑から帰ってくるおかみさんたちと、宿場に向かう旅人たちが、荷車の前で足を止めるようになった。


◇ ◇ ◇


商いのない時間は、全部、騎士寮の改修にあてた。


夕方に荷車を返すと、その足で、東の棟へ向かう。グスタフ親方に借りた鉋《かんな》で、窓枠の古い木を削る。すきまに羊毛を詰める。床板のきしむところに、くさびを打つ。


最初の夜は、腕が上がらなくなった。次の朝、パン生地をこねる手が、ぶるぶるとふるえた。


「莉子、無理しすぎ」


ニナが、わたしの手から、生地をひったくった。


「こねるのは、あたしがやる。莉子は、成形だけ」

「……ありがとう、ニナ」


ニナは、ぷいと横を向いた。でも、こねる手つきは、木漏れ日亭のころより、ずっとたくましくなっていた。


月の終わり、わたしは、売り上げの1割を、役場の窓口に納めた。銀貨5枚と、銅貨2枚。書記のおじいさんは、黙って、印を押した。二か月めには、何も言わずに、印を押すようになった。


◇ ◇ ◇


その日は、朝から、雲一つない青空だった。


いつもより多く、120個を焼いた。秋の収穫の日で、畑に出る人が多いと聞いたからだ。


ところが、お昼を過ぎたころ。


西の山の向こうから、黒い雲が、すごい速さで湧いてきた。風が、ざあっと湖面を逆立てる。あっという間に、大粒の雨が、荷車の帆布の屋根を、ばらばらと叩きはじめた。


広場から、人が、いっせいに消えた。畑の人たちも、街道の旅人も、みんな、どこかの軒下へ逃げこんでしまった。夕方の鐘が鳴るころ、荷車の上には、まだ、100個近いパンが残っていた。


雨の日は、商いを休む。だから、いつもは雨の日の分を焼かない。でも、今日のパンは、もう焼いてしまった。帰り道、雨に濡れたマロンの背中を見ながら、わたしは泣きそうになった。


(パン100個。小銅貨で、400枚。銀貨にして、4枚)


ニナが、帆布の下で、ずぶ濡れの肩をすくめた。


「……明日、売れば?」

「明日には、かたくなっちゃう。焼きたてじゃないパンを、焼きたての値段では売れないよ」


そう言ってから、わたしは、はっとした。


焼きたての値段では、売れない。


でも、焼きたてではない値段なら。


東京のスーパーで、閉店前に、パンやお惣菜に貼られていた、あの黄色いシール。半額。仕事帰りに、それを探して、何度も買った。次の朝、わたしは、看板の横に、新しい板を下げた。


『きのうのパン 半額』

『薄く切って、火であぶると、焼きたてに戻ります』


お昼の鐘が鳴る前に、100個のパンは、なくなった。畑のおかみさんたちが、「これなら、毎日でもいい」と笑った。それからは、焼きすぎた日の分は、次の日に、半額で売ることにした。


◇ ◇ ◇


でも、本当は、焼きすぎないほうがいい。


雨の日にたくさん焼かないために。晴れの日に足りなくならないために。次の日の空模様が、わかればいいのに。


その話を、ある日、荷車の前で、行商人のオットーさんにした。王都への街道を通るたびに、わたしのパンを買ってくれるようになっていたのだ。


「空模様、ねえ」


オットーさんは、ひげをなでて、それから、荷台の奥から、小さな木の籠を取り出した。籠の中で、白い、ふわふわしたものが、もぞりと動いた。うさぎだった。手のひらにのるくらいの大きさで、耳が、ふつうのうさぎよりずっと長い。


「北の山で捕まえた、空読《そらよ》みうさぎだ。魔物の一種だが、おとなしい。こいつの毛の色で、次の日の天気がわかる」


「毛の色、ですか」

「次の日が晴れなら、真っ白。曇りなら、灰色。雨なら、青くなる。……銀貨2枚でどうだ」


銀貨2枚。2万円。わたしは、帳簿の数字を、頭の中でめくった。雨の日に余らせたパンは、銀貨4枚分だった。


「買います」


ニナは、そのうさぎに、ソラという名前をつけた。


◇ ◇ ◇


ソラの毛は、本当に、次の日の空を当てた。


夕方、毛が真っ白なら、次の日は120個。灰色なら、80個。うっすら青みがかったら、50個だけ焼いて、あとは生地を寝かせておく。真っ青なら、休み。


わたしは、毎晩、ソラの毛の色と、焼いた数と、売れた数を、帳簿に並べて書いた。ひと月もすると、焼く数と、売れる数の差が、だんだん小さくなっていった。最初の月に、ひと月で200個近くあった売れ残りが、次の月には、40個になった。


「莉子、ソラ、すごいね」


ニナが、ソラの長い耳を、指先でそっとなでた。ソラは、目を細めて、ふごふごと鼻を鳴らした。


「ソラもすごいけど、毎日書いてきた帳簿も、すごいんだよ」


わたしは、帳簿の、びっしりと並んだ数字を指でなぞった。一日だけでは、何もわからない。でも、毎日の記録を並べると、少しずつ、明日のことが見えてくる。


夕暮れの広場を、マロンの荷車でぽくぽくと帰る。井戸の前で遊んでいた子どもたちが、わたしたちに手をふった。


「パンのお姉ちゃん、また明日ね!」


わたしは、手をふりかえした。


よそ者の女。最初は、そう呼ばれていた。今は、パンのお姉ちゃん。それだけのことが、こんなにうれしいとは思わなかった。

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