20話 ふた月だけの、パンの店
冬の初め、アステル村の広場に、小さなパンの店を開いた。店といっても、広場に面した雑貨屋の、表の土間を借りただけだ。雑貨屋のヨハンナおばあさんは、ご主人を亡くしてから、店をほとんど開けていなかった。
「ふた月だけでいいなら、好きに使いな。ひと月、銀貨3枚でどうだい」
土間には、古い陳列台と、通りに面した大きな窓があった。窓を磨いて、陳列台に麻の布を敷く。その上に、焼きたてのパンを籠ごと並べた。
窓の外から、パンが見える。においが、広場じゅうに流れていく。それだけで、足を止める人がいた。
◇ ◇ ◇
店を開けるのは、お昼の鐘から、夕方の鐘まで。
朝は、騎士寮の窯でパンを焼く。焼きあがったパンを、マロンの荷車で村まで運ぶ。夕方に店を閉めたら、荷車で騎士寮に戻って、日が暮れるまで、東の棟の改修をする。ひと月がすぎるころには、ニナが、一人で店番をできるようになった。
わたしは、その分の時間を、全部、改修にまわした。床を張りかえ、窓に新しい木枠をはめ、壁に漆喰を塗る。指は、ささくれと、まめだらけになった。それでも、東の棟の八つの部屋は、少しずつ、部屋らしくなっていった。
店は、思っていたよりずっと、繁盛した。
雪の日には、焼きたてのパンの湯気が、窓ガラスを白くくもらせた。そのくもった窓に、子どもたちが指で絵を描いて、おかみさんに叱られる。夕方には、仕事帰りの男の人たちが、腸詰めのパンを片手に、店の前で立ち話をしていく。
「パンのお姉ちゃんの店」と、村の人たちは呼んだ。
店が混みはじめたころ、わたしは、新しいパンを焼きはじめた。
東京のパン屋さんで、よく買っていたベーグルだ。丸パンと同じ生地を、少し固めにこねて、輪っかの形にする。それを、焼く前に、たっぷりのお湯でさっとゆでる。ゆでてから焼くと、表はつるりと光って、中はむっちりと、かみごたえのあるパンになる。
これも、三種類にした。
『ソラの輪っか』 蜂蜜とミルクをねりこんだ、真っ白でやわらかい甘さの輪っか。
『森の木いちごの輪っか』 干した赤い木いちごを、ぎっしり混ぜこんだもの。
『おひさまの輪っか』 上に山羊のチーズをのせて、こんがり焼いたもの。
名前は、ニナと、店の窓に張りついていた子どもたちがつけてくれた。「ベーグル」という言葉は、誰も覚えてくれなかった。村では、みんな「わっかパン」と呼んだ。
わっかパンは、子どもたちに大人気になった。指に通して、くるくる回しながら食べる子もいて、おかみさんに叱られていた。いちばん人気は、ソラの輪っか。ソラは、自分の名前のパンが売れるたびに、窓辺の籠の中で、得意そうに耳をぴんと立てた。
◇ ◇ ◇
困ったことが起きたのは、ひと月めの終わりだった。役場の書記のおじいさんが、店にやってきたのだ。いつもの窓口の顔とはちがう、こわばった顔だった。
「村の者から、苦情が出ている」
「苦情、ですか」
「よそ者の店が、こんなに客を集めるのはおかしい。売り上げをごまかして、税を少なく納めているのではないか、とな」
わたしは、帳簿を取り出した。毎日の売り上げも、仕入れも、全部書いてある。でも、書記のおじいさんは、帳簿をぱらぱらとめくって、首を横に振った。
「わしには、この書き方がわからん。役場の帳簿の形で、出してもらわんと」
役場の帳簿の形。そんなものがあるなんて、知らなかった。その夜、わたしはヴェルドさんに手紙を書いた。三日後に届いた返事には、一人の名前が書かれていた。
『アステル村に、わしの昔の帳場師が住んでいる。エルマーという。役場の帳簿の書き方も、税の決まりも、あの男がいちばんよく知っている』
◇ ◇ ◇
エルマーさんは、村はずれの小さな家で、孫に読み書きを教えて暮らしている、白髪のおじいさんだった。
「ヴェルド様の、お弟子さんか」
わたしの帳簿を受け取ると、エルマーさんは、眼鏡をかけて、一枚ずつ、ゆっくりとめくっていった。
「……ほう。毎日の売り上げと、売れ残りと、次の日の天気まで書いてあるのか。こんな細かい帳簿は、見たことがない」
「役場の形に、直していただけませんか。お礼は、ひと月に銀貨1枚しか出せないんですが」
