15:たずねかえす
格子の向こう、風がひとつ通り抜けた。
いつの間にか季節が移り変わり、寒さは日に日に厳しくなり、風が乾き始めている。
以前より格段に、夜が訪れる時間が早くなっていた。
この季節の夜の香の間には、昼よりもさらに深い沈黙が宿る。
香は細く揺れて、息のように空間を包んでいた。律の構文は乱れておらず、香調も落ち着いている。
──けれど、ユエはそこに、微かな〝注意〟の気配を感じていた。
今日も今日とて格子の外に腰を下ろして、音を立てないよう背を預ける。
あの中に、彼がいる。
それはもう確かなことで、以前のような空虚な空間ではなかった。
織祀は、声を取り戻した。
──いや、声そのものはずっとあったのだ。戻ったのは、言葉だ。
しかしそれは完全に解き放たれたわけではなく、何かを探るような慎重さが、あの時から常に伴っていた。
静けさの内側に、彼はいつも〝どこか〟を聴いているのだ。
「……なあ、シキ」
ユエはぼそりと呟いて、少しだけ首を傾ける。
「何かお前、今日だいぶ静かじゃね?」
香の奥から、わずかな気配が応じた。
すぐに、声が返る。
「申し訳ありません。……見張りの方が、今夜は早い巡回のようで」
相変わらず、丁寧で静かな声だった。
けれど、その中に耳を澄ませるような緊張が混じっている。
「……うっわ、もう聞こえてんの? ずるくね、それ」
ユエが小声で笑うと、香が微かにひと揺れする。織祀が笑ったのかどうかは分からなかった。
その一瞬の揺らぎが、呼気の乱れなのか、香の変化なのか、あるいは心の波か──ユエには判じかねる。
ユエはふ、と小さく息をついた。それから、ふいに口を開く。
「今日さあ、森の広場んとこ行ってきたんだ」
格子の向こう、織祀は静かに耳を傾けていた。
「青いの咲いててさ。なんつーか、葉っぱがやけに白くて、しゅっとしてんの。見たことある?」
「……しゅっと、ですか」
くす、とした気配が返ってくる。
織祀にとって〝しゅっ〟という形容は、あまり馴染みがなかったのだろう。
「うん、しゅっ。つんつんでもなく、ふわふわでもなく、しゅっ。……わかんねーか」
「……想像は、できます」
「へえ、いい耳してんな」
「……いえ。わたしは、想像するしかできませんから」
その言葉に、ユエは一瞬、返す言葉を失った。
──ああ、そうか。
こいつは、外の花を、見たことがないのかもしれない。
「でもな、花もいいけど、陽の光がさ……今日のはすごかった。葉っぱが透けて、ちっちゃい羽虫が陽に透けてんの。空気ごと光ってるみたいで、妹が笑ってさ──ああいうの、たぶん忘れねぇんだろうなって思った」
「…………」
香が、少しだけ静まりかえる。
けれど、その沈黙は遠ざかるのではなく、近づいてくるような──聴こうとする気配を伴っていた。
「──すてきですね」
ぽつりと、織祀が言った。
ユエは思わず、息を止める。
香が、ふっと揺れた。
まるで、そこにいた風が一度、世界の輪郭をなぞったかのように。
「……なあ、それ」
ユエはそっと姿勢を変えて、格子の隙間を覗くようにして声を低める。
「〝行ってみたい〟って思わねえの?」
香の間の奥で、織祀の肩が、ぴくりと動いた。
反応は、それだけ。
けれど、確かに息が、迷っていた。
「お前さ──祈り場に行く以外で、外出たことねーだろ?」
その言葉に、織祀の唇が、わずかに動く。
「それは、……」
かすかな音が香の中に落ちて、消えた。
それは言葉ではなかった。けれど、語ろうとした〝声のかたち〟だった。
(……言おうとして、やめた?)
ユエは思った。
そして気づく。
──こいつは、いま、〝言いたいこと〟があったんだ。
***
織祀の中には、問いが生まれていた。
(わたしは……〝行ってみたい〟のか)
(それを、思ってしまったのか)
(それは、〝逸れて〟しまうことなのに)
香が、ゆるやかに強さを帯びる。
構文が、抑制の輪郭を緩やかに立ち上げる。
香が、押し返してくる。
「…………」
唇が開いて、また閉じられる。
呼吸が、言葉の手前で止まる。
(語っては、ならぬ。望んでは、ならぬ)
香布がそっと揺れる音。
外から聴こえる、虫の羽音。
遠くの足音──まだ巡回は近くない。
(──けれど)
彼は、何かを飲み込むように、静かに肩を沈めた。
ユエはもう何も言わなかった。
少しだけ沈黙が続いて、やがて立ち上がる気配を香の向こうに伝える。
「……ま、いいや。無理に答えなくていいけどな」
織祀は何も返さなかった。
けれどその沈黙は、ただの無言ではなかった。
「お前が〝行きたい〟って思ったときには、ちゃんと言えよ。そんときゃ、連れてってやるから」
それだけ言い残して、ユエは歩き出す。
足音は、香の流れに吸い込まれるように遠ざかっていった。
香の間に、再び沈黙が訪れた。
けれど、それはかつての〝空白〟ではない。
そこには、〝問い〟が残っていた。
(わたしは──)
その言葉の先を、織祀はまだ、持たなかった。
ただ、香の中に漂うその輪郭を、たしかに聴き取っていた。
──わたしは。





