23話 人を育てる宿
春が来て、アステル湖の氷が、ある朝、いっせいにきしんで割れた。白い氷のかけらが、陽の光を受けて、ゆっくりと湖の真ん中へ流れていく。岸辺の柳が、うす緑の芽をふいた。
帳簿の数字も、少しずつ動きはじめていた。
『三月 八部屋のうち、ならして六割』
『四月 八割』
役場の書記のおじいさんの娘さんが、王都に帰ってから、知り合いに話してくれたらしい。オットーさんは、街道の宿場という宿場で、足湯の話をしてまわった。週末だけでなく、平日の夜にも、予約が入るようになった。
そして、ニナが、倒れそうになっていた。
朝ごはんの支度。八部屋のシーツの交換。足湯の部屋の掃除。お客様の出迎えと見送り。その全部を、二人で回していたのだ。
「夕ごはんも出してほしいって、今日も三人に言われた」
夜、台所の椅子に座りこんだニナが、ぼそりと言った。
(そろそろ、二人めを雇うときだ)
◇ ◇ ◇
二人めに来てもらったのは、ハンナさんだった。
王都の大きな宿の台所で、下働きをしていた人だ。主人に、毎日のように殴られていたという。村の寡婦の家にパンを届けていたニナが、その家に身を寄せていたハンナさんを見つけてきた。
最初の日、わたしは、ハンナさんに言った。
「お客様を迎える前に、まず、ハンナさんに、ちゃんと満たされていてほしいんです」
ハンナさんは、きょとんとした顔をした。
「疲れきった人には、人を休ませることはできません。だから、ハンナさんの部屋も、ご飯も、お休みも、ちゃんと決めます」
人は、お腹がすいていて、眠る場所も、明日の寝床も心配なうちは、誰かにやさしくする余裕なんてない。まず、そこを満たす。それから、そばに仲間がいること。そのあとで、ようやく、人のために何かをしたくなる。木漏れ日亭の屋根裏で、わたし自身が、そうだった。
従業員の部屋は、母屋の隣の、小さな離れに作った。一人に一部屋。狭いけれど、窓があって、寝台には、お客様と同じシーツを使う。食事は、日に三度。七日に一度は、必ず休む。給金は、月の終わりに、名前を呼んで手渡す。
「もらったお給金は、8割を未来に、2割をご褒美に。ご褒美は、つらい日じゃなくて、うまくいった日に使ってください」
ハンナさんは、小さく手を上げた。
「あの……ご褒美って、使っても、叱られないんですか」
わたしは、笑った。
「叱られません。それも、仕事のうちです」
ハンナさんは、信じられないという顔で、自分の手のひらを見つめていた。ハンナさんに仕事を教えるのは、ニナに任せた。最初の従業員で、いちばんこの宿を知っている人だからだ。わたしは、ニナの横で、ときどき口をはさむだけにした。
それから、ニナに、一つだけ約束を渡した。
東京にいたころ、海外のある有名なホテルの話を読んだことがある。そのホテルでは、従業員の一人ひとりが、お客様のためなら、上の人に聞かずに使っていいお金の額が決まっているのだという。記念日だと知れば花を用意し、忘れ物に気づけば馬車を追いかける。その場で、その人の判断で。
「お客様のためなら、銀貨1枚までは、わたしに聞かずに使っていいよ。使ったら、あとで帳簿に書いておいてね」
ニナは、目を丸くした。それから、ほんの少しだけ背すじをのばして、「……わかった」とうなずいた。
◇ ◇ ◇
ハンナさんが来て、ひと月。ル・ソレイユは、夕ごはんを出しはじめた。
湖でとれた鱒を、香草といっしょに焼いたもの。根菜を、とろとろになるまで煮こんだスープ。それから、焼きたてのパン。ハンナさんの料理は、王都の大きな宿で鍛えられただけあって、どれも、ていねいでおいしかった。
それに合わせて、手順帳も書き足した。
その夜、仕事を終えた食堂で、わたしは羊皮紙を広げた。
(……AIも、こうだったな)
東京の会社で、AIに長い頼みごとをするとき、文をだらだらと並べると、大事なところを読み落とされた。でも、見出しをつけて、箇条書きにして、比べたいものは表にすると、驚くほど正確に読んでくれた。人も、きっと同じだ。長い文は、読むのも、覚えるのも、つらい。
わたしは、羊皮紙に、大きな印を書いた。
『■ 夕ごはんの支度』
その下に、短い行を、一つずつ。
『・夕方の鐘の前に、窓辺の灯りを二つだけ点ける』
『・お客様の名前を、席に着く前に、もう一度たしかめる』
『・スープは、熱すぎない。お客様の指先が赤ければ、少しぬるめに』
『・お皿を置いたら、「長い一日でしたね」と、ひとこと』
その下には、表も作った。
『食堂の温度 / 春と秋:暖炉の熾火を一つ / 冬:二つと、足もとに温めた石』
手順帳は、こうして、人が増えるたびに、ページが増えていった。
◇ ◇ ◇
それでも、うまくいかないことがあった。
手順帳どおりに、ハンナさんが、お客様にお茶を出した。カップの置き方も、言葉づかいも、手順帳のとおりだった。でも、そのお客様は、あとで、わたしにそっと言った。
「あの方、なんだか、こわい顔をしていらしたけれど……何か、怒らせてしまったかしら」