「ひと月に、一刻だけ見ればいい仕事だ。それで十分だよ」
エルマーさんは、そう言って、にっこり笑った。
月の終わり、エルマーさんが役場の形に書き直してくれた帳簿と、税の銀貨を、わたしは窓口に置いた。書記のおじいさんは、その帳簿を、長いあいだ読んでいた。
それから、顔を上げた。
「……エルマーの字か」
「はい。お願いしました」
「あいつの帳簿に、まちがいがあったためしはない」
書記のおじいさんは、赤い印を、いつもより強く押した。
それからは、苦情は、一度も来なかった。
◇ ◇ ◇
店には、毎日、少しずつパンが余った。
雨の次の日の「きのうのパン」は、半額で売れる。それでも、閉店のころには、いくつか籠に残ることがあった。ある夕方、店を閉めようとしたとき、窓の外に、小さな女の子が立っているのに気がついた。
7歳くらいだろうか。薄い上着一枚で、裸足に近い靴をはいている。くもった窓ガラスに鼻をくっつけるようにして、籠のパンを、じっと見ていた。わたしは、残ったパンを三つ、紙に包んで、外に出た。
「よかったら、どうぞ」
女の子は、びくっとして、一歩下がった。
「……お金、ない」
「お金は、いらないの。今日の残りだから。お家の人と、食べてね」
女の子は、しばらく迷っていた。それから、両手で包みを受け取って、ぺこりと頭を下げて、雪の中を走っていった。あとで、ヨハンナおばあさんが教えてくれた。あの子の家は、父親が冬のはじめに森で怪我をして、働けなくなったのだと。
その日から、売れ残ったパンは、閉店のあとで、村の困っている家に届けることにした。足の悪いおじいさんの家。子どもの多い寡婦の家。ニナが、マロンの荷車に乗せて、配ってまわった。
「ご褒美の2割って、こういうのにも使っていいんだよね」
ニナが、荷車の上で、白い息を吐きながら言った。
「うん。うまくいった日の、お祝いだからね」
◇ ◇ ◇
ふた月めの半ば、わたしは、店の窓に、新しい札を貼った。
『パンの店は、月の終わりで閉めます』
『ありがとうの気持ちをこめて、最後の十日間、すべてのパンを一割引きにします』
それから、もう一枚。
『湖のほとりの古い騎士寮に、宿を開きます』
『ル・ソレイユ 二月の終わりに、八部屋だけ』
『ご予約、この店で承ります』
札を貼った日の夕方、店の前に、人だかりができた。
「パン屋、やめちまうのかい」
「宿って、あの騎士寮かい? あそこは、幽霊が出るって噂だよ」
「パンは、宿でも売るのかね」
一人ずつに、答えた。宿の朝ごはんには、このパンを出すこと。宿の窓は、全部、湖のほうを向いていること。足だけをお湯につける、足湯というものがあること。
予約の帳面に、最初に名前を書いたのは、意外な人だった。
役場の書記の、あのおじいさんだった。
「春に、王都から娘夫婦が帰ってくる。……うちは狭くてな。二晩、頼めるか」
わたしは、帳面に、その名前を、ていねいに書いた。手が、少しふるえた。
二人めは、エルマーさん。三人めは、行商人のオットーさん。四人めは、ヨハンナおばあさんの、遠くに住む妹さん。閉店の日までに、予約の帳面は、二月と三月の週末で、ほとんど埋まった。
◇ ◇ ◇
最後の日、店を閉めたあと、わたしは、空っぽになった土間を、ニナと二人で掃除した。
窓ガラスには、子どもたちが指で描いた絵の跡が、うっすらと残っていた。パンの絵。うさぎの絵。それから、二人の女の人が、手をつないでいる絵。
「これ、莉子と、あたしかな」
「たぶんね」
ニナが、窓の絵の跡を、指先でそっとなでた。
その日は、ちょうど、一月の最後の日だった。ニナが、16歳になった日だった。
わたしは、ふた月分の2割から、ニナのために、新しい前掛けを買っていた。湖の水みたいな、澄んだ青い布の前掛け。あの日の髪紐と、同じ色だ。
「お誕生日、おめでとう。それから、宿の店員、一人めになってください」
ニナは、前掛けを両手で受け取って、しばらく黙っていた。
「……一人めって、あたしだけ?」
「最初はね。ニナが、みんなの先頭に立つの」
ニナは、青い前掛けを、ぎゅっと胸に抱いた。
「……しょうがないな。なってあげる」
外では、雪が、音もなく降りはじめていた。




