21話 八つの部屋と、最初のお客様
二月の終わりの、夕暮れ。
ル・ソレイユの玄関の扉を、わたしは、もう一度だけ拭いた。重い樫の扉は、グスタフ親方に教わって、自分で油を何度もすりこんだものだ。夕日を受けて、蜂蜜色に、しっとりと光っている。扉の横には、真鍮の小さな札をかけた。
『ル・ソレイユ 主 ノルトハイム公爵ユリウス』
表向きの主の名前だ。わたしの名前は、どこにもない。それでいい、と思った。今は、まだ。
◇ ◇ ◇
開けるのは、東の棟の八部屋だけだった。
西の棟の十二部屋は、まだ、騎士たちがいたころのままだ。窓には板を打ちつけ、扉には鍵をかけた。いつか、八つの部屋が満ちるようになったら、その利益で、ひと部屋ずつ直していく。
八つの部屋は、全部、自分の手で作った。
窓は、どれも湖を向いている。壁には、厚い織物。寝台には、日なたで干して、アイロンをかけた亜麻のシーツ。枕は三つ。窓辺には、浅い器に、針葉樹の若い葉。時を刻むものは、一つも置いていない。
そして、一階の廊下のつき当たりに、小さな部屋を一つ作った。
足湯の部屋だ。
『ひだまり』では、木の桶にお湯を張って、お客様の部屋まで運んでいた。でも、重い桶を抱えて階段を上り下りするのは、思っていたよりずっと大変だった。お湯は、運んでいるうちに冷めてしまう。
だから、この宿では、足湯のほうに来てもらうことにした。
石の長椅子を、壁に沿って作りつけた。その足もとに、石をくりぬいた細長い湯船。台所のかまどから、土の魔法の管で、熱いお湯が引いてある。湯の中には、銀穂草の湯の袋を一つ。窓の外には、夕暮れの湖。
すうっとした香りが、湯気といっしょに、部屋じゅうに満ちていた。
◇ ◇ ◇
最初は、朝ごはんだけを出すことにした。
働き手は、わたしと、ニナの二人だけだ。夕ごはんまで出せば、どちらかが倒れる。だから、まずは、朝ごはんを完璧にする。
東京にいたころ、一度だけ、星野リゾートの宿に泊まったことがある。驚いたのは、フロントで迎えてくれた人が、夜には夕ごはんを運んできてくれて、次の朝には、その土地の朝の散歩を案内してくれたことだった。一人が、いくつもの仕事をこなす。そして、どの仕事でも、その土地らしさを伝えようとしていた。ここに来なければ味わえないものを、お客様に。そういう考え方なのだと、あとで知った。
人が少ないうちは、ル・ソレイユも、そうしよう。迎えも、掃除も、朝ごはんも、湖の案内も、ニナとわたしで。そして、この湖でしか見られない朝を、届ける。
焼きたてのパン。湖の塩をひとつまみのせた丸パンと、蜂蜜パン。ゆで卵と、とろりと溶けたチーズ。泡の泉の水を、銀の水差しに入れて冷やしたもの。
「お客様が来る前に、最後の確認ね」
わたしは、ニナといっしょに、八つの部屋を一つずつ見てまわった。窓のすきま。燭台の高さ。枕の数。掛け布の三角。
ニナは、手に、自分の帳面を持っていた。わたしが書いた『ル・ソレイユの手順帳』を、自分の字で写したものだ。
「ニナが、この宿で、いちばん最初の従業員だよ」
「知ってる。もう、三回聞いた」
ニナは、そっけなく言った。でも、青い前掛けのひもを結ぶ指が、少しだけふるえていた。
◇ ◇ ◇
日が沈みかけたころ、街道のほうから、蹄の音が聞こえてきた。一頭だけだった。速くも遅くもない。
わたしは、玄関の前に立った。ニナが、わたしの少しうしろに並んだ。
湖のほとりの道を、黒い馬が近づいてくる。乗っているのは、黒い外套の、背の高い人だった。淡い金の髪が、夕日の最後の光を受けて、赤く光っていた。
公爵様は、玄関の前で馬を下りた。
「予約は、していないが」
いつもどおりの、温度のない声だった。
でも、わたしは知っている。この人は、開業の日を、ずっと前から知っていた。北の砦から、今日のために、二日かけて馬を走らせてきたのだ。外套の裾が、旅の泥で汚れていた。
わたしは、深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ、公爵様。お待ちしておりました」
それから、顔を上げて、笑った。
「ル・ソレイユの、最初のお客様です」
公爵様は、しばらく黙って、わたしを見ていた。それから、ほんのわずかに、口の端をゆるめた。
「最初の客、か」
「はい。常連客第1号に、なっていただけると、うれしいです」
「……考えておこう」
