14:ことばがもどる
香の中に、微かな風の揺らぎがある。
夜の香構文は乱れていなかった。
けれど、織祀は知っていた。
それは、静謐な安定とは、ほんの少しだけ異なる。
──来ている。
音が近づいてくる。湿った地面に落ちる靴の音。
重たすぎず、軽すぎもしない足取り。
三日ぶりだった。
この三日間、香は妙に空虚だった。
律の巡りは変わらず整っていたが、どこか深いところに微かな滞りがあった。
それは律の不調でも、構文の歪みでもない。
もっと曖昧で、もっと内側の──音を待つ空洞のようなものだった。
今、その空洞がゆっくりと満ちていく。
息の重なり。足音の響き。
遠くの葉擦れまでが香の中に染み込んでくる。
小さく、地面が沈む音。
格子の外に座り込む気配。
そして、声が降る。
「……よ、久しぶり」
「いやあ、妹が熱出してさ。いや、本当の妹ってわけじゃねぇけど。ちっちゃいやつだから、俺が面倒見ねぇと泣いて寝ねぇし」
風が撫でるように香を揺らした。
「今日はなー、鹿、見た。ちっちゃいやつ。まだ角もない、たぶん生まれたばっかだな」
語りかける声は、昨日も、一昨日もなかった。
三日ぶり。
三日という期間は本来この森に棲まう者にとって、指折り数えると言うにはあまりにも短いはずだった。
それこそ最初は何日も空いたし、それを何とも思っていなかったはずだった。
なのに。
三日ぶり。
けれど、それはすぐに、香の流れに馴染んでいく。
「草の中で丸まってた。風で耳だけぴくぴく動かしててさ……変なやつだったぞ。ちょっと、お前に似てた」
それは、たわいもない話だった。
けれど、律の奥深くに触れるように、やわらかく、確かに届いてきた。
──待っていた。
自分は、この声を。
三日前から、森の奥から遠く響いた音があったのは知っていた。
爆ぜる火のそばで、水を汲む音、寝返りを打つ幼い寝息、そして濡れ布を絞る指の音。
香の遠くの層を掠めて、優しい声がひとつ、誰かをあやすように囁いていた。
その声が、今夜──再び、ここにある。
語りが続いている。
声が流れてくる。
たわいもない話。それでも、どこかがやわらかくほどけていく。
──うれしい。
胸の奥に、小さなあたたかさが灯る。
息を吸っただけで、香がやわらかくなった。
来てくれた。あの声で、また。
うれしい。
その感情が喉まで満ちたとき、律が、ほんのわずかに揺れた。だが崩れなかった。
その一瞬が、背中を押した。
「……それは、どれほど小さかったのですか?」
思わず、ことばがこぼれた。
***
ユエの動きが止まった。
まるで風が止んだかのように、周囲の音が一瞬遠のいた。
格子の向こうから響いたその声は、確かに──
「……お、おい……今、喋ったか……?」
驚きで立ち上がりかけた足を引き戻し、格子に伸ばしかけた手をかろうじて引く。
「お前、喋ったよな!? 今、ちゃんと、俺の話、聞いてたんだよな!?」
沈黙の中。
香の揺れだけが、微かに響いていた。
やがて、白い香衣の中から、再び声が届いた。
「……はい。……聞いていました」
その声音に、ユエは息を呑み、思わず笑った。
「……あー、もう、なんだよ……めちゃくちゃ嬉しいんだけど」
ぽつりと、香の向こうから、さらなる言葉が落ちてくる。
「……妹御には……もしまだ咳が残るようでしたら……白花だけでなく、紅柊の根も少し、煎じてあげるとよいかもしれません」
「ああいや大丈夫、もう元気になった。寝る前に飯も食ったし……って」
ユエはそう言いかけて目を見開き、思わず固まった。
「え、それ。なんでわかった?」
たしかに妹の熱の話はした。
けれど、咳のことも、何度も水を吐き出して泣いたことも、白花の薬草を三度煎じ直してやっと少し飲んでくれたことも、……彼には言っていない。
あの晩、火が揺れていた。
濡らした布を絞る音、自分の名前を呼ぶ小さな声。
水を煮る壺のかすかな揺れ、薬草を混ぜる木の匙の音。
あんな夜の、あんな細い音を──香の中で、拾っていた?
背中に、じわりと冷たいものが這いのぼる。
香の内と外──その境目が、そもそも存在していたのかすら怪しくなる。
異質で、得体の知れない何か。
なのに、その声は、
「……そうでしたか」
その声は、どこまでも静かで、優しく、穏やかだった。
香の中で、小さく、律が息を吸うように澄んだ。
「わたしは……また、声を聞けて、〝うれしい〟 と……思いました」
ユエは、何も言えなかった。
その〝うれしい〟の響きが、あまりにも真っ直ぐだったからだ。
香構文は、乱れなかった。
律は穏やかだった。
その夜、ふたりのあいだに、はじめて〝交わされた〟会話が生まれた。





