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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
14/25

10:沈む

 香の間を出たとき、風はまだ、やわらかかった。


 足音は、前を行く付き人のものと、織祀しき自身のそれとで、二つ。

 けれど、織祀のそれは、何かのかたちをなしてはいない。

 手を引かれているというだけで、自ら歩いたわけではない──そう、言葉にすれば、そうなのだけれど。


 けれど、自身の指先が、ほんの少しだけ震えていることを、彼は知っていた。


 何も告げられなかった。

 背を向けたままの付き人は、決して命じることはなかった。

 それでも、彼は、知っていた。


 この向かう先に、どんな香が焚かれているかを。どのような沈黙が待ち受けているかを。

 そして、それが、自身の戒からの〝逸れ〟によるものであるということを。


 ──「笑った」から。

 ──「呼んだ」から。


 思い出したのは、二つぶん遅れて聞こえた足音だった。

 あのとき、香の間に満ちていた香層のゆらぎ。

 本来なら、もっと早く気づいていたはずの足取りの重さ。


 衣擦れ。

 香の乱れ。


 それらすべてが、彼の耳をすり抜けていた。


 ……気づかなかったのは、きっと、ユエの声が、近すぎたからだ。

 ただ音としてではない、輪郭をもった語りが、彼の耳を、律を、心を占めていたからだ。


 今さらながら、その遅れに気づいたこと自体が、胸を浅く締めつけた。

 もし、あのとき律の座に忠実であったなら、あれほど長く語ることも、笑うこともなかったはずだ。


 逸れていた。

 確かに、自分は、逸れていたのだ。


 香の層に残された声の記憶が、まだ胸の奥で揺れていた。

 掬い上げることはできない。それは律を歪ませるものだから。


 けれど、ただ胸に置いておくことまでをも、律は禁じていただろうか。



 扉の前で、彼らは立ち止まった。

 その向こうにあるものを、織祀は知っていた。


 律を乱したとき、器は〝沈められる〟。


 それは罰ではない。

 音を奪われ、香を奪われ、波のない構文の底に置かれること。

 沈黙のまま、律が〝戻ってくる〟のを待つこと。


 律とは、そうして整えられるものだった。

 織祀は、そう教わってきた。



 ***



 廊の奥、扉の前で、足が止まった。


 その瞬間だった。風の通りが変わったのを、織祀は確かに感じた。

 皮膚の表面を、見えない膜のようなものが撫でてゆく。

 空気が凪ぎ、時間が一拍、後ろに引かれる。


 香が、沈んでいた。

 揺れず、漂わず、ただその場に重く留まっている。


 鼻先ではなく、皮膚の下に沁みてくるようなもの。

 その香の名を、彼の身体は覚えている。


 幽柏香ゆうはくこう

 この香が満ちているとき、律は語らず、器は音を持たない。


 何も言われないまま、付き人の手がそっと離された。温もりがひとつ分、引いていく。

 彼はそれで理解した。ここから先は、自分の領域──戒と器、その只中に置かれるのだと。


 再び触れた別の手が、微かに力を込める。促されるまま、一歩を踏み出す。


 音が、変わった。それは聴こえない変化だった。

 音が〝減る〟のではない。壁が、空間そのものが、音を喰んでいる。

 発された響きを即座に吸い取り、反響すら生まれない。

 足音の輪郭が曖昧になっていく。彼の周囲から、音の記憶が次第に剥がれていく。


 そして、扉が、開いた。


 重い音が空気を割った。

 それは、世界に残された最後の音のようだった。

 その向こうから流れ出す気配は、深く、沈んでいた。空気そのものが、引かれている。内へ、底へと、吸い寄せられるような圧。


 織祀の身体が、一瞬、浮かなくなった。足元の感覚が宙に溶けていく。


 それは律の拒絶ではなかった。

 律すらも触れ得ぬ空白──音も香も律も届かぬ、構文の外側に置かれるという予感。


 彼は顔を上げる。

 見るためではない。

 ただ、その空間を、器として迎えるために。


 足を踏み入れた。

 音は鳴らなかった。

 空気も、動かなかった。


 その背後で、扉がゆっくりと閉じていく。

 ふいに風が引かれる。皮膚をかすめたのは、音ではない何か──世界が、自分を切り離すときに立てる、無音の合図だった。


 織祀は、何も言わなかった。

 律を持たぬ空間に、ただ在るために、声を捨てた。

 音が終わるその直前、彼の中にあったのは、わずかな震えだけだった。


 空間の内側に、一歩、また一歩と進まされる。

 しかし、そこに何があるのか、彼には分からない。


 音がない。

 反響がない。

 壁も、柱も、広ささえも、何ひとつ、感覚に返ってこない。


 織祀の手を取ったまま、付き人はその歩幅を整えていた。左右の揺れはなく、床のわずかな傾斜すらも計算されているようだった。

