22話 幕間 表参道のホテルの、窓の前で
表参道の並木が、早い春の雨に濡れていた。
神楽坂由紀江は、ホテルの回転扉の前で、傘をたたんだ。手が、少しふるえていた。ここに来るのは、何度めだろう。娘がいなくなってから、一年と四か月。数えるのは、もうやめていた。
ロビーには、白い花が生けてあった。娘が、いつか電話で話していた花だ。「ホテルに入ると、白い花のにおいがするの」と。そのとき、自分は、何と答えただろう。たしか、「そんなとこに、お金使って」と。
「神楽坂様」
声をかけられて、振り返った。黒い上着の、若いコンシェルジュだった。胸に、金色の小さな鍵の飾り。佐伯、と名札にある。
「本日も、お越しいただいて。……あのお部屋は、今日は空いております。少しだけでしたら」
佐伯は、何も聞かずに、エレベーターの扉を開けてくれた。
◇ ◇ ◇
18階の、いちばん小さいデラックスルーム。
警察の人と来た部屋だった。あの金曜日の夜、娘はここにチェックインして、それから、店からの呼び出しで出ていった。窓ぎわのテーブルには、食べかけのプリンと、コンビニのおにぎりの包み紙が、残っていたという。
それきり、娘は、この部屋に戻らなかった。
由紀江は、窓の前に立った。雨の向こうに、灰色の東京が広がっていた。あの夜、最後に届いたLINEを、もう何百回も読み返していた。
『莉子:ごめん。今夜も、表参道のホテル。でも、これから店に戻る。仕事』
(ごめん、なんて。謝るのは、こっちなのに)
「お荷物は、ご家族さまにお返ししましたが……」
うしろで、佐伯が、言いにくそうに言った。
「お部屋のカードキーだけは、まだ、戻ってきておりません。神楽坂様が、持ったままでいらっしゃるのだと思います」
由紀江は、窓に映る自分の顔を見た。目の下に、くまができていた。
(あの子、まだ、持ってるのかしら。どこかで)
◇ ◇ ◇
ホテルを出ると、雨は小降りになっていた。
並木道の向かいのカフェで、一人の若い女性が、手をふっていた。真鍋沙希。娘の、中学からの友だちだ。
「おばさん、また、ホテル行ってたんですか」
沙希は、湯気の立つカップを両手で包みながら、困ったように笑った。
「莉子のこと、何か、思い出したことがあったら、って言われてたので。……ずっと、考えてたんです」
由紀江は、うなずいた。
「わたしね、あの子のこと、何にもわかってなかったのかもしれないの。高い宿にばっかりお金使って、見栄っぱりになったって、怒ってばかりで」
沙希は、しばらく黙っていた。それから、首を横に振った。
「莉子は、見栄で泊まってたんじゃないと思います」
◇ ◇ ◇
「十九のときに、二人で、北海道に行ったんです。お金がないから、青春18きっぷで。泊まったのは、ユースホステル。一泊、四千円ちょっとの」
沙希は、窓の外の雨を見ながら、話しはじめた。
「二段ベッドの、知らない人と同じ部屋で。夜になると、食堂でミーティングっていうのがあって。宿のペアレントさん……あ、宿のご主人のことなんですけど、その人がギターを弾いて、泊まってる人みんなで、歌を歌うんです。知らない人ばっかりなのに」
沙希の口もとが、ゆるんだ。
「次の日どこに行くとか、どこの温泉がよかったとか、バスの時刻とか、みんなで教えあって。そしたら、一人旅の女の子が、急に泣きだしたんです。会社を辞めて、どうしていいかわからなくて、旅に出たって」
由紀江は、黙って聞いていた。
「みんな、困ってたんですけど、莉子だけ、その子の隣に座って、黙って話を聞いてたんです。何にも言わないで、ずっと。……最後に、その子、『聞いてくれて、ありがとう』って、笑ってました」
沙希は、カップを置いた。
「その夜、二段ベッドの上と下で、莉子が言ったんです。『ここ、高いホテルより、好きかも。知らない人ばっかりなのに、帰る場所みたい』って」
雨の音が、カフェの窓を、静かに叩いていた。
「莉子が高いホテルに泊まってたのは、たぶん、帰る場所が欲しかったからだと思います。……会社でも、家でも、ずっと、誰かのために我慢してたから」
由紀江は、両手で、顔をおおった。
高校を、自分からやめた冬。「わたし、働くよ」と言ったあの子を、止めなかったこと。毎月一万円を、黙って入れてくれていたこと。それなのに、「ホテルなんかに」と言いつづけたこと。
「……わたし、あの子の学資保険ね、まだ解約してないの」
由紀江は、かすれた声で言った。
「いつか、あの子が、また勉強したくなったときのためにって。毎月、少しずつ。……ばかみたいでしょう。本人が、どこにいるかもわからないのに」
沙希は、首を横に振った。
「ばかじゃないです。莉子、絶対、喜びます」
◇ ◇ ◇
カフェを出ると、雨は、やんでいた。
雲のすきまから、うすい春の光が差して、濡れた並木道を、きらきらと光らせていた。
由紀江は、ホテルの18階の窓を、見上げた。
(莉子。どこかで、ちゃんと、眠れてる?)
どこか遠いところで、娘が、見知らぬ誰かの枕もとに座って、黙って話を聞いている気がした。昔、北海道のユースホステルで、そうしていたように。
由紀江は、鞄の中の通帳を、そっと握りしめた。
そして、駅のほうへ、ゆっくりと歩きはじめた。




