25話 常連客第1号の、甘い独占欲
秋の初めの、ひどい嵐の夕方だった。
西の空が真っ黒になったかと思うと、横なぐりの雨が、回廊の柱のあいだを吹きぬけた。湖の面が、白く泡立っている。その夜、ル・ソレイユの八つの部屋は、東の角部屋をのぞいて、全部埋まっていた。玄関の扉が、どんどんと叩かれたのは、日が沈んだころだった。
扉を開けると、ずぶ濡れの家族が立っていた。王都へ向かう途中の、行商人の夫婦と、小さな男の子が二人。男の子の一人は、熱があるのか、頬が真っ赤だった。
「森の道で、霜牙に荷馬車を襲われて……馬が逃げて、ここまで歩いてきたんです。どこでもいい、ひと晩だけ」
うしろで、夏の終わりから警備に来てくれているブラムさんが、黙って、森のほうをにらんでいた。空いているのは、東の角部屋だけだった。公爵様のために、いつでも空けておく部屋。契約の、四つめ。
わたしは、一度だけ、目をつぶった。それから、言った。
「どうぞ、お入りください。お部屋は、ございます」
◇ ◇ ◇
十日後、北から公爵様がやってきた。わたしは、玄関で頭を下げて、正直に話した。公爵様は、黙って聞いていた。それから、ひとこと言った。
「……私の部屋だ」
声は低く、眉間には、くっきりとしわが寄っていた。うしろで、エーリクさんが、笑いをこらえて肩をふるわせていた。わたしは、用意してきた羊皮紙を差し出した。契約の四つめに、一行を書き足したものだ。
『ただし、出資者が泊まらない夜に、魔獣の襲撃や急な嵐などで、命にかかわる宿泊の頼みがあったときは、神楽坂莉子がその部屋を貸すことができる。』
公爵様は、その一行を、長いあいだにらんでいた。
「……泊まらない夜だけだ」
不満そうに、それだけ言って、署名した。
あの夜の男の子は、熱が下がったあと、東の角部屋の窓から、金色の湖を見て、歓声を上げた。それからというもの、あの一家は、王都への行き帰りに、必ずル・ソレイユに泊まるようになった。急な嵐の夜に、行き場をなくした旅人を泊められる宿。その噂は、街道を、思っていたよりずっと早く伝わっていった。
◇ ◇ ◇
同じ秋、王都から、一人の貴族のお客様がやってきた。
その中の一人が、アラン様だった。
ベルクール侯爵家の、次男。二十二歳。蜂蜜色の巻き毛に、緑の瞳。笑うと、えくぼができた。仕立てのいい空色の上着が、春の光の中で、ぱっと目を引いた。
「噂は聞いているよ。北の氷の公爵を、朝まで眠らせた娘がいる、と」
回廊を案内するあいだ、アラン様は、ずっとわたしの隣を歩いた。
「気に入った。ここに、毎週末、泊まりに来よう。代金は倍出す」
「……ありがとうございます」
「そのかわり、あの東の角部屋を、ぼくに」
わたしは、足を止めた。
「申しわけありません。東の角部屋は、ふさがっております」
「ふさがっている? 今夜は、誰も泊まっていないのに?」
「はい。……契約で、決まっておりますので」
アラン様は、おもしろそうに、首をかしげた。
「じゃあ、ほかの部屋でいい。そのかわり、君が、ぼくの部屋の支度をしてくれる?」
そう言って、わたしの手を、すっと取った。
「それから、一度、王都においでよ。ベルクールの屋敷を案内しよう。君みたいな人は、こんな湖のほとりに埋もれているには、もったいない」
手の甲に、アラン様の指が、軽くふれた。
どうしよう、と思った。大切なお客様だ。ここで機嫌をそこねたら、王都で悪い噂が立つかもしれない。でも、この手を、このままにしておくのは――。
そのときだった。
うしろから、低い声がした。
「その手を、離してもらおう」
◇ ◇ ◇
振り返ると、回廊の入口に、黒い外套の人が立っていた。
公爵様だった。
北の防衛線から、そのまま来たのだろう。外套の肩には、まだ溶けきらない雪が、白く残っていた。そのうしろで、エーリクさんが、なぜか、天井を見上げていた。
アラン様の手が、ぱっと離れた。
「の、ノルトハイム公……」
