17:誘いの先へ
夜の香の間には、昨日と同じ静けさが満ちていた。
けれど、昨日とまったく同じではなかった。
ユエはそれを、香の張りではなく──そこに座る織祀の、姿勢のわずかな違いで感じ取った。
いつも通り、格子の外に腰を下ろし、石畳に背をあずける。
「昨日の半歩、あれ、結構すごかったよな」
「……いまだに、香の反応がわずかに残っております」
「マジかよ。根に持つ系の香なのか。……お付きの奴らは?」
「……変わりなく。恐らく、わたし以外には」
「だろうなあ。お前の耳と鼻がおかしいだけだもん」
軽口に、香の向こうの気配が少しだけ揺れた。
織祀は笑ったのか、それともただ呼吸が緩んだだけなのか。
けれど、その空気の変化に、ユエは確かに〝昨日からの続き〟を感じ取る。
「なあ、昨日、動いても平気だったじゃん」
「……はい」
「ならさ、あとちょっとくらい、行けるんじゃね?」
ユエは立ち上がり、格子の正面に立つ。
夜の明かりに透けるような香の膜。その向こうで、白い敷布に座る小さな影。
「ここまで来てみろよ。敷布から出て、ほんの数歩。その部屋の端っこまで。そしたらもう、外の回廊だ。そっからまっすぐ回ってきたら、ここまで来れるぜ」
織祀はすぐには答えなかった。
「……それは、わたしの〝外〟です」
「だから行く価値あるんだろ? 昨日だって、動いても壊れなかったんだ。律も、香も」
「…………」
「俺、ここで待ってるからさ」
織祀は、そっと息を吸い込んだ。
右手を敷布に下ろす。
細い指先が布の端に触れ、そこが今までいた〝内〟の境であることを確かめるように、そっと撫でる。
指に微かな震え。
左手は膝の上で静止していたが、やがてそれも、敷布の縁へと伸ばされる。
両手で、座布を支える。
背筋を正し、肩の力を抜こうとする。けれど、すぐには抜けない。
息を吐いて、もう一度、吸う。
足の指が動いた。膝の角度が、わずかに変わる。
膝を曲げ、足裏を敷布に置き直す。
ほんのわずかに、身体が前へと傾いた。
両腕に重心が移動する。支えを外さぬよう、そっと、膝を浮かせる。
息を止めたまま、彼は──ようやく、立ち上がった。
香が澱む。律が揺らぐ。……けれど、崩れる気配は無い。
もう一度、呼吸を確かめて──
香の座から、足を前へと踏み出した。
一歩目。
手引きの無い歩みは、記憶にある限り初めてだった。
一瞬、手が支えを求めるように宙を舞って、何も掴めずにそのまま空間を彷徨う。
重心の軸が、空間の軸が、すべて足元に集中した。
ゆっくりと、慎重に、足先を運ぶ。布の端を越え、床の冷たさが素足の裏に広がる。
重心が前に移りきるまで、香はざわついたまま揺れていた。構文は崩れていない、大丈夫。
けれど、僅かに一歩を踏んだだけなのに、もう織祀の耳の中では、〝世界〟が変わり始めていた。
香炉の位置。敷布の場所。
部屋の左右の端で仄かに揺れているはずの燭台。
座している時、あれほど鮮明にどこに何があるか把握できていた空間の座標が、一歩で崩れ始める。
座の場所から三歩で香炉だ。
それなら、自分が一歩遠ざかるように動いた今は、香炉まで四歩。
……本当に?
自分は、本当に正しい方向に一歩進んだだろうか?
敷布から香の間の入口まで、手引きで出る時はいつも十歩も数えたことがないはずだった。
たった十歩。
なのに。
定まらないままもう一歩。
息を整え、両腕の空間で距離を測るように、空を押すようにして、片足を前へ。
踏み出す。
床が少し傾いているような錯覚を覚える。
世界が分からない。
出口は、……自分が向いている先に、あるだろうか?
