第8話 ルカへの約束
一ヶ月が経った。
修道院は、来た当初とは別の場所のようになっていた。
畑には麦が青々と伸びている。
老神官が毎朝、草を抜きながら独り言を言っている。
その隣でルカが真似をして、間違った草を抜きそうになって叱られている。
井戸の水は澄んでいて、遠くの村からも汲みに来る人が絶えない。
孤児たちの頬に、丸みが戻ってきた。
修道院の評判は、辺境の外まで広がっていた。
ある朝、見慣れない服装の男が門の前に来た。
商人風の格好だが、荷物を持っていない。
私の顔を見るなり、手帳を取り出した。
「王都の新聞社の者です。辺境の奇跡の修道女についてお話を——」
「お断りします」
即答した。
男が目を丸くした。
「しかし読者の関心が——」
「関心は結構ですが、私の話を書いても患者の助けにはなりません。お時間があれば、荷物の運搬を手伝っていただけますか。薬草の袋が重くて」
男がぽかんとした顔をしたまま、気づいたら薬草の袋を抱えていた。
帰り際、何か書くものはないかと探しているようだったが、結局何も書かずに帰った。
マーサが苦笑いしながら見送った。
「お嬢様、ああいう方は断っても別の方法で書くと思いますよ」
「書くのは自由です。ただ、取材に応じて変な期待を持たれても困ります」
「変な期待、というのは?」
「派手な奇跡を見たいとか、光の柱が立つとか。来てがっかりされても申し訳ない」
マーサが深いため息をついた。
「お嬢様は本当に、ご自分のすごさがわかっていない」
その日の夜、カイルが急ぎ足でやってきた。
いつもより険しい顔をしていた。
食堂で向かいに座るなり、短く言った。
「王都で疫病が出た」
空気が変わった。
院長も、アンナも、手を止めた。
「規模は」
「詳細はまだ不明だが、王都近郊の三つの村で同時に発生している。リリアが対処しているが——」
カイルが言葉を選ぶように間を置いた。
「追いついていないらしい」
予想していた話だった。
でも、実際に聞くと重さが違った。
「感染の経路は水ですか」
「川と地下水の両方と聞いている。表面を浄化しても数日で戻る、の繰り返しらしい」
「やはり根が深い」
「エレノア」
カイルが私を真っ直ぐ見た。
「王都へ行くことを、考えているか」
正直に答えた。
「考えています。毎日」
「結論は」
「まだ出ていません」
カイルが腕を組んだ。
しばらく沈黙が続いた。
アンナが音を立てないようにそっと食堂を出た。
院長も、静かに席を外した。
二人になった食堂で、雨の音だけが聞こえた。
「正直に聞く」
カイルが言った。
「ここを離れたくないというのは、今も本音か」
「本音です」
「では、それだけでいいんじゃないか」
「でも——」
「行きたくない場所へ行って、行きたくない人間のために働く義理が、お前にあるか」
その言葉は、鋭かった。
でも間違っていると思った。
「義理の話ではないんです」
「じゃあ何の話だ」
「民が死んでいるとしたら、助けられる人間が助けに行くべきか、という話です。それはアルノルト様のためではなく——ただ、そこにいる人のための話です」
カイルが黙った。
長い沈黙だった。
「……そうか」
低い声だった。
「お前は、そういう人間か」
「そういう人間です。申し訳ないけれど」
カイルが少し目を細めた。
怒っているわけではなさそうだった。
ただ——何かを噛み締めているような顔だった。
「条件を出せ」
突然言われた。
「条件?」
「王都へ行くなら、条件を出せ。お前の立場で無条件に動く必要はない。向こうが頭を下げてから行け」
私は少し考えた。
確かに、条件という発想はなかった。
呼ばれれば行く、という前提で考えていた。
「……何を条件にすればいいでしょう」
「この修道院への継続的な支援。辺境への物資補給の正常化。それから——」
カイルが一瞬止まった。
「お前が戻る場所を、保障させろ」
「戻る場所」
「ここだ」
静かに、でもはっきりと言った。
「王都へ行っても、ここへ戻ることを保障させろ。終わったら帰ってこい」
胸の奥で、何かが温かくなった。
帰ってこい。
帰ってくる場所がある、と言っている。
「……わかりました」
「今度こそ本当にわかったか」
「本当にわかりました」
カイルが立ち上がった。
帰り際に言った。
「王都から正式な要請が来たら、俺も同行する」
「それは——遠くまで、申し訳ないです」