公爵様は、ゆっくりと回廊を歩いてきた。靴音が、石の床に、こつ、こつ、と響く。その一歩ごとに、秋の回廊の空気が、すうっと冷えていくような気がした。
公爵様は、わたしの横で、立ち止まった。
「ベルクールの次男か。宿帳で、名前は見た」
「は、はい。この宿が、すっかり気に入りまして――」
「いい宿だろう」
公爵様の声は、静かだった。静かなぶんだけ、こわかった。
「だが、一つだけ、覚えておいてもらおう」
公爵様は、アラン様を、まっすぐに見下ろした。
「この宿の、最初で最高の客は、私だ」
回廊が、しんとなった。
アラン様は、ぱくぱくと口を動かして、それから、引きつった笑顔で、深々と頭を下げた。
「……肝に銘じます」
◇ ◇ ◇
アラン様が部屋に下がったあと、わたしは、回廊の階段を下りようとした。
そのとたん、足もとが、ぐらりと揺れた。
(あ――)
階段の石が、ななめに見えた。手すりをつかもうとした指が、空を切った。
体が、前に傾いて――。
がしっと、腕をつかまれた。
気がつくと、わたしは、黒い外套の胸の中にいた。
「……っ」
針葉樹と、冷たい冬の空気のにおい。あの日、廊下でかけてもらった外套と、同じにおいだった。
「いつから、眠っていない」
頭の上から、低い声が降ってきた。
「えっと……」
「エーリクに聞いた。この三日、寝台で眠っていないそうだな。夜明けまで、帳簿と手順帳に向かって、机に突っ伏して少しうとうとするだけだったと」
わたしは、目をそらした。
西の棟の改修。来月の研修の支度。秋の予約の帳簿。やることは、いくらでもあった。
「わ、わたしは、大丈夫です。慣れてますから。前の世界……前の仕事でも、こういうのは、よく――」
「人を眠らせる者が、眠らずにどうする」
わたしは、言葉につまった。
公爵様の青い目が、まっすぐにわたしを見ていた。
「眠れない人間には、北は守れない。……君が、私に言った言葉だ」
ずるい、と思った。自分の言葉を、そのまま返されたら、何も言えない。
「……はい」
小さな声で、うなずいた。
公爵様の腕が、ほんの少しだけ、強くなった気がした。それから、ゆっくりと、わたしの体をまっすぐに立たせて、手を離した。
離れたところが、急に、すうすうと寒く感じた。
◇ ◇ ◇
アラン様は、次の朝、宿代をきちんと払って帰っていった。宿帳には、少しふるえた字で、こう書き残されていた。
『ノルトハイム公爵閣下に、くれぐれもよろしく』
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは、従業員の離れの、自分の部屋の寝台に入った。窓の外で、湖のさざ波が、ちゃぷ、ちゃぷ、と鳴っていた。
扉の外で、ことり、と小さな音がした。
椅子を置く音だった。
「……公爵様?」
扉ごしに、声をかけた。
少しの間があって、低い声が返ってきた。
「今夜は、私が起きている」
心臓が、跳ねた。
「何かあったら、私が起こす。北から知らせが来ても、帳簿が逃げても、必ず、私が先に気づく」
ほんの少しだけ、笑いをこらえているような声だった。
「だから、君は、眠れ」
わたしは、掛け布を、頭までかぶった。
顔が、熱かった。胸の奥が、どきどきと、うるさかった。
(……だめ。だめだって)
この人は、ル・ソレイユのいちばん大事な出資者で。いちばん大事な、お客様で。わたしは、ホテルのオーナーで。
オーナーと、お客様。その線を越えたら、たぶん、わたしは、また誰かに寄りかかって、自分の足で立てなくなる。
そう、わかっているのに。
扉の向こうの、静かな気配が。ときどき聞こえる、外套の衣ずれの音が。
どうしようもなく、安心だった。
――ここは、安全です。
あの夜、わたしが扉ごしに言った言葉を、今度は、わたしが受けとっている。そう思ったとたん、まぶたが、すうっと重くなった。
その夜、わたしは、夢も見ずに、朝まで眠った。
窓から差しこむ光で目を覚ますと、扉の外の椅子は、もう、からっぽだった。ただ、椅子の上に、黒い外套が、きちんとたたんで置かれていた。




