18:さわれる世界
森の夜は静かだった。
香の間を抜けて、回廊に出る。月の光が高く、建物の縁を細く照らしていた。
ユエは、織祀の手を引いていた。
その手は小さく、冷えていて、けれど──かすかに、指を握り返すような力があった。
香の間から回廊を通り、東の格子窓へ。それは距離にして数十歩もない。ユエが先ほど、軽快な足取りで数秒でたどり着いた距離だ。
けれど、織祀にとっては、ひとつひとつが〝はじめての一歩〟だった。
板張りの床。風の流れ。外壁に響く夜鳥の音。足を出すごとに、織祀は立ち止まりそうになる。
音を聞き、足の裏で確かめ、空間の位置を、ひとつずつ再構築しているのだ。
それは、いつものように定位を放棄して、ただ引かれてゆく歩みではなかった。織祀は今、他者に委ねるのではなく、自らの足で、律と空間を探っていた。
ユエは口をつぐんだ。言葉はかけない。ただ、手を離さずに歩き続ける。
織祀は、終始黙っていた。余裕がないのだろう。息さえも、静かに押し殺しているようだった。
格子の前に来ると、ユエは一度手を離し、しゃがみ込んだ。
さっき、自分が入ってくる時に緩めた格子。自分は隙間から身体をねじ込んだが、織祀を外に出すならそういう訳にもいかない。
格子の接ぎ目に手をかけ、静かに持ち上げて、横に滑らせる。地面に、わずかな音を立ててそれを立てかけた。
織祀が少しだけ身を引いたのを見て、ユエはそっと囁いた。
「……やっぱ、怖いか?」
暫くの沈黙。
けれど織祀は自分の意志で、再び手を取ってきた。
外された格子窓から子供二人が外に出るのは容易かった。建物の外壁に沿って伸びる、小さな森の小径へと足を踏み入れる。
虫の声ももうすっかり絶えて、しんと冷えた森は静かに冬支度をしていた。
「ここ、外壁の裏」
ユエは囁くように言った。
「森殿の裏手ってことになってるけど、誰も来ない。……ま、だから俺が毎晩来れてるんだけどな」
「もう少しで、木のそば。草もある。……滑るから気をつけてな」
織祀は黙ってうなずいた。
足元には、わずかに湿った土と根の張り出した古い石畳。
素足で地を踏むこと自体は、祈祷の巡行の時にも行っている。知っているはずなのに、今は──ひとつひとつの感触が、まるで初めて出会うもののように、織祀の足裏に刻まれていった。
ふと、織祀がそっと手を浮かせた。壁の方に向かって、何かを探るように指先が動く。
ユエはその動きに気づいて、少しだけ角度を変えて導いた。
すると、織祀はおずおずと指をのばし、外壁の石に触れた。
そっと、触れた。
すぐに手を引くかと思ったが、そうではなかった。
指先がゆっくりと石の面をなぞる。小さな段差や、石の切れ目。微細な欠け。乾いていて、どこかざらざらして、硬く冷たい。
ユエは声をかけず、じっと見守った。織祀のその動きが、どれほど特別なことか、彼にも分かっていた。
風が吹いた。
夜の森を揺らす音が、壁をすり抜ける。
風はふわりと浮いて、耳をかすめた。
それに驚いたのか、織祀の手がぴくりと揺れる。
「こっち、もうちょっとだけ行こうか」
ユエが声をかけると、織祀はうなずいた。
小径の先、小さな木立の根元に草が生い茂っていた。
その中に、ユエはひときわ柔らかそうな葉を見つける。指先でつまんで、織祀の手のひらの上にそっと乗せる。
「これ、触ってみ」
織祀は一瞬きょとんとしていたが、次第にその葉を指で包み込むように触れた。
「……やわらかい」
「朝になったら、閉じるんだってさ。妹が言ってた。夜が一番、開いてるって」
「……音では、わかりませんでした」
「だろ?」
織祀は、ゆっくりと葉を返しながら、小さく息を吸った。その音が、ほんのわずかに震えていた。
「……生きているのですね、この葉も」
「そりゃあ、生きてるさ。お前の足にくっついてる土の中から、栄養吸ってさ」
「……すごいことです」
葉をそっと草の上に戻し、織祀は少しだけ佇んだ。
ユエも隣に立ったまま、しばらく黙って空を見ていた。
ユエが再び歩こうとしたそのとき、織祀の手が、そっと彼の指を探して重なった。
驚いた。
けれど、黙ってその手を握り返す。
「……付き人の手は、……布越しでしたが、もっと、つるつるしていました」
「は?」
「あなたのは、ざらざらしています。爪の周りも、少し硬くて……」
「言っとくけどそれ悪口な?」
織祀は、少しだけ迷って──小さく首を振った。
「でも……森の匂いがします。風の音のする、素敵な手です」
「…………お前、変わってんな」
香が、ふわりと揺れた。
風に溶けるように漂いながら、しかし何ひとつ崩れる気配を見せなかった。
その静けさに、ユエは不思議な感覚を覚えた──まるで、見守られているような。
「じゃあさ、もう少しだけ──」
ユエがそう言いかけたときだった。
ふ、と。
織祀の身体が止まった。
手の動きが止まり、呼吸が、張り詰める。
ユエが驚いて振り返ると、織祀の顔はすでに、夜の方角を向いていた。
「……来ます」
その声はかすれていたが、明瞭だった。
数秒後。
ユエにも、それが聞こえた。
草を擦る足音。重くはない。
けれど迷いのない、まっすぐな足取り。
しかもその方向は──香の間の裏側。
森殿の正規の回廊とは違う。
(まさか──)
その考えが浮かぶよりも早く、足音がぴたりと止まった。
視線を上げた先。月明かりの差す木の影のむこう。
そこに、レフ──森殿付きの付き人頭。
織祀に最も長く仕えている、あのレフが、立っていた。
白衣。風にそよぐ灰髪。驚きに見開かれた目。
「……」
声はなかった。レフはただ、立ち尽くしていた。
その視線の先にいたのは──森の小径に、確かに〝一人で立って〟いる織祀だった。
その事実だけで、レフの顔色がみるみるうちに青ざめていく。
ユエは織祀の手を握り直した。
息を、殺す。
──レフが動くより先に、逃げるか?
いや、それよりも。
レフの目が、動かない。
まるで、信じていいのかどうかさえ分からないといったふうに。
その沈黙の重さだけが、夜の森に染みこんでいった。





