4:こたえ
昼過ぎの雨が上がった森殿の周囲には、濡れた木々の匂いがまだ残っていた。
苔は水を含み、石畳はしっとりと冷たい。どこかで鳥が羽音を立て、遠くで枝がひとつ、乾いた音を立ててずれる。
ユエは木材の束を片腕にぶら下げ、森殿裏の小径を歩いていた。この道に入っても、もう胸の奥は騒がない。白壁に沿って進みながら、もう片方の手の中を確かめる。
森で拾った音樹──中が空洞の小枝に、穴を開けただけの簡素な笛。
まるで最初から決まっていたかのように、ユエは格子の前で腰を下ろした。
回廊の奥、香の間。その向こうに、今日も白い背中が座している。けれどユエは、あえて視線を向けなかった。そこにいることは分かっている。ただ、見ない。
前回来たときの最後──あの異様な怯え方が、まだどこかに引っかかっていた。だから今日は、怖がらせないように。特別なことは何もないように。ただ、いつも通りに。
「これ、虫笛って言うんだけどな。聞いたことあるか?」
声は、前より少し低く落とした。呼びかけというより、独り言に近い調子で言いながら、手の中の枝を軽く振る。乾いた木の感触が、掌に馴染んでいる。
格子の向こうは静かだ。香の匂いが、いつもと変わらない濃さで漂っている。それでいい。答えを待つつもりはなかった。ユエは息をひとつ整え、笛を唇に運ぶ。
そっと息を吹き込むと、音はすぐに形を失った。虫の翅音に似た、けれども人為の匂いを孕んだ、奇妙な旋律。それはまるでほんとうに草むらの奥から現れた羽虫のようで、風と一緒に揺れて、遠くに消えていく。
ユエは吹き続けながら、ふと背後の気配に意識を向ける。音を途切れさせないままそっと振り返り、格子の中を盗み見る。
──向いている。
白い首が、こちらへ傾いでいる。耳の先が笛の音に合わせて、緩く揺れる。前回と同じ、いや、前回よりほんの少しだけ深い角度。無意識なのだろう。薄暗がりの中、ちらりと見える片目と唇の端は、何の表情も結んでいない。
思わず、喉の奥で息が漏れた。ふふ、と、声にならない短い笑い。
やっぱり、聞いてんじゃねえか。
けれどユエは、慌てて視線を外した。自分が傾いでいると気づいたら、それはまた引っ込む。怯えてしまう。そんな気がした。子ウサギみたいなやつだ、と内心で苦笑しながら、笛の音だけを最後まで伸ばす。
音を切るときも、急には止めない。息を細くし、余韻が空気に溶けるのを待つ。
「……なあ」
そして間を置かず、軽い調子で声を投げた。
「これさ。もう一曲、聞きたい?」
沈黙。
さっきまで揺れていた耳が、ふっと止まる。何かを迷うように、時間だけが引き延ばされた。その数秒が、妙に長い。
やがて、ほんのわずかに。
見間違いかと思うほど小さく、けれど確かに──首が、上下した。
頷きだった。
ユエは、息を呑むより先に、胸の奥がふっと緩むのを感じていた。
織祀が、頷いた。誰とも話さない、誰も話しかけてはならないとされているはずの、それが。驚きよりも、どうしようもない嬉しさを隠せなかった。
けれど──その直後。
その首が、びくりと揺れる。上下でも左右でもない。内側へ縮むような動きだ。肩がすっと入り、首の後ろが強張る。顎がわずかに引かれ、身体全体が音もなく固まっていく。
次の瞬間、風が来た。
ざあ、と。唐突に、小径を吹き抜ける強い突風。木々が一斉にざわめき、葉が鳴り、空気の重さが変わる。
ユエは思わず肩をすくめ、身を縮めた。初めてここに来た日の、あの感覚が重なる。肌を撫でる風の冷たさ。森全体が、こちらを見ているような不穏な圧。
沈黙を貫くべき祭司が応えてしまった。その一瞬に森が──律が怒り、荒れている。理屈より先に、そう思わせるだけの風だった。
「…………っ」
ユエは思わず身構えたが、初日のように逃げる気はなかった。格子に掴まり、飛ばされないように足を踏ん張る。
けれど──次の拍で、それは終わった。
風は抜け、音が散る。木々のざわめきも、すぐにいつもの葉擦れへと戻っていく。香も、蝋燭の火も、細く揺れただけで消えはしなかった。
拍子抜けするほど、何も残らない。
「……終わ……った……?」
思わず声が漏れる。
森はもう平然としていた。先ほどまでの騒ぎを嘘のようにしまい込み、いつもの顔で、いつもの音を立てている。
低い葉擦れ、遠い鳥の声。苔の湿り気も、白壁の冷たさも、ただそこにあるだけだ。
けれど。
格子の向こうでは、まだ何も終わっていなかった。
白い背中が、なおも固い。呼吸は荒く、肩が小さく上下している。まるで世界の終わりを待つかのように恐怖に震えるまま、なのにそれがいつまでたっても訪れないことに、むしろ混乱している。そんな固まった時間だけが留まっている。
ユエは、戸惑いながらそれを見つめた。突風は確かに吹いた。けれど、それだけだ。森は一瞬ざわめいたが、すぐに収まった。そんなに怖がることじゃない。
「……なあ、」
呼びかけは、なるべく軽く落とした。強くならないように、宥めるように。
「大丈夫だよ。……ほら、もう風、止んでる」
格子の木枠に、指先をそっと触れる。湿った冷えが、確かな手触りとして返ってくる。
「何も起きてねえ。鳥の声も聞こえるだろ」
言い切ってから、少し待った。
返事はない。けれどユエの声の余韻に合わせるように、向こうの呼吸がわずかに変わる。途切れていた息が繋がり、吐く息が、ほんの少し長くなる。肩の震えも、石が沈みきった水面の名残のように静まっていった。
ユエは、それを確かめるように、同じ言葉をもう一度置く。
「……な? 大丈夫だ」
やがて呼吸がゆっくりと鎮まり、首が正面を向いた。いつもの〝座〟。静物画のように動かない、沈黙の祭司の姿が戻ってくる。
ユエは、それ以上踏み込まなかった。聞きたいことは多い。けれどここで何かを問うてしまえば、あの小さな背中はもっと深い場所へ引っ込んでしまう気がした。
代わりに息をひとつ吐き、笛を掌の中で転がす。乾いた木の感触が、確かにそこにあった証のように、指の腹に残った。
回廊の奥の方から、ぱたぱたと軽い、けれど慌ただしい音が聞こえる。付き人に、先ほどの突風を聞き咎められたのだろうか。
見つかる前にと立ち上がると、身体がわずかに現実に引き戻される。ユエは格子に背を向けかけて、最後にもう一度だけ声を落とした。
「……じゃ、また来るな」
それは約束というより、もはや決定事項のような言い方だった。重さを乗せないための軽口の形。けれど、胸の奥だけは妙に真剣だ。
歩き出す。背後は静かで返事もない。けれど、それは〝完全な空白〟とは、どこかが違う気がした。
器が、問いに応じた。
それはユエが自覚している以上に──律の構文を、静かに、確かに、揺らしはじめていた。





