第9話 王都にて、静かに働く
一軒終えると、隣の家へ。
また隣の家へ。
通りを一軒ずつ回っていった。王都への道は、七日かかった。
来た時とは逆向きに走る馬車の中で、私は毎日窓の外を眺めていた。
荒野が終わり、森が終わり、村が増えていく。
村が増えるにつれて、道沿いの光景が変わっていった。
畑が枯れていた。
辺境の荒れ方とは、少し違う。
辺境は長い年月の放置による荒廃だった。
でもここは——最近まで育っていたものが、急に枯れている感じだった。
土の色が黒ずんでいる。
水路が濁っている。
道を歩く人の顔が、どこか青白い。
四日目の宿場町で、カイルが馬から降りて馬車の窓に並んだ。
「見えるか」
「はい。思ったより早い」
「瘴気の拡散が加速しているということだ」
私は土の色を眺めながら答えた。
「根が、かなり深いと思います。これだけ広い範囲に出ているということは、王都の地下全体に広がっているかもしれない」
「一人で対処できるか」
正直に答えた。
「わかりません。やってみないと」
カイルが少し黙った。
「無理だと思ったら言え」
「言います」
「本当に言えよ」
「言います」
「お前の言います、は信用係数が低い」
「失礼な」
カイルが短く笑った。
馬に戻りながら言った。
「宿場町で食料を補充する。少し待て」
待っている間、馬車の外に出た。
土に手を当ててみた。
地下水脈の汚染が、既にここまで来ていた。
王都まで、まだ三日ある。
それでもここまで届いている。
マーサが隣に来た。
「お嬢様、顔が怖いですよ」
「そうですか」
「何か悪いことがわかりましたか」
「思ったより、大変かもしれない」
マーサが少し青くなった。
「大変、というのはどのくらい……」
「でも、やれることはやります」
マーサが深呼吸した。
「……わかりました。私も手伝えることがあれば何でも言ってください」
「ありがとう、マーサ」
マーサが驚いた顔をした。
「お嬢様が素直にありがとうと言うのは珍しい」
「そうでしたか」
「王都にいた頃は、いつも一人で抱えていたから……」
マーサの声が少し詰まった。
私は彼女の肩に手を置いた。
言葉は出なかったが、それで十分だった。
王都が見えてきたのは、七日目の夕方だった。
城壁が、夕陽に赤く染まっていた。
以前は美しいと思っていた光景だった。
でも今見ると、その赤さが夕陽だけのせいではない気がした。
空気が、重い。
目には見えないが、確かに感じる。
瘴気が、城壁の中から滲み出していた。
城門をくぐると、出迎えの騎士が待っていた。
王家の紋章を胸に付けた、五人の隊列だ。
先頭の騎士が馬から降りて頭を下げた。
「エレノア・セレスティア様のお帰りをお待ちしておりました」
お帰り、という言葉が引っかかった。
ここは私が帰る場所ではない。
でも、今はそれを言う場面ではないと判断した。
「ご案内をお願いします」
案内された先は、王宮の外れにある小さな館だった。
以前住んでいた侯爵家の屋敷ではない。
王太子の婚約者だった頃に使っていた部屋もない。
簡素な、客人用の建物だ。
それで十分だと思った。
荷物を置いてすぐ、私は外へ出た。
カイルが後ろに続いた。
「休まなくていいのか」
「夕方のうちに、少し状況を確認したい」
「付き合う」
「いいんですか」
「視察だ」
相変わらずの答えだった。
二人で城下を歩いた。
道行く人の顔を見た。
店先の野菜を見た。
広場の水場の水を見た。
全部、くすんでいた。
色が薄い。
生気が薄い。
水が濁っている。
広場の端で、子供が咳をしていた。
母親が心配そうに背中をさすっている。
その母親の顔も、青白かった。
私は水場に近づいた。
手を入れた。
瘴気の層が、重なっていた。
ひとつではなく、何層にも積み重なっている。
長い年月分の澱だ。
権力の欲。
腐敗の蓄積。
見せかけの豊かさの裏に積もったもの。
「……深い」
思わず声に出た。
「どのくらいだ」
「辺境の山の戦場跡より、ずっと深い。あちらは数十年分でした。これは——何百年分もあるかもしれない」
カイルが無言でいた。
「それでもやるか」
「やります」
「一人でか」
「始めは一人です。でも——この水場だけで終わらせるつもりはありません。王都の地下水脈ごと浄化しなければ、意味がない」
カイルが眉を寄せた。
「地下水脈ごと、というのは——」
「この街の下には、大きな水の流れがあります。それ自体が汚染されています。支流を一つひとつ直しても、本流が汚れていれば戻ります。だから本流から断たなければならない」
「それは……どれくらいの規模の話だ」
「王都の地下全体、です」
長い沈黙があった。
夕暮れの広場に、人々の声が遠く聞こえた。
「お前が倒れても知らんぞ」
カイルが静かに言った。
怒った声ではなかった。
でも、何かを抑えているような声だった。
「倒れる前に言います」
「言う前に倒れるタイプだろう、お前は」
「……気をつけます」
「気をつけますも信用係数が低い」
「カイル様」
「何だ」
「帰りますから。ちゃんと帰ります」
カイルが私を見た。
夕陽が横から当たって、彼の顔に影と光が半分ずつかかっていた。
「……覚えておけよ、その言葉」
翌朝、王宮へ呼ばれた。
謁見の間ではなく、小さな応接室だった。
扉を開けると、アルノルトがいた。
三ヶ月ぶりだった。
変わっていると思った。
痩せていた。
目の下に影がある。
以前の、整った余裕のある顔つきではなかった。
そして——リリアがいなかった。
アルノルトが私を見て、立ち上がった。
「エレノア、来てくれた」
「要請がありましたので」
「……そうか」
彼が何か言いかけた。
謝罪か、言い訳か、あるいは別の何かか。
どれでも構わなかった。
私は先に言った。
「状況を教えてください。感染者数と、発生地域と、リリア様が対処した場所の一覧を」
アルノルトが少し目を見開いた。
それから、静かに書類を取り出した。
資料を受け取りながら、私は思った。
この人のことを、今は何も感じない。
怒りも、悲しみも、懐かしさも。
ただ——目の前に仕事があって、それをやる人間がここにいる。
それだけだった。
資料を読み込んでいると、アルノルトが言った。
「エレノア……戻ってきてくれないか」
顔を上げた。
「今、戻ってきています」
「そうじゃなく——婚約者として、という意味だ」
しばらく、応接室に沈黙が流れた。
窓の外で鳥が鳴いた。
私は静かに答えた。
「それはお断りします」
「なぜだ。俺が悪かった。あの時のことは——」
「アルノルト様」
遮った。
彼が口を閉じた。
「私が王都に来たのは、民を救うためです。それが終わったら、私は辺境へ帰ります。それが条件でした」
アルノルトが私を見た。
何かを言おうとして、でも言葉が出てこないようだった。
私は書類に目を戻した。
「準備ができたら、明日から始めます。疫病の発生地域から順に回ります」
それだけ言って、応接室を出た。
廊下に出ると、カイルが柱に背を預けて待っていた。
私の顔を見て、一言言った。
「どうだった」
「予定通りです」
「……そうか」
彼が壁から離れた。
並んで廊下を歩きながら、カイルが静かに言った。
「よくやった」
短い言葉だったが、それで十分だった。
王宮の廊下は長くて、天井が高くて、装飾が多かった。
辺境の修道院の石廊下とは、何もかもが違った。
でも——どちらが自分の場所かは、もうはっきりとわかっていた。




