第7話 帰る場所を、もらった日
三週間目に入った頃、王都の話が頻繁に聞こえるようになった。
辺境にも商人は来る。
旅人は来る。
噂は、水のように低い方へ流れてくる。
食堂でアンナが聞いてきた話。
老神官が市場で耳にした話。
カイルの部下が報告として持ってきた話。
内容は、だいたい同じだった。
王都近郊の村で、疫病が出始めている。
リリアが何度か浄化を行ったが、効果が続かない。
川の汚染が、また戻った。
今度は以前より範囲が広い。
アンナが眉をひそめながら言った。
「リリア様って、本物じゃないんですか」
「本物ではあります。ただ——浄化の深さが違う」
「深さ?」
「表面だけ綺麗にしても、根が残っていれば戻ります。池の藻を掬い取っても、底の養分が残っていれば、また生える。それと同じです」
アンナがしばらく考えてから言った。
「じゃあリリア様は、何度やっても同じことの繰り返しになるんですか」
「体力が続く限りは、できます。でも——」
言葉を止めた。
続きは言わなくてもいいと思った。
でも心の中では、続きがあった。
リリアが疲弊していく一方で、王都の腐敗は深まっている。
表面を清めるだけでは、追いつかなくなる日が来る。
それがいつかは、わからない。
「エレノア様」
院長が夜に部屋を訪ねてきた。
いつものお茶の時間だったが、今日は表情が少し硬かった。
私の向かいに座り、カップを両手で包んでから、静かに言った。
「また王都から文が届きました」
「今度は何でしょう」
「……王太子殿下から。エレノア様に、王都へ戻ることを検討してほしいと」
しばらく、雨の音だけが続いた。
戻る。
王都へ。
三週間前に追い出された場所へ。
「検討、という言葉を使っているということは、命令ではないのですね」
「はい。今のところは」
今のところは、という部分が重かった。
院長がカップを置いた。
「どうなさいますか」
「返事は保留にしてください。今すぐ決める必要はないはずです」
院長が頷いた。
それから少し間を置いて、言った。
「ここの子供たちが、エレノア様のことをよく話しています。ルカは毎日、お姉さんが帰ってくるまで門のところで待っています」
その話を聞いて、胸の奥が少し痛んだ。
「……そうですか」
「ここに必要とされている人間がいます。それだけは、お伝えしたかった」
院長が立ち上がった。
去り際に、一度だけ振り返った。
「おやすみなさいませ、エレノア様」
「おやすみなさい」
一人になった。
窓の外は暗い。
星も見えない夜だった。
王都のことを、考えた。
アルノルトのことを、考えた。
式典の日のことを、考えた。
あの日の拍手を、考えた。
不思議なことに——怒りは来なかった。
悲しみも、来なかった。
ただ静かに、遠いことのように感じた。
翌朝、カイルが来た。
今日も案内がある日だった。
いつもは門の前で待っているのに、今日は中まで入ってきた。
院長に挨拶をして、私を見た。
「顔色が悪い」
「そうですか」
「眠れなかったか」
否定しなかった。
カイルが少し考える顔をして、それから言った。
「今日の案内は午後からにする。午前中は休め」
「でも——」
「村の件は急ぎではない。お前が倒れる方が急ぎだ」
三度目だった。
同じことを三度言われると、さすがに返す言葉がない。
「……昨日、王都から文が来ました」
自分でも、なぜ話したのかわからなかった。
カイルが黙って聞いている。
「王太子から、戻ることを検討してほしいと」
「行くつもりか」
「わかりません。今は」
短い沈黙があった。
「行く理由は何だ」
「民が病気で苦しんでいるなら、助けられる人間が行くべきかもしれない」
「行かない理由は」
私は少し考えた。
「ここにも、助けを必要としている人がいます。途中でいなくなるのは——」
言葉が途切れた。
カイルが私を見ていた。
何かを待つような顔だった。
「……ここを離れたくない」
小さな声で言った。
自分で言って、初めてそれが本音だと気づいた。
カイルが短く鼻から息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
怒ったのかもしれない。
どちらにも聞こえた。
「ならその話は、もう少し先まで取っておけ。今決めなくていいことを、今悩むな」
「でも——」
「王都が本当に困ったら、また連絡が来る。その時に考えればいい」
「それは少し、無責任ではないですか」
「無責任じゃない。優先順位の話だ」
カイルが腕を組んだ。
「今お前が倒れたら、この修道院はどうなる。近隣の村はどうなる。カラス村のゲオルクの娘はどうなる」
一つひとつ、静かに言った。
「全部を同時に救おうとするな。今できることを、今いる場所でやれ」
その言葉が、染みた。
どこかでずっと、全部を抱えようとしていた。
王都も、辺境も、目の前の患者も、遠くの村も。
全部、自分一人で何とかしなければならないと思っていた。
「……そうですね」
「今度は素直すぎない返事だ。信用できる」
思わず笑いが出た。
カイルが立ち上がった。
「午前中は寝ろ。昼に迎えに来る」
「わかりました」
