表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「役立たずの聖女」と婚約破棄された私、辺境では一日で五百人を救ってしまいました  作者: カルラ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/11

第7話 帰る場所を、もらった日

三週間目に入った頃、王都の話が頻繁に聞こえるようになった。


辺境にも商人は来る。

旅人は来る。

噂は、水のように低い方へ流れてくる。


食堂でアンナが聞いてきた話。

老神官が市場で耳にした話。

カイルの部下が報告として持ってきた話。


内容は、だいたい同じだった。


王都近郊の村で、疫病が出始めている。

リリアが何度か浄化を行ったが、効果が続かない。

川の汚染が、また戻った。

今度は以前より範囲が広い。


アンナが眉をひそめながら言った。


 


「リリア様って、本物じゃないんですか」


 


「本物ではあります。ただ——浄化の深さが違う」


 


「深さ?」


 


「表面だけ綺麗にしても、根が残っていれば戻ります。池の藻を掬い取っても、底の養分が残っていれば、また生える。それと同じです」


 


アンナがしばらく考えてから言った。


 


「じゃあリリア様は、何度やっても同じことの繰り返しになるんですか」


 


「体力が続く限りは、できます。でも——」


 


言葉を止めた。

続きは言わなくてもいいと思った。


でも心の中では、続きがあった。

リリアが疲弊していく一方で、王都の腐敗は深まっている。

表面を清めるだけでは、追いつかなくなる日が来る。


それがいつかは、わからない。


 


「エレノア様」


 


院長が夜に部屋を訪ねてきた。

いつものお茶の時間だったが、今日は表情が少し硬かった。

私の向かいに座り、カップを両手で包んでから、静かに言った。


 


「また王都から文が届きました」


 


「今度は何でしょう」


 


「……王太子殿下から。エレノア様に、王都へ戻ることを検討してほしいと」


 


しばらく、雨の音だけが続いた。


戻る。

王都へ。

三週間前に追い出された場所へ。


 


「検討、という言葉を使っているということは、命令ではないのですね」


 


「はい。今のところは」


 


今のところは、という部分が重かった。

院長がカップを置いた。


 


「どうなさいますか」


 


「返事は保留にしてください。今すぐ決める必要はないはずです」


 


院長が頷いた。

それから少し間を置いて、言った。


 


「ここの子供たちが、エレノア様のことをよく話しています。ルカは毎日、お姉さんが帰ってくるまで門のところで待っています」


 


その話を聞いて、胸の奥が少し痛んだ。


 


「……そうですか」


 


「ここに必要とされている人間がいます。それだけは、お伝えしたかった」


 


院長が立ち上がった。

去り際に、一度だけ振り返った。


 


「おやすみなさいませ、エレノア様」


 


「おやすみなさい」


 


一人になった。

窓の外は暗い。

星も見えない夜だった。


王都のことを、考えた。

アルノルトのことを、考えた。

式典の日のことを、考えた。

あの日の拍手を、考えた。


不思議なことに——怒りは来なかった。

悲しみも、来なかった。

ただ静かに、遠いことのように感じた。


翌朝、カイルが来た。

今日も案内がある日だった。

いつもは門の前で待っているのに、今日は中まで入ってきた。

院長に挨拶をして、私を見た。


 


「顔色が悪い」


 


「そうですか」


 


「眠れなかったか」


 


否定しなかった。

カイルが少し考える顔をして、それから言った。


 


「今日の案内は午後からにする。午前中は休め」


 


「でも——」


 


「村の件は急ぎではない。お前が倒れる方が急ぎだ」


 


三度目だった。

同じことを三度言われると、さすがに返す言葉がない。


 


「……昨日、王都から文が来ました」


 


自分でも、なぜ話したのかわからなかった。

カイルが黙って聞いている。


 


「王太子から、戻ることを検討してほしいと」


 


「行くつもりか」


 


「わかりません。今は」


 


短い沈黙があった。


 


「行く理由は何だ」


 


「民が病気で苦しんでいるなら、助けられる人間が行くべきかもしれない」


 


「行かない理由は」


 


私は少し考えた。


 


「ここにも、助けを必要としている人がいます。途中でいなくなるのは——」


 


言葉が途切れた。

カイルが私を見ていた。

何かを待つような顔だった。


 


「……ここを離れたくない」


 


小さな声で言った。

自分で言って、初めてそれが本音だと気づいた。


カイルが短く鼻から息を吐いた。

笑ったのかもしれない。

怒ったのかもしれない。

どちらにも聞こえた。


 


「ならその話は、もう少し先まで取っておけ。今決めなくていいことを、今悩むな」


 


「でも——」


 


「王都が本当に困ったら、また連絡が来る。その時に考えればいい」


 


「それは少し、無責任ではないですか」


 


「無責任じゃない。優先順位の話だ」


 


カイルが腕を組んだ。


 


「今お前が倒れたら、この修道院はどうなる。近隣の村はどうなる。カラス村のゲオルクの娘はどうなる」


 


一つひとつ、静かに言った。


 


「全部を同時に救おうとするな。今できることを、今いる場所でやれ」


 


その言葉が、染みた。

どこかでずっと、全部を抱えようとしていた。

王都も、辺境も、目の前の患者も、遠くの村も。

全部、自分一人で何とかしなければならないと思っていた。


 


「……そうですね」


 


「今度は素直すぎない返事だ。信用できる」


 


思わず笑いが出た。

カイルが立ち上がった。


 


「午前中は寝ろ。昼に迎えに来る」


 


「わかりました」


 


「弁当は持ってくる」


 


「ありがとうございます」


 


