2:耳がひらく
来るつもりなんて、なかった。
本当だ。嘘じゃない。
昨日あんなに怖い思いをして、もう二度と森殿なんかに近づくもんかと、確かに決めた。家に帰ってからも、寝床に潜り込んでからも、闇の中で何度も、その言葉を胸の奥に押し込んだ。
──なのに。
気がついたときには、足が昨日と同じ道を踏んでいた。
森殿の外を巡る小径。白壁に沿って細く伸びるそこを、夕方の風がすり抜けていく。苔に染み込んだ湿り気と、昼の熱を失った石畳の冷え。それらに混じって、ほんのわずか、香の匂いが鼻を掠めた。
昨日とまったく同じ、換気用の格子の前。そこでようやく足を止めると、ユエは自分自身に舌打ちをした。
「……何でだよ」
怖いものからは逃げる。それが当たり前だ。森で育った子供ならなおさらだ。獣の気配、地滑りの予兆、増水した川。危ないものに近づくやつは、長生きしない。
分かっている。分かっているのに、なお来てしまった。その事実が、いちばん腹立たしかった。
ユエは石畳を足裏で一度だけ強く踏み鳴らす。言いようのない苛立ちを、そのまま地面に叩きつけるように。
昨日のあれは、何だったのだろう。背筋を這った、あの冷たい感覚は。なぜそれが、こんなに気になって頭から離れないのだろう。
何かが、理由もなく、どうしても引っかかっていた。
「……あー、くそ」
ユエは額を押さえる。考えれば考えるほど、腹の底に湿った嫌なものが溜まっていく。吐き出し先のない不快感が、じわじわと重さを増していった。
「……俺、呪われたのかなあ」
言葉にした瞬間、背中がひやりとする。そんな馬鹿な、と笑い飛ばそうとして、うまくいかなかった。
〝織祀さま〟に声をかけたからか。織祀サマ、なんて、ふざけた呼び方をしたからか。──ああ、もう。
呪い。
祟り。
律とか言う、よく分からないナニカ。
あいつのせいだ。
座っているだけで、森の空気を変えてしまう、得体の知れない存在。
自分がここに来てしまったのも、怖いはずなのに引き返さなかったのも。きっと全部、あいつのせいだ。
そんな八つ当たりにも似た感情を抱えたまま、結局ユエは、昨日と同じ格好で格子の中を覗き込んでいた。
香煙の中に、小さな白い背中が見える。その周りで燭台の火が静かに揺れている。まるで昨日の続きを、そのまま切り取って置いたような佇まいだった。
ユエは、ほんの一瞬言葉を失った。やっぱり来なければ良かった──そんな思いが、胸の奥をかすめる。けれどその後悔は、なぜか今日、奇妙なほど手応えがなかった。
その違和感の理由を示すように。次の瞬間、ユエの喉から間の抜けた声が零れる。
「……あれ?」
こんなに、普通だったっけ。
それは、座っているだけだった。
世界から切り離されたような静けさの中で、ただ置かれたもののように、じっと。
昨日あれほど恐ろしく見えた「沈黙の祭司」が、今日はどういうわけか、ただの──呼吸を持った、ひとりの「人」に見えた。
胸の奥に沈んでいた重たいものが、行き場を失ってふっと宙に浮く。
昨日の自分は、何をあんなに怯えていたのだろう。あれはただ座っている。それだけだ。それ以上でも、以下でもない。
香煙がゆっくりと揺れ、蝋燭の灯りが壁に淡い影を落とす。
ユエは、理由もなく気になって、もう一度だけ視線を凝らした。
青銀の髪。固く結われたその髪の根元で、尖り耳の先が──ほんのわずか、こちらに向けてふっとひらいた……気がした。
ほんの一瞬だ。
気のせいかもしれない。見間違いかもしれない。そう思おうとすれば、思えた。
思わずもう一度、白い背中を見る。耳は、もう元の位置に戻っている。
ユエは、いつの間にか格子を掴んでいた。
あの沈黙の奥に、昨日あれほど恐ろしく思えたもののさらに奥に、ただの、普通の、何かを──見てしまった気がした。
もし、あれが森を揺るがす化物などではなく、ただのヒトで。
……ただ、そっとこちらを〝聞いている〟のだとしたら。
「……なあ、」
抗えない引力に惹かれるように。ほとんど無意識に、ユエは声を投げていた。





