11:ゆれはじめる
夜の香の間には、昼の静けさとはまた違う種類の沈黙があった。
風も音も遠く、香はただ穏やかに漂っているだけ。格子の外に立つユエの声だけが、その中にぽつりと滴り落ちた。
「……今日は、ちゃんと来てたんだな」
昨日、彼はここへ来て、誰もいない座を見て引き返した。
一昨日のあの出来事──あのとき織祀は、たしかに笑っていた。いつもと違う、確かな変化だった。
けれどそのすぐあと、足音がして、あの付き人に見つかって──無言のまま、織祀は連れていかれた。
声も上げず、ただ連れていかれる小さな背中が、ずっと頭に残っていた。
「昨日さ、お前いなかったろ? 祈祷かなんかじゃないよな……」
声に自信がなかった。
言葉の先が霧のように曖昧になっていく。
織祀は、そこにいる。ただそれだけのように、静かに座っていた。
姿勢も崩さず、目を閉じ、何も語らない。
だが、ユエの中に浮かぶのは、単なる〝いつも通り〟ではなかった。
昨日、まる一日いなかった。そして今日、戻ってきたはずなのに、反応がまるでなくなっている。
まるで、ユエが来た初日に戻ってしまったかのように、僅かな頷きや傾ぎさえもない。
「……怒られたんだよな、あれ。見てたし」
誰に言うでもない、ひとり言のような声が、香の揺らぎに吸い込まれていく。
「でもさ、お前、ちょっと笑っただけだろ? ほんの、ちょっと……」
言いながら、自分の声がひどく頼りなく聞こえた。言葉にしたことで、余計にその不条理がはっきりと浮かび上がる。
昨日の不在──怒られたというには、長すぎるような。
「……まさか、折檻とか……?」
思わず呟いたあと、自分の言葉にたじろぐ。だが、今の織祀の様子を見ていると、どうしても考えてしまう。
一昨日の織祀。今日の織祀。そのあいだに何があったのか。
──そんなこと、知る術もない。
香の間の中で、織祀は香とともに沈んでいた。
白い衣がふわりと揺れているようで、まるでそこだけが別の時間を生きているようだった。
「……だって今日、お前、変だろ。全然反応ないっていうか……いや、前から無反応っちゃ無反応だけどさ。でも、なんか……」
手探りだった。言葉にできる感覚ではない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。
一昨日までの〝静かさ〟と、今日の〝静けさ〟は、違う。
「なあシキ。……俺のこと、怒ってる?」
小さな格子の隙間に指をかけ、顔を寄せる。光の届かない闇の向こう、香の中で白い衣が微かに揺れていた。
そこにいるのに、まるで遠い。
「なあ……なあ、しゃべってくれよ」
織祀は、ただ座っていた。
ゆっくりと呼吸しながら、香の流れに溶け込んでいくように。ユエの声は、そこに届いているのかすら分からない。
「……だってさ、おかしいだろ、それ。ふつうにさ、誰かと話して、笑っただけじゃん。そんなの、悪いことじゃねえだろ」
沈黙。
「……いや、でも、ここってそういうとこなんだっけ。喋ったらダメ、笑ったらダメ、動いたらダメ、……だったな」
皮肉めいた言葉も、空気の奥に吸い込まれていく。
「でもさ。俺は、それ、やっぱ変だと思うんだよ」
少しだけ、声に怒りが滲んでいた。
けれど、それ以上は言わなかった。格子にかけていた手をそっと離す。
「……また来るわ。今日もお前を見れて良かった」
夜の闇へと、ユエの足音が消えていった。
織祀は、ずっと座にあった。
ユエの声は、香の中に溶けて、消えていったはずだった。それなのに──何かが、残っている。
香の流れに、わずかな〝揺れ〟がある。
音ではない、でも空間の粒子が微かに擦れ合っている。
香が揺れるというより、自分の中の何かが揺れている。そう、感じた。
『……昨日、いなかったろ?』
『まさか怒られた? ちょっと喋っただけで』
声の響きではなく、言葉のかけらだけが、内の戒に触れるように舞い戻ってくる。
静謐の間で味わった、あの〝音のない沈黙〟──あれに比べれば、今の香の間はまだ外界に開かれている。
けれど、違う。以前と、どこかが。
昨日、自分は確かに〝そこ〟にいた。音のない、息の詰まる場所。そこで、ただ沈んでいた。
けれど、戻ってきた今、何も変わらぬはずの座が、以前と違って見える。
違うのは──香か、空気か、それとも自分の内か。
(わたしは……怒ってなど……)
思っただけで言葉にはならなかった。
思った、ということ自体が逸脱に近いのかもしれなかった。
だが、そう思ってしまった。ユエの声を、ただの音ではなく〝意味〟として受け取ってしまった。
『わらってたよな?』
あの問いが、今も胸の奥に残っている。
それに答えることはできない。けれど──
──たしかに、笑っていた。
律の底をくぐるように、感覚がざわめく。
戒に触れた。逸脱していた。律は、確かに〝揺れた〟。
沈黙の中、香の流れがかすかに澱み、そしてまた、整っていった。
それでも、その〝整い〟が、ほんのわずかに以前とは違っていることを、織祀は感じてしまっていた。





