第6話 古い戦場に降りる祈り
二週間が経った頃、修道院が変わっていた。
目に見える変化と、目に見えない変化がある。
目に見える方から言えば——まず畑だ。
種を植えて十日で、膝の高さまで芽が伸びた。
老神官が毎朝水をやりながら、嬉しそうに独り言を言っている。
井戸の水は透き通ったままで、今では近隣の村からも汲みに来る人がいる。
孤児たちの顔色が、来た当初とは別人のように明るくなった。
ルカは毎日のように患者の案内役を買って出て、すっかり頼もしくなっていた。
目に見えない変化は、人の空気だ。
修道女たちの顔から、疲弊の色が薄れた。
笑い声が聞こえるようになった。
院長が夜に私の部屋へ来て、お茶を飲みながら話すことが増えた。
そんなある夜のことだった。
院長が湯気の立つカップを両手で包みながら、静かに言った。
「王都から文が届きました」
私はカップを持つ手を止めた。
「内容は」
「王太子殿下から……エレノア様の近況を問うものでした」
予想はしていなかった。
でも、驚きも薄かった。
「何か問題が起きているのでしょうか」
院長が少し間を置いた。
「……リリア様が浄化した川が、再び汚染されたと。王都近郊の村で、病人が出始めているそうです」
静かな夜に、雨の音が混じった。
窓の外、細い雨が降り始めていた。
予想通りだった。
リリアの浄化は表面だけだ。
光を当てて、汚れを覆い隠す。
根を断たなければ、また同じことが起きる。
そう思っていた。
「返事はどうされますか」
「近況は問題ない、とだけ伝えてください」
院長が頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
賢い人だと、改めて思った。
翌朝、カイルが来た。
今日は東の集落への案内があるはずだった。
門の前で馬に乗った彼と向き合う。
「王都から文が来たか」
挨拶より先にそれを言った。
私は少し驚いて、彼を見上げた。
「ご存知でしたか」
「辺境伯への報告もあった。王都近郊の水源汚染だ。リリアとかいう聖女が浄化したはずが、三日で戻ったらしい」
「……三日ですか」
思ったより早かった。
私の場合、根を断ってから戻ったことはない。
三日ということは、よほど浅い浄化だったのだろう。
「お前ならどうする」
唐突な問いだった。
「王都の汚染、という意味ですか」
「そうだ」
馬の上から、カイルがこちらを見ている。
試しているわけではなさそうだった。
ただ純粋に、聞いている顔だ。
「川や土の瘴気は、土地の問題だけではありません。人の影響を受けます」
「人の?」
「欲望や腐敗が積み重なると、土地に滲み出します。王都は人口も密度も高い。貴族の屋敷が集まり、権力が集まり——長い年月の澱が、地下に溜まっているはずです」
カイルが無言でいた。
「表面を浄化しても、根が深いと意味がない。でも根を断つには、土地だけでなく——そこに生きる人の在り方が変わらないと、難しい」
「難しい、では済まない話になりそうだな」
「なりそうです」
短い沈黙の後、カイルが馬を進めた。
「行くぞ。話の続きは道中でいい」
東の集落は、修道院から馬で二時間ほどの場所だった。
川沿いの小さな村で、農家が十五軒ほど集まっている。
問題は川の上流に捨てられた廃棄物から来る汚染で、加えて土地の瘴気が重なっていた。
川を浄化しながら、カイルが後ろに立っていた。
部下たちは少し離れた場所にいる。
「お前は怖くないのか」
突然言われた。
「何がですか」
「この辺境に、一人でいることが。王都から厄介払いされて、頼れる者もなく」
水の流れに意識を向けながら、考えた。
「一人ではないですよ」
「院長や修道女たちか」
「マーサもいます。アンナも。ルカも。老神官様も」
「……それは、来てから作った繋がりだ」
「繋がりに、来る前か後かは関係ないと思います」
また沈黙があった。
川の水が、少しずつ澄んでいく。
「俺も似たようなものだ」
カイルが、独り言のように言った。
「戦争から戻ったら、変わっていた。いた人間がいなくなっていたり、信用していた者が変わっていたり」
私は手を動かしながら、黙って聞いた。
「だから聖女を信用していなかった。派手な奇跡で民を惑わすものだと思っていた」
「今も?」
少し間があった。
「今は……わからん」
わからん、と言いながら、その声の調子は最初に会った日とは違った。
硬さが、少し取れている。
川の浄化を終えて立ち上がると、カイルが手を差し伸べた。
膝が少し痛んでいたのを、見ていたのだろう。
素直に掴んだ。
「ありがとうございます」
「重労働だろう、これは」
「慣れています」
「慣れるな」
また同じパターンだった。
思わず笑いが漏れた。
カイルが少し不思議そうな顔をした。
「何がおかしい」
「カイル様はいつも、私が自分を後回しにすることを怒るんだなと思って」
「当たり前だろう」
「王都では誰も怒りませんでした」
その言葉が出たのは、意図していなかった。
口から先に出た言葉だった。
カイルが私を見た。
「……そうか」
短い答えだったが、何か含んでいた。
それ以上は聞かなかった。
村の病人を診て、帰り道についた。
夕陽が荒野を橙色に染めていた。
馬の蹄の音が一定のリズムで続いている。
カイルの部下たちが少し前を行き、私たちは少し後ろを並んで進んだ。
「エレノア」
名前を呼ばれた。
殿下以外に名前を呼ばれることが、最近増えた。
院長も、アンナも、ルカも、私をエレノアと呼ぶ。
でもカイルに呼ばれたのは初めてだった。
「はい」
「明後日、また別の集落へ案内したい。ただし——」
彼が前を向いたまま言った。
「今度は昼の弁当を持参する。途中で食べろ。断るな」
命令口調だったが、何かが違った。
命令のふりをした、別の何かだった。
「……わかりました」
「返事が素直すぎて逆に疑わしい」
「本当に行きますよ」
「行くだけで食べないパターンを警戒している」
「食べます。ちゃんと」
カイルが短く鼻を鳴らした。
怒っているわけではないとわかる音だった。
修道院が見えてきた頃、門の前に人が集まっていた。
帰りを待っていた人たちだ。
遠くの村から今日来た人たちで、診察を待っていたのだろう。
馬から降りながら、カイルが小さな声で言った。
「……本当に、放っておけない人間だな」
聞こえていたが、聞こえなかったふりをした。
そういう言葉は、聞こえなかったふりをした方がいい気がした。
「お待たせしました。中へどうぞ」
待っていた人たちに声をかけると、ほっとしたような顔が並んだ。
その中に、見覚えのある顔があった。
カラス村のゲオルクだった。
今日は娘を連れていた。
小さな女の子が、父親の手を握って立っている。
「先日は本当にありがとうございました。娘がどうしても、直接お礼を言いたいと」
女の子が私を見て、頬を赤らめながら言った。
「……ありがとうございました」
「どういたしまして。もう体は大丈夫ですか」
女の子が大きく頷いた。
「走れるようになりました」
「それはよかった」
女の子がもじもじしながら、手に持っていた何かを差し出した。
野の花を束ねたものだった。
不格好だったが、丁寧に結んであった。
「これ……お姉ちゃんに」
受け取ると、花の匂いがした。
この辺境の荒野に、こんな花が咲いているとは知らなかった。
小さな、白い花だった。
「ありがとう。部屋に飾ります」
女の子が、ぱっと笑った。
その顔が、眩しかった。
後ろでカイルが何かを言った気がした。
振り返ると、彼は黙って馬に乗っていた。
でも——耳が、少し赤かった。
気づかないふりをして、私は修道院の中へ入った。