「辺境伯として、民の健康に関わる問題を視察する。問題ないだろう」
「視察、ですか」
「視察だ」
「……そうですね」
「そうだ」
足音が遠ざかった。
食堂に一人残って、冷めた茶を飲んだ。
窓の外で雨が続いている。
帰ってこい、という言葉が、耳の奥でまだ響いていた。
それから五日後。
王都から使者が来た。
馬を四頭連ねた、正式な使節だった。
王家の紋章を掲げている。
修道院の門の前で止まった使者の顔を見て、院長が素早く私を呼びに来た。
広間で向き合うと、使者は丁寧に頭を下げた。
以前の通達とは、明らかに態度が違った。
「エレノア・セレスティア様。王太子殿下より、正式なご要請でございます。王都の疫病鎮圧のため、お力をお借りしたいと」
「要請の内容を詳しく聞かせてください」
使者が書面を広げた。
聞きながら、私は頭の中で整理した。
王都近郊の三村で発生した疫病。
感染者数は既に二百人を超えている。
死者も出始めていた。
「条件があります」
使者が顔を上げた。
驚いた様子だった。
条件を出されるとは思っていなかったのだろう。
「この修道院への王家からの支援を、正式な形で確約してください。物資と資金、両方です。それから——」
私は使者をまっすぐ見た。
「王都での仕事が終わり次第、私はここへ戻ります。それを王太子殿下に承諾していただくことが条件です」
使者が少し間を置いた。
「……承諾の確認を取ってまいります」
「お願いします。返事があるまで、私はここを動きません」
使者が去った後、院長が私の隣に立った。
長い沈黙の後、静かに言った。
「強くなりましたね、エレノア様」
「そうでしょうか」
「来た頃のあなたは、何も言わずに全部引き受けていた」
私は少し考えた。
「言葉を教えてもらいました」
「誰に?」
「……いろんな人に」
院長が小さく笑った。
その笑いの意味は、聞かなかった。
使者の返事が来たのは翌日だった。
異例の速さだった。
よほど切迫しているのだろう。
条件は全て承諾、という内容だった。
出発の準備を始めると、修道院が慌ただしくなった。
アンナが必死な顔で厨房を走り回っていた。
道中の食料を用意しているらしかった。
老神官が畑の前でぶつぶつ言っていた。
内容は聞こえなかったが、声の調子は心配そうだった。
ルカが、私の部屋の前で待っていた。
扉を開けると、そこにいた。
腕を組んで、壁にもたれている。
七歳らしからぬ、渋い立ち方だった。
「……行くの」
「行ってきます。でも帰ります」
ルカが唇をきゅっと結んだ。
「絶対?」
「絶対です。約束します」
ルカがしばらく黙っていた。
それから、ぱっと私に抱きついた。
力強い抱擁だった。
七歳の腕の力とは思えなかった。
「……早く帰ってきてよ」
「はい」
「畑の麦、刈り取りの前には帰ってきてよ」
「頑張ります」
「頑張りますじゃなくて、絶対帰ってきてよ」
「……絶対帰ります」
ルカが離れた。
目が少し赤かった。
泣いていないことにして、私も泣いていないことにした。
出発の朝、カイルが修道院の門の前に馬で待っていた。
部下を三人連れている。
私の馬車が来るのを見て、馬から降りた。
「準備はいいか」
「はい」
「食料はあるか」
「アンナが三日分以上作ってくれました」
「水は」
「マーサが確認しています」
「防寒具は」
「カイル様」
「何だ」
「大丈夫です」
カイルが短く鼻を鳴らした。
それから振り返って、修道院の建物を見た。
壁のひびはまだあるが、ひと月前より確かに修繕が進んでいる。
畑の緑が、朝日の中で輝いていた。
「……ここを、王都の連中に汚させるな」
静かな言葉だった。
「はい」
「王都へ行っても、お前はお前のままでいろ」
「……はい」
「条件を忘れるな。終わったら帰ってこい」
三度、同じことを言った。
今度は黙って頷いた。
馬車が動き出した。
窓から振り返ると、院長が手を振っていた。
アンナが泣いていた。
老神官が帽子を取って頭を下げていた。
ルカが走って追いかけてきて、しばらく並走してから、止まった。
小さな姿が遠くなっていった。
王都へ向かう道は、来た時とは逆向きだった。
荒野が続いて、森が続いて、やがて人の気配が増えていく。
その変化を窓から眺めながら、私は静かに息を吸った。
行く理由は、ある。
戻る場所も、ある。
それだけで十分だと思った。