公爵様は、そう言って、外套を脱いだ。それを、ニナが、緊張でかちこちになりながら、両手で受け取った。
◇ ◇ ◇
その夜、ル・ソレイユの八つの部屋のうち、埋まったのは、三部屋だった。東の角部屋に、公爵様。二部屋めに、役場の書記のおじいさんの娘夫婦。三部屋めに、行商人のオットーさん。
夕ごはんは出さない。でも、夜には、足湯の部屋にお茶を運んだ。オットーさんは、石の長椅子に座って、湯の中に足を沈めるなり、大きな声を出した。
「こりゃあ、いい! 嬢ちゃん、桶を運んでたころより、ずっといいぞ!」
書記のおじいさんの娘さんは、湖の見える窓の前で、小さく声を上げた。
「お父さんが、『あの騎士寮が、生まれ変わった』って手紙に書いてきたの。本当だったのね」
わたしは、廊下の端で、その声を聞いていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
◇ ◇ ◇
その夜も、東の角部屋の扉の前に、椅子を一つ置いた。
扉の向こうは、静かだった。
ノルトハイムの城で過ごした、あの夜とはちがう。公爵様は、もう、ここでは、うなされなかった。
真夜中を過ぎて、わたしは、帳簿を開いた。
『二月 最後の夜』
『八部屋のうち、三部屋』
三部屋。
およそ、四割だ。
ヴェルドさんに教わった数字を、思い出した。王国でいちばん繁盛している町の宿でも、ひと月をならせば、部屋が埋まるのは、七割と少しだという。
(東京のホテルも、たしか、それくらいだった)
前に、仕事の資料で見たことがある。都会のホテルの部屋が埋まる割合は、ならして、七割四分くらい。それでも、繁盛しているほうなのだ、と。わたしは、帳簿の最後のページに、一行だけ書いた。
『九割の夜が続いたら、次の部屋を直す。次の人を雇う。それまでは、決して、無理をしない』
ペンを置いて、窓の外を見た。
湖の上に、二つの月が出ていた。白い月と、青い月。湖の面に、二本の光の道ができている。
『ひだまり』の岸辺で、ニナと二人で見た月と、同じ月だった。
あのとき、わたしは、すべてを失った。
今は、八つの部屋と、一人の仲間と、一人のお客様がいる。扉の向こうで、静かな寝息を立てているお客様が。
◇ ◇ ◇
朝、カーテンのすきまから、最初の光が差しこんだ。
湖が、金色に燃えた。
食堂に下りてきた公爵様は、窓ぎわの席で、焼きたての丸パンを、黙って二つ食べた。それから、三つめに手をのばして、ふと止まった。
「……この塩は」
「アステル湖のほとりで、泡の泉の水を煮つめて作りました。まだ、少ししかできないんですけど」
公爵様は、三つめのパンを、ゆっくりとちぎった。
「次の予約を、入れておこう」
「えっ」
「来月の、満月の夜だ。東の角部屋を」
わたしは、目を丸くした。それから、急いで、予約の帳面を開いた。
『三月 満月の夜 東の角部屋 ノルトハイム公爵様』
ペンを持つ手が、うれしくて、少しだけふるえた。昼前、書記のおじいさんの娘夫婦の馬車が、湖のほとりの道を帰っていった。わたしとニナは、玄関の前で、その馬車が丘の向こうに見えなくなるまで、頭を下げて見送った。日本の旅館の女将さんが、お客様の車が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと見送っていた姿を思い出しながら。
「見えなくなっても、下げてるの?」と、ニナが小声で聞いた。「うん。お客様が振り返ったとき、まだ見送っていたら、うれしいでしょ」
その日から、公爵様は、ル・ソレイユの、常連客第1号になった。
――パンのお姉ちゃんの、本日のお品書き――
一、湖の塩の丸パン(第4章をお読みくださった皆さまへの、感謝をひとつまみ)
二、蜂蜜パン(ここまでの旅の、ごほうびに)
三、腸詰めの長いパン(次の章へ進む、腹ごしらえに)
四、きのうのパン 半額(読み返し用に、どうぞ)
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございます。
パンの荷車から始まったル・ソレイユは、八つの部屋で、ようやく最初のお客様を迎えました。
お代は、ページ下の★評価とブックマークで頂戴しております。
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次の章でも、焼きたてのおもてなしをご用意してお待ちしております。




