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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
4/25

3:傾ぐ

「……なあ、」


 そっと投げた声は、格子の奥で何かに阻まれることもなく、ただ香煙に吸い込まれていった。

 返事はない。動きもない。白い背中は、ずっとそこに置かれている。呼吸の気配すら遠く、蝋燭の炎だけが細く揺れていた。


 けれど、もう怖くなかった。

 昨日のように胸の奥を爪でひっかかれる感じも、背筋を伝う冷えもない。代わりにあるのは、さっき耳がかすかに動いたように見えた、その余韻だ。指先に移った火種のように、それはじくじくと消えない。


 ユエは咳払いをひとつして、格子の向こうへもう一度、言葉を転がした。


「なあ、……お前、いつもここに座ってんのか?」


 昨日のような怖いもの見たさで茶化す声ではなかった。広間の奥に座る影に、ただ普通に、立ち話でもするように声を放る。

 声は、妙に気持ちよく湿った空気の中を滑った。森で鳥を呼ぶ時に似ている。返ってくるかどうかは二の次で、ただ音だけがまっすぐ通っていく、あの感じ。


「……いや、昨日は悪かったよ。いきなり逃げ出したりしてさ」

「昨日はさあ、何か……すげー怖い感じがしたんだけど。でも今日はそうでもねえし」


 格子の奥は相変わらず沈黙で、香煙がゆるく流れているだけだった。

 けれどそれが、かえって喋りやすい。相槌も返事もない。こちらの言葉だけが空に放たれて、行き先を選ばずに漂っていく。


 中腰で格子を覗いていたはずのユエは、いつの間にか壁に背中を預けるようにして、石畳に腰を下ろしていた。湿った冷たさが尻にじわりと伝わり、夕方の風が首筋をすり抜ける。白壁に沿う小径の向こうでは、森がいつもの顔でざわめいていた。葉擦れ、どこかの鳥、遠い水の音──どれも、ありふれた日常の音だ。

 森の方を見たまま、ユエは続ける。


「昨日も雨だったじゃん。今日も天気悪いんだよなあ……また、雨降るかもな」

「雨降ると面倒なんだよな。薪は湿気るし、服は乾かねえし。まあ季節だから仕方ねえか」


 返事の代わりに、風がひとすじ頬を撫でた。香の匂いがゆるやかに漂って、かすかに鼻を掠める。

 その静けさは、もう恐怖ではなかった。むしろ、どこか幼い沈黙の形をしている気がして、ユエの喉は無意識に次の言葉を探す。


 ふと他愛のない言葉が途切れ、森の音だけが戻ってきた。梢が揺れ、どこかで虫が鳴く。

 ユエは、何とはなしに──本当にただの癖のように振り返って、格子の中を覗いた。


 その瞬間、息が止まった。


 香の向こうの白いうなじが、傾いでいた。

 ほんの少し。数えるほどの角度だ。けれどそれは確かに、今までと違う。

 斜め後ろからしか見えなかったはずの輪郭の向こうに、閉じた瞼の片方が覗いている。鼻の稜線が、薄い灯りを受けて、静かに浮かび上がっていた。


 ──織祀しきが、こちらを、向いている。


 そう思った途端、その耳の先がゆっくりと揺れた。風ではない。まるでユエから放たれた声を、そっと拾い上げて捕まえているようだった。


 ユエは、思わず息を詰めた。

 胸の奥で何かがきゅっと縮み、それから一気にほどけていく。驚きと、喜びと、まだ信じきれない感覚がいっぺんに押し寄せ、喉の奥がひくりと鳴った。笑うつもりなどなかったのに、口元だけが勝手に緩む。


「……もしかしてお前、こういう話、興味ある?」


 軽口の形を借りたその声は、少しだけ弾んでいた。織祀が、こちらに反応している。確信が熱を持って、胸の奥で静かに灯った。


 だが、その声が向けられた瞬間。

 織祀の動きが、はっきりと分かりやすく、止まった。


 耳先の揺れが、ぴたりと途切れる。香は相変わらずゆるやかに立ち上っているのに、その一角だけ、時間の継ぎ目が外れたようだった。


 呼吸が浅くなる気配がある。深く吸うことを忘れたように、短く、短く。

 白い衣の内側で、身体がほんのわずかに強張る。それは力を込めた硬さではなく、抜きどころを失ったまま固まってしまった、不自然な緊張だった。

 自分がいま何をしてしまったのかを、遅れて悟った──そんな気配が、そこにあった。


 次の瞬間、首が戻る。元の角度へ。正面へ。

 その動きは滑らかではなかった。正確すぎるほど正確に、糸で引き戻されるように、硬く、速い。


 肩が、わずかに内側へ入る。顎が引かれ、首の後ろがすくむ。身体全体が、音を立てずに一直線に固まった。

 それはほとんど、叱られるのを待つ子供の所作だった。声が飛んでくる前に、先回りして身を縮める、あの癖。


 やがて、すべてが定位置に収まる。

 白い背中はまっすぐ正面を向き、耳も、呼吸も、もはや微動だにしない。完全な〝座〟が、そこにあった。


 香が焚かれている。蝋燭の火が静かに揺れている。森の音は、途切れていない。

 ただそこから、ユエの声を受け止めていたはずの気配だけが、きれいに欠け落ちていた。


 しばらくのあいだ、ユエは息の仕方を忘れていた。

 ついさっきまで、それは確かにこちらを向いていた。声を受け止めるように、耳が揺れていた。それが今は、嘘のように正面へ戻っている。


「……えっと、どうした?」


 問いかけは自然と低く落ちた。反応はない。呼吸も、耳の動きも、何ひとつ拾えない。香の煙だけが、淡々とそこを満たしていく。


「……俺、怖かったか?」


 自分でも意外な言葉だった。

 けれど口にしてみて、すぐに違うと分かる。ユエが怖がらせたわけではない。あれが恐れていたのは──あの一瞬、ほんのわずか、こちらへ傾いでしまったこと。その〝ずれ〟、そのものだ。


 なぜ、そこまで。

 何を、そんなにも。


 不気味さはもうなかった。神秘さも、得体の知れなさも、遠のいている。

 代わりに胸に残ったのは、理由の分からない怯えへの疑問。そしてそれを背負わされている小さな存在への、どうしようもない引っかかりだった。


 ユエは、何度か口を開きかけて、やめた。これ以上何を言っても、もう届かないと分かってしまったからだ。

 ゆっくりと立ち上がる。石畳の冷えが、忘れていた重さを伴って足裏に戻ってきた。


「……俺さあ、森殿しんでんの雑用で薪運んできたりしてんだ」


 ぽつりと落とす。返事がないことは分かっている。それでも、言わずにはいられなかった。


「だから、また、来るよ」


 白い背中は微動だにしない。聞いているのかどうかさえ、もう分からない。

 ユエは、歩き出しながら思った。

 

 あそこに座る〝あれ〟は、不気味な祭司なんかじゃない。


 何かに縛られて、怯えている、ただの子供。

 そのことだけが、やけに確かだった。

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