1:沈黙の座
冷たい雨の匂いがまだ残る苔石の小道を、ユエは木材を背負って歩いていた。
この道の終わりには、いつも湿り気を孕んだ静けさがある。森が呼吸を止めるような、森殿の禁域に近づくときの空気だ。
いつもの納屋に木を積んで、仕事は終わり。
だが、今日は帰り道を変えてみた。左手に折れると、森殿の回廊の外をぐるりと回る小径に出る。
北の禁域に近いこの小径に、人の気配はない。木々のざわめきすら、この一角では不自然に鎮まる。
白壁の向こう、森殿の最北端──香の間。
そこには、「織祀さま」がいる。
いや、ユエの中では、それはもっと皮肉に近い響きだった。
〝織祀サマ〟。
結界に守られたこの森に君臨する、大いなる自然の秩序、あるいは意思──〝律〟。
それをその身体に通し、歪みを整え、滞り無く循環させるために座す、沈黙の祭司。
誰も話したことがない。
声をかければ呪われる、顔を見たら石になる。そんな物騒な迷信だけが、いつも子供たちの耳に擦り込まれていた。
集落の者たちは皆この近くに来ると口を閉じ、息をひそめて、遠巻きに通り過ぎる。まるで、そこに〝語ってはならぬ何か〟が棲んでいるかのように。
──けどさ。
そういうのって、だいたい嘘じゃん。
とは言え、いつもなら流石のユエも、ここはさっさと通り過ぎている場所だった。なのに今日は何となく──本当に何となく。回廊の東隅にある窪みに身を寄せる。
ここにぽつんとある換気用の格子窓は、ちょうど子供が屈んで中がうっすら見える高さにある。
雨で濡れた格子の木肌は冷たい。指先にしっとりと吸いつく。
時折吹き出す風が、中から香の匂いを運んでくる。燃える木々の灰が混じるような、くすんだ甘さだった。
中腰になって、格子の向こうを覗き込む。
回廊の更に向こう、薄く透ける布張りの障子越し。薄暗く蝋燭の灯りに照らされた、大広間。
香煙がくゆる、そこに──
ただ、ひとり。いや、小さな〝何か〟が、座していた。
白い衣。固く結われた青銀の髪。
それらはまるで置かれたもののように、微塵も揺れない。
斜め後ろから覗く背中には、影の輪郭すら宿っていない。
ユエは思わず、息を呑んだ。
胸の奥がひくりと縮む。けれどそれが何なのかを考える前に、視線だけが離れなくなっていた。
「……何だよ、冗談みてぇ」
声が出た。
香の匂いにもかき消されそうな、小さな音。
その音がきちんと自分の耳に返ってきたことに、なぜだか妙に安堵した。
その勢いに任せて、もうひとつ声を放る。
「なあ、聞こえてるか? ……織祀サマ」
皮肉にも似た呼びかけをそのまま、格子の向こうにただ投げる。
届かなくていい。届くとも思っていなかった。自分が放った言葉のくせに、届いたらいけないような気すらした。
けれど、そのとき、ふと。
──風が、止まったような気がした。
いや、止まったのではない。音の層が、ひとつ消えたのだ。
耳に張りついていた世界の膜が、どこかで切り離されたように。
鳥の声が、遠くへ引いていく。
葉擦れも、香の匂いも、確かにそこにあるはずなのに、急に輪郭を失う。
「…………?」
今のは、何だ。
ユエは思わず身を乗り出した。格子の穴に思い切り顔を近づけ、中を覗く。
格子の向こうの景色はただ薄暗く、香煙に揺れている。
白い背中はまっすぐで、相変わらず微動だにしない。
呼びかけに応えたわけではない。
振り向いたわけでも、動いたわけでもない。
それなのに。
一瞬、見られた、気がした。
根拠はない。
そもそもあそこから、あの角度から、ユエの顔が見えるはずもない。
なのに。それでも確かに。
今、こちらを向いた──そんなぞくりとした、得体の知れない冷たい感覚が背筋を這う。
〝──声をかければ、呪われる〟
鳥肌の立ちそうになる腕を無理やり押さえて、ユエは鼻で笑った。
「……いや、ないない」
自分に言い聞かせるように呟き、もう一度笑う。笑わなければ、恐怖を伴った別の何かが、ぬるりと忍び寄ってくるような気がした。
「…………うん。帰ろ」
最後にそうやって独りごちて、ユエは踵を返した。足音が湿った石畳に吸い込まれていく。最初はゆっくり、けれど我慢できず、気づけば逃げるように走り出していた。
駆けるごとに、風が戻り、鳥の声が戻り、森がまた呼吸を始めていく。
森殿の建物が、梢に紛れて見えなくなった頃、ようやくユエは足を緩めた。
息を切らせて耳を澄ませる。さっきまであんなに濃かった静けさが、今はもう、どこにもない。
振り返らずに、白壁の方角を意識する。
あの向こうには変わらず、あの沈黙の祭司が座しているはずだ。あれは追ってこない。追ってくるわけがない。
……そのはず、なのに。
胸の奥が、まだ不快なほど鳴っていた。じっとりと手に汗が滲んでいる。けれどそれと同時に、心のどこかが軽く欠けたような感覚があった。
それは言葉にできるものではなかった。置いてきたのか、持っていかれたのか、それさえ分からない。
ユエはその違和感を振り払うように、もう一度歩幅を広げた。
あんなところに長居したと知れれば、家で待っている姉にこっぴどく叱られる。
もうあそこに行くのはやめよう。はっきりとした決意が、その胸を固めていた。
──翌日になるまでは。