数歩目を重ねたところで、ついに重心が定まらなくなった。
世界が変質していく。
(……分からない)
(何がどこにあるのか)
(踏み出したはずなのに、足元が浮いている)
(音が、散って──集まらない)
聴覚が捉えていた空間が、縁を失ったように思えた。
壁は遠のき、天井が高くなり、音の輪郭は霧散していく。
十歩もしないうちに、香の間から出られるはずだった。
なのに十歩。数える頃には、織祀は完全に、方向を見失っていた。
足元はまだ、香の間の床の感触のままだ。
(わたしが在れたのは、……座があったからだ)
それは言葉ではなく、身体の芯に刻み込まれた訓示のようなものだった。
座にあるとき、織祀は〝定まって〟いた。
香が張ることで、世界が閉じていたから、全てが視えていた。
視えていたような気に、なっていただけだった。
香の流れは、そこにある。香構文も、崩れてはいない。
けれど──基準点が動いた。
わたしという中心が、いま、自分の中心にない。
足元の空気が震えているのは、空間が乱れているのではない。
感覚の座標軸そのものが、揺らいでいるのだ。
(誰にも導かれなければ、……わたしはどこへも行けない)
歩こうとしても、どこに向かっているのかが分からない。
どこに足を置けば正しいのか、何を基準に『まっすぐ』を選べばいいのか──それすら分からない。
(この歩みは、律を崩すより先に、……わたし自身の〝かたち〟を崩している)
自分が歩めば、律が歪むと教えられてきた。自分が歩めば、世界が崩れるのだと。
けれど今、耳に入る音が増えるたび、座標が崩れる。
音が拡がるたびに、足元の実感が遠のいていく。
崩れているのは、自分の方だ。
(わたしは、……歩けないのだ)
ただ命じられて座にいたのではない。
誰かに手を引かれていなければ、はじめからどこにも行けなかったのだ。
自分という存在は、〝支えられているあいだだけ〟成り立っていたのだと、織祀はようやく気づく。
(誰かに導かれなければ、歩くということすらできない)
(……わたしはこんなにも、脆く、不確かな存在だった)
膝が抜けるように、織祀はその場にしゃがみ込んだ。
***
ユエは訝しげに香の間の動きを覗き込んでいた。
ユエから見ると、織祀は実に妙な動きをしていた──少し歩めば方向が微妙にずれ、更にあらぬ方向へ踏み出している。
広い香の間では、数歩重ねたくらいでは壁にも柱にもぶつからない。
方向を示す手がかりにすら辿り着けていない、そんな印象だった。
やがて織祀が座り込んでしまう。
「……おい、大丈夫か?」
たまらず、ユエは格子の向こうから声を落とした。
織祀は答えず、ただうずくまっていた。
その気配を感じ取ったのか、次の瞬間──
「ちょっと入るぞ。もう入ってるけど」
香の膜がゆっくり揺れた。ユエが、緩んだ格子の隙間から身体を滑り込ませてくる。
「……っ、いけません」
織祀の声はかすれていた。
けれど、止める力は込められていなかった。
ぱたぱたと、小さな足音が回廊を回ってくる。
見張りに気付かれないよう足音を殺しているつもりなのだろうが、それよりよっぽど明け透けな足音が、そっと香の間に近づいてきていた。
「ほら、手。出せ」
ほんの数秒もしないうちに、頭上から声が降ってきた。少年の気配。
織祀は、ためらった。
触れてはいけない。触れられてはいけない。
付き人でさえ、白布を介してしか触れなかった。
けれど──この手は、ちがった。
そっと差し出されたその手は、あたたかかった。
なにも挟まず、直接に。
指が触れた。
皮膚と皮膚が、素のまま繋がった。
その感触に、織祀は思わず息を詰めた。
(……手)
(覆われていない。まっすぐに、わたしに)
ざわりと香が揺れる。けれど、それは拒絶ではなかった。
(あたたかい。わたしを〝連れていく〟手)
(触れてはいけないはずのものが、……こんなにも)
(わたしは、もう──)
香が、わずかに色を変えたように揺れた。
ユエの手に導かれて、織祀は再び、立ち上がった。
〝わたし〟がもう一度、輪郭を取り戻したような気がした。





