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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
21/25

17:誘いの先へ

 夜の香の間には、昨日と同じ静けさが満ちていた。


 けれど、昨日とまったく同じではなかった。

 ユエはそれを、香の張りではなく──そこに座る織祀しきの、姿勢のわずかな違いで感じ取った。


 いつも通り、格子の外に腰を下ろし、石畳に背をあずける。


「昨日の半歩、あれ、結構すごかったよな」

「……いまだに、香の反応がわずかに残っております」

「マジかよ。根に持つ系の香なのか。……お付きの奴らは?」

「……変わりなく。恐らく、わたし以外には」

「だろうなあ。お前の耳と鼻がおかしいだけだもん」


 軽口に、香の向こうの気配が少しだけ揺れた。

 織祀は笑ったのか、それともただ呼吸が緩んだだけなのか。

 けれど、その空気の変化に、ユエは確かに〝昨日からの続き〟を感じ取る。


「なあ、昨日、動いても平気だったじゃん」

「……はい」

「ならさ、あとちょっとくらい、行けるんじゃね?」


 ユエは立ち上がり、格子の正面に立つ。

 夜の明かりに透けるような香の膜。その向こうで、白い敷布に座る小さな影。


「ここまで来てみろよ。敷布から出て、ほんの数歩。その部屋の端っこまで。そしたらもう、外の回廊だ。そっからまっすぐ回ってきたら、ここまで来れるぜ」


 織祀はすぐには答えなかった。


「……それは、わたしの〝外〟です」


「だから行く価値あるんだろ? 昨日だって、動いても壊れなかったんだ。律も、香も」

「…………」

「俺、ここで待ってるからさ」



 織祀は、そっと息を吸い込んだ。


 右手を敷布に下ろす。

 細い指先が布の端に触れ、そこが今までいた〝内〟の境であることを確かめるように、そっと撫でる。

 指に微かな震え。


 左手は膝の上で静止していたが、やがてそれも、敷布の縁へと伸ばされる。

 両手で、座布を支える。


 背筋を正し、肩の力を抜こうとする。けれど、すぐには抜けない。

 息を吐いて、もう一度、吸う。


 足の指が動いた。膝の角度が、わずかに変わる。

 膝を曲げ、足裏を敷布に置き直す。


 ほんのわずかに、身体が前へと傾いた。

 両腕に重心が移動する。支えを外さぬよう、そっと、膝を浮かせる。


 息を止めたまま、彼は──ようやく、立ち上がった。

 香が澱む。律が揺らぐ。……けれど、崩れる気配は無い。


 もう一度、呼吸を確かめて──

 香の座から、足を前へと踏み出した。



 一歩目。



 手引きの無い歩みは、記憶にある限り初めてだった。

 一瞬、手が支えを求めるように宙を舞って、何も掴めずにそのまま空間を彷徨う。

 重心の軸が、空間の軸が、すべて足元に集中した。


 ゆっくりと、慎重に、足先を運ぶ。布の端を越え、床の冷たさが素足の裏に広がる。

 重心が前に移りきるまで、香はざわついたまま揺れていた。構文は崩れていない、大丈夫。


 けれど、僅かに一歩を踏んだだけなのに、もう織祀の耳の中では、〝世界〟が変わり始めていた。


 香炉の位置。敷布の場所。

 部屋の左右の端で仄かに揺れているはずの燭台。


 座している時、あれほど鮮明にどこに何があるか把握できていた空間の座標が、一歩で崩れ始める。

 座の場所から三歩で香炉だ。

 それなら、自分が一歩遠ざかるように動いた今は、香炉まで四歩。


 ……本当に?


 自分は、本当に正しい方向に一歩進んだだろうか?



 敷布から香の間の入口まで、手引きで出る時はいつも十歩も数えたことがないはずだった。

 たった十歩。

 なのに。

 定まらないままもう一歩。


 息を整え、両腕の空間で距離を測るように、空を押すようにして、片足を前へ。


 踏み出す。

 床が少し傾いているような錯覚を覚える。


 世界が分からない。

 出口は、……自分が向いている先に、あるだろうか?



