24話 ランタンの時間
夏の夜、わたしは、食堂の入口に立って、お客様たちの背中を見送っていた。夕ごはんが終わると、お客様は、一組、また一組と、静かに自分の部屋へ戻っていく。食堂に残るのは、片づけをする従業員と、空になったお皿だけ。お客様どうしが言葉を交わすことは、ほとんどなかった。
それで、いいはずだった。ル・ソレイユは、静けさを売る宿だ。
でも、その夜、ふと、思い出した。
十九歳の夏。中学からの友だちの沙希と、青春18きっぷで北海道を旅したこと。泊まったのは、一泊四千円ちょっとの、ユースホステルだった。
二段ベッドの、知らない人と同じ部屋。夜になると、食堂で「ミーティング」というのが始まった。宿のご主人がギターを弾いて、泊まっている人みんなで歌を歌う。次の日どこへ行くか、どこの温泉がよかったか、バスの時刻はどうか。知らない人どうしが、ごく自然に、教えあっていた。
一人旅の女の子が、急に泣きだした夜もあった。わたしは、ただ、その子の隣に座って、黙って話を聞いていた。あのユースホステルには、ふかふかのベッドも、三角に折った掛け布もなかった。それなのに、高いホテルよりも、帰る場所みたいだと思った。
(物だけじゃ、なかったんだ)
あの宿にあったのは、人と人のあいだの、温かさだった。
◇ ◇ ◇
次の朝、わたしは、従業員を食堂に集めた。
「週末の夜に、一時間だけ、ためしてみたいことがあるんです」
暖炉の前に、ランタンを一つ置く。夕ごはんのあと、来たいお客様だけ、そこに集まってもらう。従業員も、手のあいている人は、いっしょに座る。
「何をするの?」
ニナが、首をかしげた。
「旅の話をしたり、歌を歌ったり。次の町のおいしい店を教えあったり。……もし、話したい人がいたら、困っていることを話してもいい」
フェリクスさんが、腕を組んだ。
「静けさを売る宿で、ですか」
「はい。だから、決まりをつくります」
わたしは、羊皮紙に書いた。
『■ ランタンの時間』
『・週末の夕ごはんのあと、一時間だけ』
『・来るのも、帰るのも、自由』
『・話したくない人は、聞くだけでいい』
『・ここで聞いた話は、ここだけのものにする』
「部屋で静かにしたい人の静けさは、ちゃんと守ります。そのうえで、誰かと話したい人のための時間を、一時間だけ」
ハンナさんが、壁の羊皮紙を見上げて、小さくうなずいた。
◇ ◇ ◇
最初の土曜日。
八つの部屋は、全部埋まっていた。わたしは、食堂の暖炉の前に、ランタンを一つ灯して、椅子を輪に並べた。夕ごはんのあと、お客様に一人ずつ声をかけた。「よろしければ、暖炉の前へどうぞ」。
ほとんどのお客様は、ていねいに断って、部屋へ戻っていった。
(……やっぱり、無理かな)
でも、しばらくして、食堂の扉が、きい、と開いた。最初に入ってきたのは、王都へ向かう行商の老夫婦だった。それから、王都の役所の書記見習いだという、まだ十八の青年。最後に、小さなリュートを背負った、旅の楽士の娘さん。
三部屋の、お客様だった。
ランタンの光が、輪になった人たちの顔を、橙色に照らした。窓の外では、湖の上に、二つの月が出ていた。
◇ ◇ ◇
最初は、ぎこちなかった。
でも、フェリクスさんが、北の街道の話を始めると、空気が変わった。
「その先の宿場は、井戸の水がまずいので、手前の村で汲んでおくといいですよ」
行商のおじいさんが、目を丸くした。
「そりゃあいいことを聞いた。わしらは、その先の峠の茶屋の、栗の焼き菓子がうまいと知っとるぞ」
旅の知恵が、ランタンの光の中を、行ったり来たりした。おばあさんが、王都の市場の安い店を教えた。ブラムさんが、魔獣の足跡の見分け方を、身ぶり手ぶりで話して、みんなを笑わせた。
楽士の娘さんが、リュートを取り出した。
「一曲、いいですか」
やさしい旋律が、食堂に流れた。南の国の、麦の刈り入れの歌だという。二曲めには、フェリクスさんが、低い声で、北の兵隊の歌を歌った。それから、リタが、顔を真っ赤にして、山の村の子守歌を歌った。
ニナが、手拍子をとっていた。わたしも、いつのまにか、声を合わせていた。
◇ ◇ ◇
一時間が、もうすぐ終わるころだった。
それまで、ずっと黙っていた書記見習いの青年が、ぽつりと言った。
「……ぼく、試験に、二度落ちてるんです」
輪が、しんとなった。
「父が、役所の書記で。おまえも書記になれって、子どものころから言われてきて。今度落ちたら、もう、家に帰れない気がして。王都に戻るのが、こわくて」
誰も、すぐには何も言わなかった。
わたしは、ランタンの光を見ながら、青年の言葉を、そのまま受け取った。
「……帰るのが、こわいんですね」
青年は、うなずいた。
そのとき、隣に座っていたハンナさんが、静かに口を開いた。
「わたしもね、前に働いていた宿の主人に、毎日、殴られていたんです」
青年が、驚いて顔を上げた。
「失敗するたびに。だから、ずっと、失敗しないことだけを考えて生きてきました。……でも、ここに来て、失敗しても、殴られないことを知ったんです。それで、ようやく、お客様の顔が見えるようになった」
ハンナさんは、少しだけ笑った。
「こわいときって、まわりが見えなくなるんですよね」
青年は、長いあいだ、ランタンの火を見つめていた。
それから、小さな声で言った。
「……父に、一度、ちゃんと話してみます。ぼくが、本当は、何がしたいのか」
行商のおばあさんが、青年の背中を、そっとさすった。
◇ ◇ ◇
その夜、片づけを終えた食堂で、わたしは、ランタンの火を見つめていた。ル・ソレイユは、静けさと、眠りを届ける宿だ。でも、眠れない夜の理由は、部屋の音や光だけではない。心に、重い荷物を抱えたままの人もいる。
物のサービスだけでは、届かないものがある。
わたしは、手順帳を開いて、『■ ランタンの時間』の下に、一行を書き足した。
『話を聞いてほしい人のための時間を、いつか、もっとちゃんと作る』
次の週末、ランタンの前に集まったのは、五部屋のお客様だった。




