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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
18/25

14:ことばがもどる

 香の中に、微かな風の揺らぎがある。


 夜の香構文こうこうぶんは乱れていなかった。

 けれど、織祀しきは知っていた。

 それは、静謐な安定とは、ほんの少しだけ異なる。


 ──来ている。


 音が近づいてくる。湿った地面に落ちる靴の音。

 重たすぎず、軽すぎもしない足取り。


 三日ぶりだった。


 この三日間、香は妙に空虚だった。

 律の巡りは変わらず整っていたが、どこか深いところに微かな滞りがあった。


 それは律の不調でも、構文の歪みでもない。

 もっと曖昧で、もっと内側の──音を待つ空洞のようなものだった。


 今、その空洞がゆっくりと満ちていく。

 息の重なり。足音の響き。

 遠くの葉擦れまでが香の中に染み込んでくる。


 小さく、地面が沈む音。

 格子の外に座り込む気配。


 そして、声が降る。


「……よ、久しぶり」


「いやあ、妹が熱出してさ。いや、本当の妹ってわけじゃねぇけど。ちっちゃいやつだから、俺が面倒見ねぇと泣いて寝ねぇし」


 風が撫でるように香を揺らした。


「今日はなー、鹿、見た。ちっちゃいやつ。まだ角もない、たぶん生まれたばっかだな」


 語りかける声は、昨日も、一昨日もなかった。


 三日ぶり。


 三日という期間は本来この森に棲まう者にとって、指折り数えると言うにはあまりにも短いはずだった。

 それこそ最初は何日も空いたし、それを何とも思っていなかったはずだった。


 なのに。


 三日ぶり。

 けれど、それはすぐに、香の流れに馴染んでいく。


「草の中で丸まってた。風で耳だけぴくぴく動かしててさ……変なやつだったぞ。ちょっと、お前に似てた」


 それは、たわいもない話だった。

 けれど、律の奥深くに触れるように、やわらかく、確かに届いてきた。


 ──待っていた。

 自分は、この声を。


 三日前から、森の奥から遠く響いた音があったのは知っていた。

 爆ぜる火のそばで、水を汲む音、寝返りを打つ幼い寝息、そして濡れ布を絞る指の音。

 香の遠くの層を掠めて、優しい声がひとつ、誰かをあやすように囁いていた。


 その声が、今夜──再び、ここにある。


 語りが続いている。

 声が流れてくる。

 たわいもない話。それでも、どこかがやわらかくほどけていく。



 ──うれしい。



 胸の奥に、小さなあたたかさが灯る。

 息を吸っただけで、香がやわらかくなった。


 来てくれた。あの声で、また。


 うれしい。


 その感情が喉まで満ちたとき、律が、ほんのわずかに揺れた。だが崩れなかった。

 その一瞬が、背中を押した。


「……それは、どれほど小さかったのですか?」


 思わず、ことばがこぼれた。



 ***



 ユエの動きが止まった。

 まるで風が止んだかのように、周囲の音が一瞬遠のいた。

 格子の向こうから響いたその声は、確かに──


「……お、おい……今、喋ったか……?」


 驚きで立ち上がりかけた足を引き戻し、格子に伸ばしかけた手をかろうじて引く。


「お前、喋ったよな!?  今、ちゃんと、俺の話、聞いてたんだよな!?」


 沈黙の中。

 香の揺れだけが、微かに響いていた。


 やがて、白い香衣の中から、再び声が届いた。


「……はい。……聞いていました」


 その声音に、ユエは息を呑み、思わず笑った。


「……あー、もう、なんだよ……めちゃくちゃ嬉しいんだけど」


 ぽつりと、香の向こうから、さらなる言葉が落ちてくる。


「……妹御には……もしまだ咳が残るようでしたら……白花しらはなだけでなく、べにひいらぎの根も少し、煎じてあげるとよいかもしれません」


「ああいや大丈夫、もう元気になった。寝る前に飯も食ったし……って」


 ユエはそう言いかけて目を見開き、思わず固まった。


「え、それ。なんでわかった?」


 たしかに妹の熱の話はした。

 けれど、咳のことも、何度も水を吐き出して泣いたことも、白花の薬草を三度煎じ直してやっと少し飲んでくれたことも、……彼には言っていない。



 あの晩、火が揺れていた。

 濡らした布を絞る音、自分の名前を呼ぶ小さな声。

 水を煮る壺のかすかな揺れ、薬草を混ぜる木の匙の音。


 あんな夜の、あんな細い音を──香の中で、拾っていた?


 背中に、じわりと冷たいものが這いのぼる。

 香の内と外──その境目が、そもそも存在していたのかすら怪しくなる。

 異質で、得体の知れない何か。


 なのに、その声は、


「……そうでしたか」


 その声は、どこまでも静かで、優しく、穏やかだった。

 香の中で、小さく、律が息を吸うように澄んだ。


「わたしは……また、声を聞けて、〝うれしい〟 と……思いました」


 ユエは、何も言えなかった。

 その〝うれしい〟の響きが、あまりにも真っ直ぐだったからだ。


 香構文は、乱れなかった。

 律は穏やかだった。


 その夜、ふたりのあいだに、はじめて〝交わされた〟会話が生まれた。

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