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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
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16:敷布の一歩

 夜の香の間は、いつもより少しだけ、重たかった。

 香がやけに濃く感じられるのは季節のせいだろうか、とユエは思う。


 風はない。構文は整っているように見える。

 けれど、肌に触れる香の膜が、わずかに粘りつくような気がした。


 格子の外、石畳に腰を下ろして、肩越しに香の間を見やる。


「今日の香、なんか濃すぎねえか?」


 問いかけに、ためらいがちに返事が返ってくる。


「……申し訳ありません。わたしのせい、かもしれません」


 その声がいつもより少し硬いのに気づいて、ユエは軽く目を細めた。


「なんで謝る?」

「……分かりません。ただ、……香の通りが、あまり良くありません」

「焚いてるやつが配合間違えてるわけじゃなく?」

「いえ……」


 織祀しきはそれきり黙ってしまった。

 ユエは昨日のことを思い出す。

 香の向こうから、小さな声で『たのしそうですね』と言った時のこと。


「……もしかして、俺が変なこと言ったからか?」

「変なこと、とは……」

「ほら、昨日。〝外に出たいと思わねえ?〟って聞いたろ。あれ、なんか……悪かったか?」


 織祀は答えない。けれど、香の揺れ方が変わる。

 空気がわずかに動いた気がした。微細な波が、構文の中をなぞるように流れていく。


「図星かあ」


 ユエは頭をかいた。


「……なあ」


 彼はふと思いついたように、敷布の端を見やる。


「お前がいっつも座ってるそれ、〝座〟って言うんだよな。そこからちょっとだけずれたら、どうなんだ?」

「どう、とは……」

「律とか、香とか、崩れんの?」


 沈黙。

 織祀はすぐには答えなかった。


 やがてようやく、ぽつりと口を開く。


「……織祀が自ら動けば……崩れる、……と、教えられています」

「じゃあさ、試してみようぜ」


 ユエのそれは、軽い口調だった。


「そこ。今座ってるとこから──そうだな、半歩ぶん。敷布の端っこまで、ちょっとだけ動いてみろよ」


 織祀の身体がぴくりと揺れる気配。

 香の間の奥で、何かが張りつめた。



 織祀は、動けなかった。


(動けば、構文が崩れる。律が乱れる。わたしは器として、ここに〝在る〟べきなのだ)


 けれど、あの問いが、まだ香の中に残っている。


 ──『〝行ってみたい〟って思わねえの?』


 その言葉の響きは、今も身体の奥に残っていた。否応なく、揺らいでしまったのだ。


(動いてはならない。──けれど)


 織祀はそっと、膝上に揃えられた手を崩した。

 右手を敷布につく。

 手のひらが布を探る。重心をかける。


 躊躇いながら、膝を動かす。足が、布の端にかかる。

 香がざわつく。

 けれど、それは拒絶ではなかった。


 ひと呼吸分の静寂。

 そして──右足を、ほんの半歩。

 敷布の端へと、滑らせた。


 香が波打つ。構文が、軋むように震える。

 世界が応答している。



 ユエは、格子の外で音を殺していた。


(来るか──)


 けれど、何も起こらなかった。

 崩れない。座も、香も、構文も。


「──おお」


 ユエがぽつりとつぶやいた。


「ほらな? シキ。なんも起きねーじゃん」


 織祀は答えなかった。

 ただ、敷布の端に触れた足を、そのままの位置で止めていた。


 空気はまだ、震えていた。

 けれど、それは恐れではなかった。


(律は、揺れた。……けれど)

(壊れては、いない)


(──では、わたしが、動いても)

(世界は、壊れないのか?)


 香が、そっと揺れていた。

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