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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
22/25

18:さわれる世界

 森の夜は静かだった。

 香の間を抜けて、回廊に出る。月の光が高く、建物の縁を細く照らしていた。


 ユエは、織祀しきの手を引いていた。

 その手は小さく、冷えていて、けれど──かすかに、指を握り返すような力があった。


 香の間から回廊を通り、東の格子窓へ。それは距離にして数十歩もない。ユエが先ほど、軽快な足取りで数秒でたどり着いた距離だ。

 けれど、織祀にとっては、ひとつひとつが〝はじめての一歩〟だった。


 板張りの床。風の流れ。外壁に響く夜鳥の音。足を出すごとに、織祀は立ち止まりそうになる。

 音を聞き、足の裏で確かめ、空間の位置を、ひとつずつ再構築しているのだ。


 それは、いつものように定位を放棄して、ただ引かれてゆく歩みではなかった。織祀は今、他者に委ねるのではなく、自らの足で、律と空間を探っていた。

 ユエは口をつぐんだ。言葉はかけない。ただ、手を離さずに歩き続ける。


 織祀は、終始黙っていた。余裕がないのだろう。息さえも、静かに押し殺しているようだった。


 格子の前に来ると、ユエは一度手を離し、しゃがみ込んだ。

 さっき、自分が入ってくる時に緩めた格子。自分は隙間から身体をねじ込んだが、織祀を外に出すならそういう訳にもいかない。


 格子の接ぎ目に手をかけ、静かに持ち上げて、横に滑らせる。地面に、わずかな音を立ててそれを立てかけた。

 織祀が少しだけ身を引いたのを見て、ユエはそっと囁いた。


「……やっぱ、怖いか?」


 暫くの沈黙。

 けれど織祀は自分の意志で、再び手を取ってきた。


 外された格子窓から子供二人が外に出るのは容易かった。建物の外壁に沿って伸びる、小さな森の小径へと足を踏み入れる。

 虫の声ももうすっかり絶えて、しんと冷えた森は静かに冬支度をしていた。


「ここ、外壁の裏」


 ユエは囁くように言った。


「森殿の裏手ってことになってるけど、誰も来ない。……ま、だから俺が毎晩来れてるんだけどな」

「もう少しで、木のそば。草もある。……滑るから気をつけてな」


 織祀は黙ってうなずいた。

 

 足元には、わずかに湿った土と根の張り出した古い石畳。

 素足で地を踏むこと自体は、祈祷の巡行の時にも行っている。知っているはずなのに、今は──ひとつひとつの感触が、まるで初めて出会うもののように、織祀の足裏に刻まれていった。


 ふと、織祀がそっと手を浮かせた。壁の方に向かって、何かを探るように指先が動く。

 ユエはその動きに気づいて、少しだけ角度を変えて導いた。

 

 すると、織祀はおずおずと指をのばし、外壁の石に触れた。

 そっと、触れた。


 すぐに手を引くかと思ったが、そうではなかった。

 指先がゆっくりと石の面をなぞる。小さな段差や、石の切れ目。微細な欠け。乾いていて、どこかざらざらして、硬く冷たい。


 ユエは声をかけず、じっと見守った。織祀のその動きが、どれほど特別なことか、彼にも分かっていた。


 風が吹いた。

 夜の森を揺らす音が、壁をすり抜ける。

 風はふわりと浮いて、耳をかすめた。

 それに驚いたのか、織祀の手がぴくりと揺れる。


「こっち、もうちょっとだけ行こうか」


 ユエが声をかけると、織祀はうなずいた。



 小径の先、小さな木立の根元に草が生い茂っていた。

 その中に、ユエはひときわ柔らかそうな葉を見つける。指先でつまんで、織祀の手のひらの上にそっと乗せる。


「これ、触ってみ」


 織祀は一瞬きょとんとしていたが、次第にその葉を指で包み込むように触れた。


「……やわらかい」

「朝になったら、閉じるんだってさ。妹が言ってた。夜が一番、開いてるって」

「……音では、わかりませんでした」

「だろ?」


 織祀は、ゆっくりと葉を返しながら、小さく息を吸った。その音が、ほんのわずかに震えていた。


「……生きているのですね、この葉も」

「そりゃあ、生きてるさ。お前の足にくっついてる土の中から、栄養吸ってさ」

「……すごいことです」


 葉をそっと草の上に戻し、織祀は少しだけ佇んだ。

 ユエも隣に立ったまま、しばらく黙って空を見ていた。


 ユエが再び歩こうとしたそのとき、織祀の手が、そっと彼の指を探して重なった。


 驚いた。

 けれど、黙ってその手を握り返す。


「……付き人の手は、……布越しでしたが、もっと、つるつるしていました」

「は?」

「あなたのは、ざらざらしています。爪の周りも、少し硬くて……」

「言っとくけどそれ悪口な?」


 織祀は、少しだけ迷って──小さく首を振った。


「でも……森の匂いがします。風の音のする、素敵な手です」

「…………お前、変わってんな」


 香が、ふわりと揺れた。

 風に溶けるように漂いながら、しかし何ひとつ崩れる気配を見せなかった。

 その静けさに、ユエは不思議な感覚を覚えた──まるで、見守られているような。


「じゃあさ、もう少しだけ──」


 ユエがそう言いかけたときだった。


 ふ、と。

 織祀の身体が止まった。


 手の動きが止まり、呼吸が、張り詰める。

 ユエが驚いて振り返ると、織祀の顔はすでに、夜の方角を向いていた。


「……来ます」


 その声はかすれていたが、明瞭だった。


 数秒後。


 ユエにも、それが聞こえた。

 草を擦る足音。重くはない。

 けれど迷いのない、まっすぐな足取り。


 しかもその方向は──香の間の裏側。

 森殿の正規の回廊とは違う。


(まさか──)


 その考えが浮かぶよりも早く、足音がぴたりと止まった。

 視線を上げた先。月明かりの差す木の影のむこう。


 そこに、レフ──森殿付きの付き人頭。

 織祀に最も長く仕えている、あのレフが、立っていた。


 白衣。風にそよぐ灰髪。驚きに見開かれた目。


「……」


 声はなかった。レフはただ、立ち尽くしていた。

 その視線の先にいたのは──森の小径に、確かに〝一人で立って〟いる織祀だった。

 その事実だけで、レフの顔色がみるみるうちに青ざめていく。


 ユエは織祀の手を握り直した。

 息を、殺す。


 ──レフが動くより先に、逃げるか?

 いや、それよりも。


 レフの目が、動かない。

 まるで、信じていいのかどうかさえ分からないといったふうに。


 その沈黙の重さだけが、夜の森に染みこんでいった。

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