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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
17/25

13:こなかった夜

 夜は、いつもと変わらずに訪れた。


 香の間には、整えられた香構文が、揺らぎなく漂っている。

 重ねられた香層は淡く、澄んでいて、空間の奥行きを穏やかに保っていた。


 織祀しきは、その中心に、静かに座していた。

 ──けれど、そこには〝何か〟が、欠けていた。


〝何が欠けているのか〟は、はっきりとは言えなかった。

 ただ、夜の気配が違う。香の流れに、どこか小さな〝ざわめき〟が混ざっている。

 それは構文としての乱れではなく、もっと、微細な濁りのようなもの。


 いつものように、香の間の外から、足音がしなかった。

 草の葉がこすれ合う音はする。遠くで虫の羽音も聞こえる。

 けれど──〝それ〟が、ない。


 足音が、来なかった。

 ここのところ毎夜のように、同じ時刻、同じ重さで近づいてきたそれが、今日は、来なかった。


 織祀の姿勢は変わらない。顔も上げず、声も発さず。

 それでも、彼の中で何かが、ゆるやかに揺れていた。


 香の漏れて行く先、森のさらに奥から、夜風に乗って届く音があった。

 小さな女の子の泣き声。苦しそうな咳の合間に交じる、短い寝息。濡れた布が絞られる音、水を注ぐ音。火が爆ぜる音。


 そして、やわらかな唄。

 暖かな火に抱かれて眠る、優しい森の子守歌。

 あの声を、遠く微かに風が運んでくる。


 ──聞いてはいけない。


 そう思った。耳を塞がねばならなかった。

 器として、ここに座す者として、私的な音に触れてはならなかった。


 でも、聴こうとしてしまった。耳がそちらへ傾いていくのを、止められなかった。

 律を乱さぬよう、構文に触れぬよう、ただその音の層だけを選んで、聴こうとしてしまった。


 彼のことを、想像してしまった。

 あの声の主が、今どこで、何をしているのかを。

 火を焚き、子供をあやし、薬草を煎じている姿を──


 それは像を結ぶ行為だった。

 本来ならば、戒に触れてしまう逸脱だった。


 でも、すでに浮かんでしまっていた。

 自分の中で何かが、──彼を、〝待っている〟 のだと、知ってしまった。


 思った瞬間、香が震えた。

 しかし、構文は崩れなかった。

 そのことに、織祀は小さく、息を呑んだ。


 律は揺れている。だが、壊れてはいない。

 香は澱み、また、ゆっくりと整っていく。

 けれどその〝整い〟は、どこか──昨日までと、ほんのわずかに、違っていた。


 織祀は静かに目を伏せたまま、その揺らぎの中に身を置いた。

 香の輪郭が曖昧になる。


 その夜、香の間に声はなかった。

 けれど、音のない夜ではなかった。

 構文に触れぬ音が、森の向こうから、微かに香を震わせていた。

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