12:ことばを待つ
森の夜は、昼よりも静かで、深かった。
木々はその輪郭を闇の中に溶け込ませ、地を這う風だけがかすかに枝を揺らしている。
小路に沿って植えられた香草が、夜露を含んでひそやかに香を放っていた。
ユエは、その香に包まれながら、慣れた足取りで小道を進んでいた。
香の間──香構文を絶やさぬために整えられた、森殿の中でもとりわけ隔絶された空間。
その格子の外に立ち、ただ、彼は話すために来ていた。
香の間の中には、今日もあの白い影があった。
小さな身体をまっすぐに座らせ、香の中心に鎮まっている。
動かない。反応もない。ただ、そこに〝いる〟。
──ここ数日、ずっとこんな調子だった。
あの日、ほんの少し喋って、笑って。その直後に、連れていかれて。
そこから、織祀は一言も発しなくなった。
それでも、ユエは毎晩ここに来ている。
返事がなくても、頷きひとつ寄越されなくても。
もう喋ってくれないかもしれないと思いながらも、いや、思うからこそ、足が向いてしまう。
ユエは、少しだけ立ち止まって息を整えると、格子のすぐ外にしゃがみ込んだ。
「……なあ、シキ。今日、鳥がやかましかったんだ。朝っぱらからさ、何羽も。おかげで目ぇ覚めた」
織祀は、応えない。
「なんか、いつもより高いとこに集まってて。俺が下くぐったら、頭の上で羽ばたいてよ。まったく、森ん中で寝てる意味ねえっての」
いつものことだった。
織祀が応えることは、ない。
だけど──だからこそ、こうして来る意味があるような気もした。
「……でな、昼になったら今度は木の実が降ってきて。鳥が食い散らかしたんだろうな。甘いやつ。ちょっと拾ってみた。……まあまあだったぜ」
くすっと笑う。
「リィノの実って言うんだけどさ。食べごろになった途端に鳥が持ってっちまう。甘くて美味いのにいっつも出遅れるんだよ。……お前、食ったことある?」
ふと、言葉が空に浮いた。
香の間の中で、織祀は少しも動かない。白い香衣が、香の層をまとって沈黙を保っている。
そのあまりに静かな姿に、ユエは一瞬、自分の声が滑って消えたような錯覚を覚える。
それでも彼は続けた。
「そんでさ、午後はちょっと出てみた。川の方。風がすげえ気持ちよくてさ、なんか……うまく言えねえけど、ひらひらしてた。草も葉も、全部」
その〝気持ちよさ〟を、どうにか言葉にしたくて、でも足りない気がして、ユエは小枝を一本拾って弄びはじめる。
「……お前、川、行ったことある?」
問いかけてすぐ、ユエは「馬鹿だな」と笑って首を振った。
「あるわけねえよな。この辺、川ねえし」
織祀は無言だった。けれど、その無言の中に──何かがある気がした。
待っているのかもしれない。あるいは、ただそこに在るだけかもしれない。
でも、今日の沈黙は、昨日の沈黙とは違う気がした。
いや、気のせいかもしれない。
──でも。
ユエはふと、小さな声で呟いた。
「……お前さ、ほんとは俺の話、待ってたりしねえ?」
風が、香草をかすかに揺らした。
香の間の奥。白い衣が揺れることはなかったが、その香の層の奥深くで、ほんのわずかに、流れが濁ったように見えた。
ユエは、言葉を飲み込んだ。
何を期待してるんだ、と自分に呆れながらも、それでもその〝わずかな濁り〟を無視できなかった。
「……ま、いいけどさ」
ユエは枝をそっと地面に置き、膝に手をついて立ち上がる。
「明日も来るからな。聞いてようが聞いてまいが、俺は喋る。……勝手に、喋るから」
香の間からは、最後まで何の返事もなかった。
けれどその沈黙は、どこか、やわらかくなっていたような気がした。
ユエは、森の小路を引き返していった。
夜露が深くなり、彼の足音はすぐに闇に溶けて消えた。
香の間には、変わらず、ただ香が漂っていた。
その中で、織祀はじっと、目を閉じていた。
──語りが、降ってくるのを、待つように。





