表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
3/25

2:耳がひらく

 来るつもりなんて、なかった。


 本当だ。嘘じゃない。

 昨日あんなに怖い思いをして、もう二度と森殿しんでんなんかに近づくもんかと、確かに決めた。家に帰ってからも、寝床に潜り込んでからも、闇の中で何度も、その言葉を胸の奥に押し込んだ。


 ──なのに。


 気がついたときには、足が昨日と同じ道を踏んでいた。

 森殿の外を巡る小径。白壁に沿って細く伸びるそこを、夕方の風がすり抜けていく。苔に染み込んだ湿り気と、昼の熱を失った石畳の冷え。それらに混じって、ほんのわずか、香の匂いが鼻を掠めた。


 昨日とまったく同じ、換気用の格子の前。そこでようやく足を止めると、ユエは自分自身に舌打ちをした。


「……何でだよ」


 怖いものからは逃げる。それが当たり前だ。森で育った子供ならなおさらだ。獣の気配、地滑りの予兆、増水した川。危ないものに近づくやつは、長生きしない。

 分かっている。分かっているのに、なお来てしまった。その事実が、いちばん腹立たしかった。


 ユエは石畳を足裏で一度だけ強く踏み鳴らす。言いようのない苛立ちを、そのまま地面に叩きつけるように。


 昨日のあれは、何だったのだろう。背筋を這った、あの冷たい感覚は。なぜそれが、こんなに気になって頭から離れないのだろう。

 何かが、理由もなく、どうしても引っかかっていた。


「……あー、くそ」


 ユエは額を押さえる。考えれば考えるほど、腹の底に湿った嫌なものが溜まっていく。吐き出し先のない不快感が、じわじわと重さを増していった。


「……俺、呪われたのかなあ」


 言葉にした瞬間、背中がひやりとする。そんな馬鹿な、と笑い飛ばそうとして、うまくいかなかった。

 〝織祀しきさま〟に声をかけたからか。織祀しきサマ、なんて、ふざけた呼び方をしたからか。──ああ、もう。


 呪い。

 祟り。

 律とか言う、よく分からないナニカ。


 あいつのせいだ。

 座っているだけで、森の空気を変えてしまう、得体の知れない存在。


 自分がここに来てしまったのも、怖いはずなのに引き返さなかったのも。きっと全部、あいつのせいだ。

 そんな八つ当たりにも似た感情を抱えたまま、結局ユエは、昨日と同じ格好で格子の中を覗き込んでいた。


 香煙の中に、小さな白い背中が見える。その周りで燭台の火が静かに揺れている。まるで昨日の続きを、そのまま切り取って置いたような佇まいだった。

 ユエは、ほんの一瞬言葉を失った。やっぱり来なければ良かった──そんな思いが、胸の奥をかすめる。けれどその後悔は、なぜか今日、奇妙なほど手応えがなかった。


 その違和感の理由を示すように。次の瞬間、ユエの喉から間の抜けた声が零れる。


「……あれ?」


 こんなに、普通だったっけ。


 それは、座っているだけだった。

 世界から切り離されたような静けさの中で、ただ置かれたもののように、じっと。


 昨日あれほど恐ろしく見えた「沈黙の祭司」が、今日はどういうわけか、ただの──呼吸を持った、ひとりの「人」に見えた。


 胸の奥に沈んでいた重たいものが、行き場を失ってふっと宙に浮く。

 昨日の自分は、何をあんなに怯えていたのだろう。あれはただ座っている。それだけだ。それ以上でも、以下でもない。


 香煙がゆっくりと揺れ、蝋燭の灯りが壁に淡い影を落とす。

 ユエは、理由もなく気になって、もう一度だけ視線を凝らした。


 青銀の髪。固く結われたその髪の根元で、尖り耳の先が──ほんのわずか、こちらに向けてふっとひらいた……気がした。


 ほんの一瞬だ。

 気のせいかもしれない。見間違いかもしれない。そう思おうとすれば、思えた。


 思わずもう一度、白い背中を見る。耳は、もう元の位置に戻っている。


 ユエは、いつの間にか格子を掴んでいた。

 あの沈黙の奥に、昨日あれほど恐ろしく思えたもののさらに奥に、ただの、普通の、何かを──見てしまった気がした。


 もし、あれが森を揺るがす化物などではなく、ただのヒトで。

 ……ただ、そっとこちらを〝聞いている〟のだとしたら。


「……なあ、」


 抗えない引力に惹かれるように。ほとんど無意識に、ユエは声を投げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

▼ Caita版「風に傾ぐ子」▼


Caita版「風に傾ぐ子」
縦書きビューワーで快適に文芸作品を読めます。
感じる世界が変わるかも。
良かったらCaitaでも、ぜひお待ちしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