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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
16/25

12:ことばを待つ

 森の夜は、昼よりも静かで、深かった。


 木々はその輪郭を闇の中に溶け込ませ、地を這う風だけがかすかに枝を揺らしている。

 小路に沿って植えられた香草が、夜露を含んでひそやかに香を放っていた。


 ユエは、その香に包まれながら、慣れた足取りで小道を進んでいた。

 香の間──香構文を絶やさぬために整えられた、森殿の中でもとりわけ隔絶された空間。

 その格子の外に立ち、ただ、彼は話すために来ていた。


 香の間の中には、今日もあの白い影があった。

 小さな身体をまっすぐに座らせ、香の中心に鎮まっている。

 動かない。反応もない。ただ、そこに〝いる〟。


 ──ここ数日、ずっとこんな調子だった。


 あの日、ほんの少し喋って、笑って。その直後に、連れていかれて。

 そこから、織祀しきは一言も発しなくなった。


 それでも、ユエは毎晩ここに来ている。

 返事がなくても、頷きひとつ寄越されなくても。

 もう喋ってくれないかもしれないと思いながらも、いや、思うからこそ、足が向いてしまう。


 ユエは、少しだけ立ち止まって息を整えると、格子のすぐ外にしゃがみ込んだ。


「……なあ、シキ。今日、鳥がやかましかったんだ。朝っぱらからさ、何羽も。おかげで目ぇ覚めた」


 織祀は、応えない。


「なんか、いつもより高いとこに集まってて。俺が下くぐったら、頭の上で羽ばたいてよ。まったく、森ん中で寝てる意味ねえっての」


 いつものことだった。

 織祀が応えることは、ない。

 だけど──だからこそ、こうして来る意味があるような気もした。


「……でな、昼になったら今度は木の実が降ってきて。鳥が食い散らかしたんだろうな。甘いやつ。ちょっと拾ってみた。……まあまあだったぜ」


 くすっと笑う。


「リィノの実って言うんだけどさ。食べごろになった途端に鳥が持ってっちまう。甘くて美味いのにいっつも出遅れるんだよ。……お前、食ったことある?」


 ふと、言葉が空に浮いた。

 香の間の中で、織祀は少しも動かない。白い香衣が、香の層をまとって沈黙を保っている。

 そのあまりに静かな姿に、ユエは一瞬、自分の声が滑って消えたような錯覚を覚える。

 それでも彼は続けた。


「そんでさ、午後はちょっと出てみた。川の方。風がすげえ気持ちよくてさ、なんか……うまく言えねえけど、ひらひらしてた。草も葉も、全部」


 その〝気持ちよさ〟を、どうにか言葉にしたくて、でも足りない気がして、ユエは小枝を一本拾って弄びはじめる。


「……お前、川、行ったことある?」


 問いかけてすぐ、ユエは「馬鹿だな」と笑って首を振った。


「あるわけねえよな。この辺、川ねえし」


 織祀は無言だった。けれど、その無言の中に──何かがある気がした。

 待っているのかもしれない。あるいは、ただそこに在るだけかもしれない。


 でも、今日の沈黙は、昨日の沈黙とは違う気がした。

 いや、気のせいかもしれない。

 ──でも。


 ユエはふと、小さな声で呟いた。


「……お前さ、ほんとは俺の話、待ってたりしねえ?」


 風が、香草をかすかに揺らした。

 香の間の奥。白い衣が揺れることはなかったが、その香の層の奥深くで、ほんのわずかに、流れが濁ったように見えた。


 ユエは、言葉を飲み込んだ。

 何を期待してるんだ、と自分に呆れながらも、それでもその〝わずかな濁り〟を無視できなかった。


「……ま、いいけどさ」


 ユエは枝をそっと地面に置き、膝に手をついて立ち上がる。


「明日も来るからな。聞いてようが聞いてまいが、俺は喋る。……勝手に、喋るから」


 香の間からは、最後まで何の返事もなかった。

 けれどその沈黙は、どこか、やわらかくなっていたような気がした。



 ユエは、森の小路を引き返していった。

 夜露が深くなり、彼の足音はすぐに闇に溶けて消えた。

 香の間には、変わらず、ただ香が漂っていた。


 その中で、織祀はじっと、目を閉じていた。

 ──語りが、降ってくるのを、待つように。

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