ハンナさんの顔は、ひきつったまま、固まっていたのだ。殴られないように、失敗しないように。それだけを考えている顔だった。
(手順だけじゃ、伝わらないことがある)
そのとき、また、東京のことを思い出した。AIに文章を書いてもらうとき、「やさしい感じで」と言葉で頼むより、「こういう文がいい」「こういう文はよくない」と、例を二つ三つ見せたほうが、ずっと伝わった。次の日、わたしはニナと二人で、ハンナさんの前に立った。
「今から、お茶の出し方を、二回やります。どっちがいいか、見ていてください」
一回目。ニナがお客様役。わたしは、カップを置いて、「どうぞ」とだけ言って、すぐに下がる。顔は、ずっと手もとを見たまま。
二回目。同じように、カップを置く。でも、今度は、ニナの顔を見て、ほんの少し首をかしげる。
「長い道のりでしたね。少し、甘めにしてあります」
それだけ。
ハンナさんは、しばらく黙っていた。
「……二回目のほうが、あったかいです」
「どこが、ちがいました?」
「顔、です。それから、『長い道のりでしたね』って。わたしのこと、見ていてくれたんだって、わかる」
わたしは、うなずいた。
「手順帳は、まちがえないためのものです。でも、お客様を安心させるのは、その人を、ちゃんと見ていることです」
ハンナさんが、両手で顔をおおった。その肩が、小さくふるえていた。
◇ ◇ ◇
初夏には、三人めと四人めが来た。
戦で片足を悪くして、騎士団を辞めた、フェリクスさん。夜の見回りと、お客様の荷物を受け持ってくれる。それから、山あいの農家の娘のリタ。まだ15歳で、読み書きができなかった。
リタのために、手順帳の一つ一つの行の横に、小さな絵を描いた。窓の絵。シーツの絵。三角の絵。
「これ、字が読めなくても、わかる」
リタが、目を丸くした。ニナが、その横で、得意そうに胸を張った。従業員が三人をこえて、夕ごはんの支度も回るようになったころ、王都から一通の手紙が届いた。ヴェルドさんの紹介した、ベルナー商会の会頭からだった。
『売り子が育たず、困っている。そちらで、泊まりがけで教えてはもらえないか』
平日の夜、空いている部屋に、売り子たちに泊まってもらう。あの日、ノルトハイムの城で、ヴェルドさんに話した研修だ。
教えるのは、一つだけにした。
「お客様の話を、最後まで聞いてください。売りこむのは、そのあとでいいです」
礼法の先生として、オデット・ラヴァル夫人にも来てもらった。もとは、王妃様のおそばに仕えていた女官長で、ヴェルドさんの古い知り合いだ。背中に定規でも入っているみたいに、背すじがまっすぐな人だった。
「礼法は、相手を安心させるための、型にすぎません。型は、わたくしが教えましょう。心は、あなたがたが、もう持っています」
最初の研修の夜、売り子の一人が、足湯の部屋で泣きだした。
「……こんなふうに、誰かに大事にしてもらったの、初めてです」
ひと月後、ベルナー商会から、また手紙が来た。
『売り子たちの顔が、変わった。客が、戻ってきた。次の研修は、いつになる』
手紙の最後には、こう書き添えてあった。
『追伸 王都の商人仲間が、ル・ソレイユの出資者になりたがっている』
わたしは、少し考えて、返事を書いた。
『ありがとうございます。出資のお話は、いつか、宿を大きくするときに、あらためてお願いいたします』
◇ ◇ ◇
夏になった。
湖の上を、白い水鳥が、群れになって渡っていく。夕方には、回廊の長椅子に座ったお客様たちが、金色に暮れていく湖を、言葉もなく眺めていた。
『六月 八部屋のうち、ならして九割』
『七月 九割』
わたしは、帳簿の最後のページを開いた。
『九割の夜が続いたら、次の部屋を直す。次の人を雇う』
二か月、続いた。
その夜、わたしは、西の棟の扉の鍵を、久しぶりに開けた。板を打ちつけた窓のすきまから、夏の夜風が、ほこりのにおいを運んできた。
利益の4割で、ひと部屋ずつ直していく。まずは、二部屋から。グスタフ親方には、また屋根だけを頼んだ。
◇ ◇ ◇
その夏の終わりの、ある夜のことだった。
夜の見回りから戻ってきたフェリクスさんが、青い顔で、台所に飛びこんできた。
「莉子さん。……馬小屋の裏に、足跡が」
ランプを持って、外へ出た。
湿った土の上に、大きな足跡が、点々と続いていた。狼に似ている。でも、狼よりずっと大きい。爪の跡が、深く、土をえぐっていた。
そのまわりの草が、真夏だというのに、白く霜をかぶっていた。
「霜牙だ」
フェリクスさんが、悪いほうの足を引きずりながら、つぶやいた。
「一頭だけの、はぐれだと思います。でも、騎士がいたころは、こんなところまで下りてくることは、なかった」
わたしは、森の暗がりを見た。ずっと奥で、何かが、低く、うなったような気がした。
その夜、わたしは、手紙を一通書いた。
宛先は、リンデンの木漏れ日亭。
『ブラムさんへ。約束の、そのときが来ました』




