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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
19/25

15:たずねかえす

 格子の向こう、風がひとつ通り抜けた。


 いつの間にか季節が移り変わり、寒さは日に日に厳しくなり、風が乾き始めている。

 

 以前より格段に、夜が訪れる時間が早くなっていた。

 この季節の夜の香の間には、昼よりもさらに深い沈黙が宿る。

 香は細く揺れて、息のように空間を包んでいた。律の構文は乱れておらず、香調も落ち着いている。


 ──けれど、ユエはそこに、微かな〝注意〟の気配を感じていた。


 今日も今日とて格子の外に腰を下ろして、音を立てないよう背を預ける。

 あの中に、彼がいる。

 それはもう確かなことで、以前のような空虚な空間ではなかった。


 織祀しきは、声を取り戻した。


 ──いや、声そのものはずっとあったのだ。戻ったのは、言葉だ。

 しかしそれは完全に解き放たれたわけではなく、何かを探るような慎重さが、あの時から常に伴っていた。

 静けさの内側に、彼はいつも〝どこか〟を聴いているのだ。


「……なあ、シキ」


 ユエはぼそりと呟いて、少しだけ首を傾ける。


「何かお前、今日だいぶ静かじゃね?」


 香の奥から、わずかな気配が応じた。

 すぐに、声が返る。


「申し訳ありません。……見張りの方が、今夜は早い巡回のようで」


 相変わらず、丁寧で静かな声だった。

 けれど、その中に耳を澄ませるような緊張が混じっている。


「……うっわ、もう聞こえてんの? ずるくね、それ」


 ユエが小声で笑うと、香が微かにひと揺れする。織祀が笑ったのかどうかは分からなかった。

 その一瞬の揺らぎが、呼気の乱れなのか、香の変化なのか、あるいは心の波か──ユエには判じかねる。


 ユエはふ、と小さく息をついた。それから、ふいに口を開く。


「今日さあ、森の広場んとこ行ってきたんだ」


 格子の向こう、織祀は静かに耳を傾けていた。


「青いの咲いててさ。なんつーか、葉っぱがやけに白くて、しゅっとしてんの。見たことある?」

「……しゅっと、ですか」


 くす、とした気配が返ってくる。

 織祀にとって〝しゅっ〟という形容は、あまり馴染みがなかったのだろう。


「うん、しゅっ。つんつんでもなく、ふわふわでもなく、しゅっ。……わかんねーか」

「……想像は、できます」

「へえ、いい耳してんな」

「……いえ。わたしは、想像するしかできませんから」


 その言葉に、ユエは一瞬、返す言葉を失った。


 ──ああ、そうか。

 こいつは、外の花を、見たことがないのかもしれない。


「でもな、花もいいけど、陽の光がさ……今日のはすごかった。葉っぱが透けて、ちっちゃい羽虫が陽に透けてんの。空気ごと光ってるみたいで、妹が笑ってさ──ああいうの、たぶん忘れねぇんだろうなって思った」


「…………」


 香が、少しだけ静まりかえる。

 けれど、その沈黙は遠ざかるのではなく、近づいてくるような──聴こうとする気配を伴っていた。


「──すてきですね」


 ぽつりと、織祀が言った。


 ユエは思わず、息を止める。

 香が、ふっと揺れた。

 まるで、そこにいた風が一度、世界の輪郭をなぞったかのように。


「……なあ、それ」


 ユエはそっと姿勢を変えて、格子の隙間を覗くようにして声を低める。


「〝行ってみたい〟って思わねえの?」


 香の間の奥で、織祀の肩が、ぴくりと動いた。

 反応は、それだけ。

 けれど、確かに息が、迷っていた。


「お前さ──祈り場に行く以外で、外出たことねーだろ?」


 その言葉に、織祀の唇が、わずかに動く。


「それは、……」


 かすかな音が香の中に落ちて、消えた。

 それは言葉ではなかった。けれど、語ろうとした〝声のかたち〟だった。


(……言おうとして、やめた?)


 ユエは思った。

 そして気づく。


 ──こいつは、いま、〝言いたいこと〟があったんだ。



 ***



 織祀の中には、問いが生まれていた。


(わたしは……〝行ってみたい〟のか)

(それを、思ってしまったのか)

(それは、〝逸れて〟しまうことなのに)


 香が、ゆるやかに強さを帯びる。

 構文が、抑制の輪郭を緩やかに立ち上げる。


 香が、押し返してくる。


「…………」


 唇が開いて、また閉じられる。

 呼吸が、言葉の手前で止まる。


(語っては、ならぬ。望んでは、ならぬ)


 香布がそっと揺れる音。

 外から聴こえる、虫の羽音。

 遠くの足音──まだ巡回は近くない。


(──けれど)


 彼は、何かを飲み込むように、静かに肩を沈めた。



 ユエはもう何も言わなかった。

 少しだけ沈黙が続いて、やがて立ち上がる気配を香の向こうに伝える。


「……ま、いいや。無理に答えなくていいけどな」


 織祀は何も返さなかった。

 けれどその沈黙は、ただの無言ではなかった。


「お前が〝行きたい〟って思ったときには、ちゃんと言えよ。そんときゃ、連れてってやるから」


 それだけ言い残して、ユエは歩き出す。

 足音は、香の流れに吸い込まれるように遠ざかっていった。



 香の間に、再び沈黙が訪れた。

 けれど、それはかつての〝空白〟ではない。

 そこには、〝問い〟が残っていた。


(わたしは──)


 その言葉の先を、織祀はまだ、持たなかった。

 ただ、香の中に漂うその輪郭を、たしかに聴き取っていた。


 ──わたしは。

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