「弁当は持ってくる」
「ありがとうございます」
「今日こそちゃんと食べろよ」
「食べます」
「絶対だぞ」
「絶対です」
カイルが出ていった。
しばらくして、廊下でルカの声がした。
「カイル様! お姉さんどこにいる!?」
「部屋で休んでいる。起こすな」
「えーっ! なんで!」
「病人の診察を毎日やってる人間がどれだけ疲れるか、お前にもそのうちわかる」
「ぼくも毎日お手伝いしてるのに!」
「そうだな、お前もよくやってる」
少しの間があって、ルカの声が変わった。
「……カイル様、お姉さんのこと好き?」
今度はカイルが黙った。
廊下の沈黙が、少し長かった。
「案内役をしてもらっているからな、大事にしたい」
「それって好きってこと?」
「寝ろと言われたら寝る人間の方が少ないんだぞ」
「ごまかした」
足音が遠ざかった。
私は毛布を引き上げて、目を閉じた。
頬が、少し熱かった。
熱は出ていないはずだった。
昼にカイルが迎えに来た。
弁当は、昨日の携行食より充実していた。
焼いた鶏と、硬いパンと、チーズと、干した果物まで入っていた。
「随分豪華ですね」
「料理番に頼んだ」
「わざわざ」
「昼に食べるものを持っていくと言ったら、勝手に増やした。俺のせいじゃない」
「そうですか」
馬に乗りながら、弁当の包みを見た。
丁寧に包まれていた。
料理番が勝手に増やした、とは少し思いにくい包み方だった。
でも、何も言わなかった。
案内された集落は、今まで行った中で一番小さかった。
七軒の家が、山の裾野に肩を寄せ合うように建っている。
人口は三十人ほど。
山から流れてくる水脈が瘴気を帯びていて、それが畑と飲み水の両方に影響していた。
水脈を辿っていくと、山の中腹に原因があった。
古い戦場の跡だった。
何十年も前の戦で、多くの命が失われた場所だ。
その怨念と血が、土に深く染み込んで、瘴気の根になっていた。
「これは……」
手を当てた瞬間、重さを感じた。
単純な汚染ではなかった。
人の念が混じった瘴気は、解くのに時間がかかる。
「どうした」
カイルが後ろから声をかけた。
「古い戦場の跡があります。人の念が溜まっていて、少し時間がかかりそうです」
カイルが静かに言った。
「この山には、旧い戦の碑がある。俺が子供の頃からあった」
「ご存知だったんですか」
「知っていたが、どうすることもできなかった。聖女が来ても、近づくことすら嫌がって——」
言葉が途切れた。
「嫌がるのは、わかります。重いので」
「お前は平気なのか」
「平気ではないですが——これだけ長く放置されたのなら、もう十分待たせてしまいました」
誰に向けた言葉かは、自分でもわからなかった。
ただ、ここに眠っている人たちへの言葉だったかもしれない。
手を深く土に沈めた。
長い時間がかかった。
カイルは一度も立ち去らなかった。
ただ少し後ろに立って、黙っていた。
日が傾いてきた頃、ようやく根が解けた。
山の空気が、すっと軽くなった。
鳥の声が、どこかから聞こえてきた。
今まで聞こえていなかったのに。
立ち上がろうとして、体が重かった。
今日は少し、使いすぎた。
「エレノア」
カイルの手が、肩を支えた。
昨日の川とは逆で、今日は私が先によろけた。
「大丈夫ですよ、立てます」
「黙って掴まれ」
素直に掴まった。
彼の手は、思ったより温かかった。
山を下りながら、カイルが言った。
「弁当を食べる前に体力を使い切ったな」
「すみません」
「謝るな。弁当は下で食え」
集落の入り口に戻ると、村人たちが出てきた。
山の空気が変わったのを、皆感じたのだろう。
老いた村長が、目に涙を浮かべながら私の手を握った。
「あの山が、ずっと重かった。子供の頃から、誰も近づけなかった……」
「もう大丈夫です。あそこで眠っている方たちも、ようやく休めると思います」
村長が深く頭を下げた。
その後ろで、村の子供たちが珍しそうにカイルを見上げていた。
一人が恐る恐る言った。
「おじさん、こわい顔してるけど、泣いてる?」
カイルが素早く顔を背けた。
「砂が入っただけだ」
「砂、ないよここ」
「……帰るぞ、エレノア」
「はい」
帰り道、弁当を馬の上で広げた。
鶏の肉は冷めていたが、悪くなかった。
カイルが無言で隣を並走している。
「美味しいですね」
「そうか」
「料理番の方が上手ですね、うちの修道院より」
「今度院長に言っておく」
「言わないでください、アンナが落ち込みます」
「そうか」
また少し沈黙があった。
夕陽が荒野を赤く染めていた。
遠くに修道院の影が見えてきた。
「カイル様」
「何だ」
「今日、ありがとうございました。ずっとそこにいてくれて」
カイルがしばらく前を向いたままだった。
それから、低い声で言った。
「……礼を言うな。当たり前のことだ」
当たり前。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
王都では、誰かがそばにいることは当たり前ではなかった。
婚約者でさえ、隣にいて別の方を向いていた。
当たり前、という言葉の重さを、今になって知った気がした。