 数歩目を重ねたところで、ついに重心が定まらなくなった。

 世界が変質していく。


(……分からない)


(何がどこにあるのか)

(踏み出したはずなのに、足元が浮いている)

(音が、散って──集まらない)


 聴覚が捉えていた空間が、縁を失ったように思えた。

 壁は遠のき、天井が高くなり、音の輪郭は霧散していく。



 十歩もしないうちに、香の間から出られるはずだった。


 なのに十歩。数える頃には、織祀は完全に、方向を見失っていた。

 足元はまだ、香の間の床の感触のままだ。



(わたしが在れたのは、……座があったからだ)



 それは言葉ではなく、身体の芯に刻み込まれた訓示のようなものだった。

 座にあるとき、織祀は〝定まって〟いた。

 香が張ることで、世界が閉じていたから、全てが視えていた。


 視えていたような気に、なっていただけだった。


 香の流れは、そこにある。香構文も、崩れてはいない。

 けれど──基準点が動いた。


 わたしという中心が、いま、自分の中心にない。

 足元の空気が震えているのは、空間が乱れているのではない。

 感覚の座標軸そのものが、揺らいでいるのだ。


(誰にも導かれなければ、……わたしはどこへも行けない)


 歩こうとしても、どこに向かっているのかが分からない。

 どこに足を置けば正しいのか、何を基準に『まっすぐ』を選べばいいのか──それすら分からない。


(この歩みは、律を崩すより先に、……わたし自身の〝かたち〟を崩している)


 自分が歩めば、律が歪むと教えられてきた。自分が歩めば、世界が崩れるのだと。

 けれど今、耳に入る音が増えるたび、座標が崩れる。

 音が拡がるたびに、足元の実感が遠のいていく。


 崩れているのは、自分の方だ。


(わたしは、……歩けないのだ)


 ただ命じられて座にいたのではない。

 誰かに手を引かれていなければ、はじめからどこにも行けなかったのだ。

 自分という存在は、〝支えられているあいだだけ〟成り立っていたのだと、織祀はようやく気づく。


(誰かに導かれなければ、歩くということすらできない)

(……わたしはこんなにも、脆く、不確かな存在だった)


 膝が抜けるように、織祀はその場にしゃがみ込んだ。



 ***



 ユエは訝しげに香の間の動きを覗き込んでいた。

 ユエから見ると、織祀は実に妙な動きをしていた──少し歩めば方向が微妙にずれ、更にあらぬ方向へ踏み出している。


 広い香の間では、数歩重ねたくらいでは壁にも柱にもぶつからない。

 方向を示す手がかりにすら辿り着けていない、そんな印象だった。


 やがて織祀が座り込んでしまう。


「……おい、大丈夫か?」


 たまらず、ユエは格子の向こうから声を落とした。


 織祀は答えず、ただうずくまっていた。

 その気配を感じ取ったのか、次の瞬間──


「ちょっと入るぞ。もう入ってるけど」


 香の膜がゆっくり揺れた。ユエが、緩んだ格子の隙間から身体を滑り込ませてくる。


「……っ、いけません」


 織祀の声はかすれていた。

 けれど、止める力は込められていなかった。



 ぱたぱたと、小さな足音が回廊を回ってくる。

 見張りに気付かれないよう足音を殺しているつもりなのだろうが、それよりよっぽど明け透けな足音が、そっと香の間に近づいてきていた。


「ほら、手。出せ」


 ほんの数秒もしないうちに、頭上から声が降ってきた。少年の気配。

 織祀は、ためらった。


 触れてはいけない。触れられてはいけない。

 付き人でさえ、白布を介してしか触れなかった。


 けれど──この手は、ちがった。


 そっと差し出されたその手は、あたたかかった。

 なにも挟まず、直接に。


 指が触れた。

 皮膚と皮膚が、素のまま繋がった。


 その感触に、織祀は思わず息を詰めた。


(……手)

(覆われていない。まっすぐに、わたしに)


 ざわりと香が揺れる。けれど、それは拒絶ではなかった。


(あたたかい。わたしを〝連れていく〟手)

(触れてはいけないはずのものが、……こんなにも)


(わたしは、もう──)


 香が、わずかに色を変えたように揺れた。

 ユエの手に導かれて、織祀は再び、立ち上がった。


〝わたし〟がもう一度、輪郭を取り戻したような気がした。

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