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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
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5:声のかたち

 数日、行かなかった。


 そんな大げさな理由はない。寄り道をしていたのが兄にばれて叱られたこともあれば、あの日以来、外を見回る香兵の数が増えたと誰かが言っていた気もする。そもそもこの森で、数日ごときを気にする者はいない。


 それでも、ふとした拍子に思い出す。

 手の中の木片の乾いた感触。雨上がりの森の匂い。そんなどうでもいいものに紛れて、あの格子の奥の沈黙が、何の用もない顔で立ち上がってくる。それはやがて喉の奥に引っかかった小骨のように、少しずつ存在感を増していった。


 だから今夜、ユエは戻ってきた。


 空は重く、雲の底が低い。雨が落ちる前の夜気が肌にまとわりつき、森殿を巡る小径は相変わらず湿っている。

 ユエは壁沿いを歩いたが、息を殺すことはしなかった。忍び込む、というほどのものでもない。いつも通りの足運びで、いつも通りに辿り着く。そうしてしまえば、ここへ来ること自体が特別ではなくなる気がした。


「……おーい。おひさ」


 格子の前で立ち止まり、軽く喉を鳴らす。ぶっきらぼうな挨拶だ。けれど、変に丁寧にしたり、気配を探るような間を作るより、こちらの方が自分らしい。


「なんかさ、怒られた。主に兄ちゃんに」


 言いながらしゃがみ込み、格子のそばで壁に背を預ける。湿った冷たさが、背中にじわりと染みてきた。


「『あんなところに寄るな』って。……まあ、そりゃそうだよな」


 小さく笑ってみせる。笑いの形を借りただけの息は、すぐ夜気に溶けた。

 

 格子の向こうはいつも通り静かだ。微動だにしない背中を、燭台の火の薄い気配がぼんやりと照らしている。

 けれど今夜はなぜか、そこに〝在る〟感じが前よりはっきりしている気がした。こちらの呼吸の縁に、薄い膜が触れているような感覚。

 