 進むごとに、香がより深く、皮膚の内側へと沈んでゆく。



 やがて、立ち止まった。

 何の合図もない。ただ、動きが止まり、空気がひとつ沈黙したことで彼は悟る。

 座の場所が、ここなのだと。


 手が離れ、代わりにその手が、そっと肩へと触れる。

 押すのでも、導くのでもない。

 軽く、そこに在るだけの重み。


 織祀は、膝を折る。

 静かに、律の作法に則って。


 背筋を立て、両の手を膝の上に置く。

 姿勢を整え、深く、ひとつ息を吐いた。


 付き人の気配が、後ろへと引いていく。

 その足音すらも、ここでは響かない。


 やがて、完全な静寂が、彼を包んだ。



 ***



 静寂が満ちていた。


 扉が閉ざされたあと、空間は世界から切り離された。

 外の風はもう届かない。

 香は沈み、空気は重く、響きのかけらすら残されていない。


 それは、静けさではなかった。

 音がない、ということが、ひとつの〝力〟として彼にのしかかっていた。


 耳は開かれている。呼吸はしている。けれど──何も返ってこない。

 吸ったはずの空気が、どこを通ったのかすら分からない。

 鼓膜は働いているのに、世界がそれを無視している。


 音が消えるとは、ただの沈黙ではない。

 それは、世界の消失であり、構文の不在であり、律からの隔絶だった。


 彼は座していた。

 香の間で何度も繰り返した所作と、まったく同じ。膝を折り、背筋を伸ばし、呼吸を整え、ただ在るという〝姿勢〟だけで律を通す──はずのもの。

 けれど、ここでは何も通らない。


 床の輪郭が曖昧になってゆく。背を支えていた重みが、どこかへと薄れていく。五感が、皮膚の境界ごと剥がれはじめる。

 空間に〝触れられない〟ということが、彼の意識をゆっくりと侵していく。


 そしてその沈殿の中で、ひとつ、浮かび上がってきたものがあった。


 ──名を、呼んだ。

 ──わたしは……。

 ──わらって、しまったのだ。

 ──声が、届いた。

 ──それが、たのしい──と。


 断片だった。

 幽柏樹ゆうはくじゅの香は、濃く焚かれるほどに織祀の思考を奪っていく。

 意識は沈み、浮き上がってくるそれは言葉というには不明瞭で、記憶というには強すぎた。


 けれど、それは間違いなく〝響き〟だった。

 この静謐の底で、ただ彼の内からだけ発された音だった。


 ユエの声が、そこにあった。

 あの朗らかな気配が、まだ胸の奥で脈打っていた。


 名を呼んだときの舌の動き。

 笑ってしまったときの胸の揺れ。

 禁じられていたはずのそれらが、沈まなかった。


 語ってはいけない。

 けれど、語ってしまった何かが、今も律の外縁を漂っている。


 織祀は、抵抗しなかった。それらを排除しようとは思わなかった。

 ただ、沈めていった。呼吸とともに、律の座に、自らを戻していった。


 森は乱れていない。香も、風も、整っていた。

 けれど、構文の底に沈んだその感覚は、どこか柔らかく、触れるとわずかに揺れるような、不確かな律だった。


 静寂の中で、彼の中にあったのは、消えなかった音のかけらだけだった。



 ***



 沈黙の奥で、波が静かに引いていく。


 時間の流れは感じられない。ただ、身体にまとわりついていた〝何か〟が、少しずつほどけていくのを、彼の皮膚が覚えていた。


 冷たさが、抜けていく。圧のように沈んでいた空気が、わずかに緩む。

 外の音は戻っていない。香の流れも感知されない。

 けれど、それでも、そこにある空気が穏やかであることを、彼は理解していた。


 ──律が、戻ってくる。


 それは、律の音が聴こえたわけでも、構文が発されたわけでもなかった。

 ただ、空間に〝整い〟が戻った。


 座の位置に、律の座標が重なりはじめているのを、身体が覚えていた。

 背に通る線が、まっすぐに立ち上がってゆく。息が、深くなってゆく。

 けれど、そこには、わずかな〝違和〟があった。以前の律と、まったく同じではない。


 織祀には、その違いを言葉にすることはできなかった。

 ただ、律は柔らかくなっていた。

 ひとつぶん、沈まなかった何かを孕んだまま、律が〝座〟に定着しようとしていた。


 彼は、それを受け入れた。

 拒絶もせず、疑問も持たず。

 ただ、それが律であると、世界がそう在れとしているのだと、静かにうけがった。


 静寂が、静けさになった。

 沈黙の底に、あたたかな余白があった。

 音が消えたあとにも、何かが──沈まずに、そこにいた。


 名を与えることもできず、意味を織ることもできず、ただ、〝在る〟というだけで、ひとつの音だった。


 その音を、織祀は語らなかった。

 それは語ってはならぬものだった。

 けれど、それでもなお、音は確かに、そこにあった。


 そして、律は、またひとつ、整っていた。

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