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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
15/25

11:ゆれはじめる

 夜の香の間には、昼の静けさとはまた違う種類の沈黙があった。


 風も音も遠く、香はただ穏やかに漂っているだけ。格子の外に立つユエの声だけが、その中にぽつりと滴り落ちた。


「……今日は、ちゃんと来てたんだな」


 昨日、彼はここへ来て、誰もいない座を見て引き返した。

 一昨日のあの出来事──あのとき織祀しきは、たしかに笑っていた。いつもと違う、確かな変化だった。


 けれどそのすぐあと、足音がして、あの付き人に見つかって──無言のまま、織祀は連れていかれた。

 声も上げず、ただ連れていかれる小さな背中が、ずっと頭に残っていた。


「昨日さ、お前いなかったろ? 祈祷かなんかじゃないよな……」


 声に自信がなかった。

 言葉の先が霧のように曖昧になっていく。


 織祀は、そこにいる。ただそれだけのように、静かに座っていた。

 姿勢も崩さず、目を閉じ、何も語らない。

 だが、ユエの中に浮かぶのは、単なる〝いつも通り〟ではなかった。


 昨日、まる一日いなかった。そして今日、戻ってきたはずなのに、反応がまるでなくなっている。

 まるで、ユエが来た初日に戻ってしまったかのように、僅かな頷きや傾ぎさえもない。


「……怒られたんだよな、あれ。見てたし」


 誰に言うでもない、ひとり言のような声が、香の揺らぎに吸い込まれていく。


「でもさ、お前、ちょっと笑っただけだろ? ほんの、ちょっと……」


 言いながら、自分の声がひどく頼りなく聞こえた。言葉にしたことで、余計にその不条理がはっきりと浮かび上がる。

 昨日の不在──怒られたというには、長すぎるような。


「……まさか、折檻とか……?」


 思わず呟いたあと、自分の言葉にたじろぐ。だが、今の織祀の様子を見ていると、どうしても考えてしまう。

 一昨日の織祀。今日の織祀。そのあいだに何があったのか。


 ──そんなこと、知る術もない。



 香の間の中で、織祀は香とともに沈んでいた。

 白い衣がふわりと揺れているようで、まるでそこだけが別の時間を生きているようだった。


「……だって今日、お前、変だろ。全然反応ないっていうか……いや、前から無反応っちゃ無反応だけどさ。でも、なんか……」


 手探りだった。言葉にできる感覚ではない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 一昨日までの〝静かさ〟と、今日の〝静けさ〟は、違う。


「なあシキ。……俺のこと、怒ってる?」


 小さな格子の隙間に指をかけ、顔を寄せる。光の届かない闇の向こう、香の中で白い衣が微かに揺れていた。

 そこにいるのに、まるで遠い。


「なあ……なあ、しゃべってくれよ」


 織祀は、ただ座っていた。

 ゆっくりと呼吸しながら、香の流れに溶け込んでいくように。ユエの声は、そこに届いているのかすら分からない。


「……だってさ、おかしいだろ、それ。ふつうにさ、誰かと話して、笑っただけじゃん。そんなの、悪いことじゃねえだろ」


 沈黙。


「……いや、でも、ここってそういうとこなんだっけ。喋ったらダメ、笑ったらダメ、動いたらダメ、……だったな」


 皮肉めいた言葉も、空気の奥に吸い込まれていく。


「でもさ。俺は、それ、やっぱ変だと思うんだよ」


 少しだけ、声に怒りが滲んでいた。

 けれど、それ以上は言わなかった。格子にかけていた手をそっと離す。


「……また来るわ。今日もお前を見れて良かった」


 夜の闇へと、ユエの足音が消えていった。



 織祀は、ずっと座にあった。

 ユエの声は、香の中に溶けて、消えていったはずだった。それなのに──何かが、残っている。


 香の流れに、わずかな〝揺れ〟がある。

 音ではない、でも空間の粒子が微かに擦れ合っている。

 香が揺れるというより、自分の中の何かが揺れている。そう、感じた。


『……昨日、いなかったろ?』

『まさか怒られた? ちょっと喋っただけで』


 声の響きではなく、言葉のかけらだけが、内の戒に触れるように舞い戻ってくる。

 静謐の間で味わった、あの〝音のない沈黙〟──あれに比べれば、今の香の間はまだ外界に開かれている。

 けれど、違う。以前と、どこかが。


 昨日、自分は確かに〝そこ〟にいた。音のない、息の詰まる場所。そこで、ただ沈んでいた。

 けれど、戻ってきた今、何も変わらぬはずの座が、以前と違って見える。


 違うのは──香か、空気か、それとも自分の内か。


(わたしは……怒ってなど……)


 思っただけで言葉にはならなかった。

 思った、ということ自体が逸脱に近いのかもしれなかった。

 だが、そう思ってしまった。ユエの声を、ただの音ではなく〝意味〟として受け取ってしまった。


『わらってたよな?』


 あの問いが、今も胸の奥に残っている。

 それに答えることはできない。けれど──


 ──たしかに、笑っていた。


 律の底をくぐるように、感覚がざわめく。


 戒に触れた。逸脱していた。律は、確かに〝揺れた〟。


 沈黙の中、香の流れがかすかに澱み、そしてまた、整っていった。

 それでも、その〝整い〟が、ほんのわずかに以前とは違っていることを、織祀は感じてしまっていた。

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