「今日こそちゃんと食べろよ」


 


「食べます」


 


「絶対だぞ」


 


「絶対です」


 


カイルが出ていった。

しばらくして、廊下でルカの声がした。


 


「カイル様! お姉さんどこにいる!?」


 


「部屋で休んでいる。起こすな」


 


「えーっ! なんで!」


 


「病人の診察を毎日やってる人間がどれだけ疲れるか、お前にもそのうちわかる」


 


「ぼくも毎日お手伝いしてるのに!」


 


「そうだな、お前もよくやってる」


 


少しの間があって、ルカの声が変わった。


 


「……カイル様、お姉さんのこと好き?」


 


今度はカイルが黙った。

廊下の沈黙が、少し長かった。


 


「案内役をしてもらっているからな、大事にしたい」


 


「それって好きってこと?」


 


「寝ろと言われたら寝る人間の方が少ないんだぞ」


 


「ごまかした」


 


足音が遠ざかった。

私は毛布を引き上げて、目を閉じた。

頬が、少し熱かった。

熱は出ていないはずだった。


昼にカイルが迎えに来た。

弁当は、昨日の携行食より充実していた。

焼いた鶏と、硬いパンと、チーズと、干した果物まで入っていた。


 


「随分豪華ですね」


 


「料理番に頼んだ」


 


「わざわざ」


 


「昼に食べるものを持っていくと言ったら、勝手に増やした。俺のせいじゃない」


 


「そうですか」


 


馬に乗りながら、弁当の包みを見た。

丁寧に包まれていた。

料理番が勝手に増やした、とは少し思いにくい包み方だった。

でも、何も言わなかった。


案内された集落は、今まで行った中で一番小さかった。

七軒の家が、山の裾野に肩を寄せ合うように建っている。

人口は三十人ほど。

山から流れてくる水脈が瘴気を帯びていて、それが畑と飲み水の両方に影響していた。


水脈を辿っていくと、山の中腹に原因があった。

古い戦場の跡だった。

何十年も前の戦で、多くの命が失われた場所だ。

その怨念と血が、土に深く染み込んで、瘴気の根になっていた。


 


「これは……」


 


手を当てた瞬間、重さを感じた。

単純な汚染ではなかった。

人の念が混じった瘴気は、解くのに時間がかかる。


 


「どうした」


 


カイルが後ろから声をかけた。


 


「古い戦場の跡があります。人の念が溜まっていて、少し時間がかかりそうです」


 


カイルが静かに言った。


 


「この山には、旧い戦の碑がある。俺が子供の頃からあった」


 


「ご存知だったんですか」


 


「知っていたが、どうすることもできなかった。聖女が来ても、近づくことすら嫌がって——」


 


言葉が途切れた。


 


「嫌がるのは、わかります。重いので」


 


「お前は平気なのか」


 


「平気ではないですが——これだけ長く放置されたのなら、もう十分待たせてしまいました」


 


誰に向けた言葉かは、自分でもわからなかった。

ただ、ここに眠っている人たちへの言葉だったかもしれない。


手を深く土に沈めた。

長い時間がかかった。

カイルは一度も立ち去らなかった。

ただ少し後ろに立って、黙っていた。


日が傾いてきた頃、ようやく根が解けた。

山の空気が、すっと軽くなった。

鳥の声が、どこかから聞こえてきた。

今まで聞こえていなかったのに。


立ち上がろうとして、体が重かった。

今日は少し、使いすぎた。


 


「エレノア」


 


カイルの手が、肩を支えた。

昨日の川とは逆で、今日は私が先によろけた。


 


「大丈夫ですよ、立てます」


 


「黙って掴まれ」


 


素直に掴まった。

彼の手は、思ったより温かかった。


山を下りながら、カイルが言った。


 


「弁当を食べる前に体力を使い切ったな」


 


「すみません」


 


「謝るな。弁当は下で食え」


 


集落の入り口に戻ると、村人たちが出てきた。

山の空気が変わったのを、皆感じたのだろう。

老いた村長が、目に涙を浮かべながら私の手を握った。


 


「あの山が、ずっと重かった。子供の頃から、誰も近づけなかった……」


 


「もう大丈夫です。あそこで眠っている方たちも、ようやく休めると思います」


 


村長が深く頭を下げた。

その後ろで、村の子供たちが珍しそうにカイルを見上げていた。

一人が恐る恐る言った。


 


「おじさん、こわい顔してるけど、泣いてる?」


 


カイルが素早く顔を背けた。


 


「砂が入っただけだ」


 


「砂、ないよここ」


 


「……帰るぞ、エレノア」


 


「はい」


 


帰り道、弁当を馬の上で広げた。

鶏の肉は冷めていたが、悪くなかった。

カイルが無言で隣を並走している。


 


「美味しいですね」


 


「そうか」


 


「料理番の方が上手ですね、うちの修道院より」


 


「今度院長に言っておく」


 


「言わないでください、アンナが落ち込みます」


 


「そうか」


 


また少し沈黙があった。

夕陽が荒野を赤く染めていた。

遠くに修道院の影が見えてきた。


 


「カイル様」


 


「何だ」


 


「今日、ありがとうございました。ずっとそこにいてくれて」


 


カイルがしばらく前を向いたままだった。

それから、低い声で言った。


 


「……礼を言うな。当たり前のことだ」


 


当たり前。

その言葉が、静かに胸に落ちた。

王都では、誰かがそばにいることは当たり前ではなかった。

婚約者でさえ、隣にいて別の方を向いていた。


当たり前、という言葉の重さを、今になって知った気がした。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