13:こなかった夜
夜は、いつもと変わらずに訪れた。
香の間には、整えられた香構文が、揺らぎなく漂っている。
重ねられた香層は淡く、澄んでいて、空間の奥行きを穏やかに保っていた。
織祀は、その中心に、静かに座していた。
──けれど、そこには〝何か〟が、欠けていた。
〝何が欠けているのか〟は、はっきりとは言えなかった。
ただ、夜の気配が違う。香の流れに、どこか小さな〝ざわめき〟が混ざっている。
それは構文としての乱れではなく、もっと、微細な濁りのようなもの。
いつものように、香の間の外から、足音がしなかった。
草の葉がこすれ合う音はする。遠くで虫の羽音も聞こえる。
けれど──〝それ〟が、ない。
足音が、来なかった。
ここのところ毎夜のように、同じ時刻、同じ重さで近づいてきたそれが、今日は、来なかった。
織祀の姿勢は変わらない。顔も上げず、声も発さず。
それでも、彼の中で何かが、ゆるやかに揺れていた。
香の漏れて行く先、森のさらに奥から、夜風に乗って届く音があった。
小さな女の子の泣き声。苦しそうな咳の合間に交じる、短い寝息。濡れた布が絞られる音、水を注ぐ音。火が爆ぜる音。
そして、やわらかな唄。
暖かな火に抱かれて眠る、優しい森の子守歌。
あの声を、遠く微かに風が運んでくる。
──聞いてはいけない。
そう思った。耳を塞がねばならなかった。
器として、ここに座す者として、私的な音に触れてはならなかった。
でも、聴こうとしてしまった。耳がそちらへ傾いていくのを、止められなかった。
律を乱さぬよう、構文に触れぬよう、ただその音の層だけを選んで、聴こうとしてしまった。
彼のことを、想像してしまった。
あの声の主が、今どこで、何をしているのかを。
火を焚き、子供をあやし、薬草を煎じている姿を──
それは像を結ぶ行為だった。
本来ならば、戒に触れてしまう逸脱だった。
でも、すでに浮かんでしまっていた。
自分の中で何かが、──彼を、〝待っている〟 のだと、知ってしまった。
思った瞬間、香が震えた。
しかし、構文は崩れなかった。
そのことに、織祀は小さく、息を呑んだ。
律は揺れている。だが、壊れてはいない。
香は澱み、また、ゆっくりと整っていく。
けれどその〝整い〟は、どこか──昨日までと、ほんのわずかに、違っていた。
織祀は静かに目を伏せたまま、その揺らぎの中に身を置いた。
香の輪郭が曖昧になる。
その夜、香の間に声はなかった。
けれど、音のない夜ではなかった。
構文に触れぬ音が、森の向こうから、微かに香を震わせていた。