 ユエは壁に背を預けたまま、口の中で言葉を転がす。軽口の形は保っているのに、喉の奥だけが乾くようだった。


「……で、えーと、なあ」


 間が空く。照れを誤魔化すような、ほんの短い逡巡だ。視線を上げず、石畳に残った水の膜を、つま先でこつりと蹴った。


「すげー今さらなんだけどさ。俺、名前、言ってなかったよな?」


 返事はない。沈黙は沈黙のまま、香だけが規則正しく漂っている。

 それで、いい。そう決めてしまえば、次の言葉も投げられた。


「俺、ユエ」


 たった二音。

 それだけで、胸の奥が思いのほか静まった。名乗っただけだ。何も変わるはずがない──はずなのに、空気が一枚、薄く張り替わる。音の沈み方が、わずかに違う。

 ユエは気づかないふりをして続ける。


「北の、えーと……こっからだと西側? 禁域ぎりぎりのとこにある家に住んでんだ」

「親は随分前に死んじまっていねーんだけど、似たような兄弟たちと一緒にな」

「森殿には、薪運んできたり、荷物運んできたり。雑用で」


 言いながら、格子の奥は見なかった。見れば、何かを確かめてしまいそうだった。代わりに手のひらで膝を軽く叩く。


「……まあ、別に名乗ったところでって話だけどさ」


 沈黙は相変わらず返らない。聞いているのかどうかも分からない。分からないはずなのに、今夜の言葉はどれも落ちた。宙に浮かず、届いた手応えだけが残る。


「……ま、覚えててくれたら嬉しいよ」


 冗談めかした声でそう言って、ユエが息をついた──その瞬間だった。


 外壁の向こうから、足音が来た。

 複数。湿った土を踏む重さと、ゆらり揺れる明かりが、一定の間隔で並んでいる。巡回だ、とすぐに分かる足取りだった。

 ユエの背中の皮膚がひやりと粟立つ。


「……やっべ」


 声が、思わず漏れた。声が大きすぎた、と理解した時にはもう遅い。ユエは思わずしゃがんだまま身を引こうとして、──滑った。

 雨を含んだ石畳が足裏を攫う。膝が石に当たり、鈍い音が返る。続けざまに肩が格子へぶつかり、木枠ががつんと鳴った。


 しまった。


 音が止む。足音の並びが、ひとつ、こちらへ向きを変えた。


 近い。

 速い。

 迷いがない。


 逃げようとしても咄嗟に足が動かなかった。息が喉で引っかかり、吐けない。


 詰んだ。

 そう思った、その刹那。


「……ユエ」


 声が、渡った。


 ユエは息を呑んだ。

 一瞬どこから呼ばれたのか分からなかった。けれどその声が香の間からだと理解した瞬間、全身が雷に打たれたように固まる。


 名前を呼ばれた。自分の名が、香の煙を裂いて落ちてきた。

 驚きの形のまま、思考だけが遅れて追いつこうとする。だが、その前に足音がまた近づいた。土を踏む、湿った圧。振り返りそうになる衝動を、ユエは必死で抑える。


「二人、です……南と西より」


 続く声は低く、乱れていた。切れ切れに、息を挟みながら、必要な音だけを落としてくる。


「左側も……曲がり角も、まもなく通過します」


 香の間からは見えもしないはずの見張りの位置の、情報があまりにも正確だった。足音の数と位置が、そのまま言葉になっている。迷いも、言い直しもない。

 けれど言い切るたびに声が揺れる。震えを隠すために、余計なものをすべて削ぎ落としているのが、声だけで分かった。


 そして、最後に。


「──背後。香樹の影なら……」


 そこで、声が途切れた。

 続けなかったのではない。それ以上は声が出なかったのだ。


 一言ひとことが、身を崩すような怯えを伴って流れてきていた。傾いだ、頷いた。それだけでも世界が終わるに等しい恐怖を感じていたらしい織祀しきにとって、声を出すということがどれほどのことなのか、ユエにはもう分かってしまっている。

 けれど、それでも、音を絞り出した。


 ユエはそれ以上を考えなかった。

 言葉をそのまま身体に落とし込むようにして動く。音を殺し、背後の森へ踏み出すと、香樹の枝葉がつくる濃い影へと身を滑り込ませた。落ち葉を避け、呼吸を胸の奥へ押し込む。


 足音が、すぐそこで止まる。


 影の向こうを灯りが横切った。視線が格子のあたりを撫で、衣擦れと、低い囁きが重なる。


 ユエは、喉の奥がひりつくのを堪えた。

 呼吸をするだけで見つかりそうで、肺がきしむ。指先が樹の幹を掴んだまま、汗で冷たくなっていく。


 やがて、音がひとつ、ふたつ、遠ざかる。小径の曲がり角へ吸い込まれ、森の音に紛れていく。

 最後に、誰かが「確かに音がしたと思ったんだが」と小さく舌打ちをして、……それきり、何も聞こえなくなった。


 ユエはすぐには動けなかった。

 身体の奥に残った震えが、じわじわとほどけていく。息を吐くと草と土の湿りが肺に落ち、遅れて胸が痛んだ。


 やがてようやく、香樹の影からそっと顔を出す。

 小径は何事もなかったように静かだ。白壁は冷えたまま、濡れた苔が淡い匂いを返していた。


 格子の方へ目をやる。変わらぬ沈黙。先ほどあそこから声が渡ったなんて、今でも信じられない。

 ユエは、舌の裏に残る乾きを飲み込んだ。


 あいつは——あんなに怖がってたのに。


 いつの間にか、拳を握っていた。爪が掌に食い込む痛みだけが、現実の証のように確かだ。


 守られた。

 その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、それまで曖昧だった〝線〟が、一本だけ、はっきり引かれた気がした。

 ユエはもう一度だけ格子を見る。それから音を立てないように踵を返し、森の闇へ身を溶かした。


 風も森も、何ひとつ壊れてはいない。

 何かが壊れたのは、たぶん自分のほうだ。自分の足元だけが、元の場所ではなくなっていた。

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