第5話 雨の村と、帰り道
七日目の朝、目が覚めると雨だった。
昨日、老神官が「明日は怪しい」と言っていた通りだ。
細かい雨が、修道院の石畳を濡らしている。
行列は来ないかもしれない、と思いながら窓を開けた。
来ていた。
雨の中、傘もない人たちが門の前で待っていた。
子供を抱いた母親。
杖をついた老人。
濡れた布を頭に被せた若者。
十数人が、それでも来ていた。
急いで服を着て、庭に出た。
「中に入ってください。濡れたまま待たせるわけにはいきません」
院長が出てきて、少し困った顔をした。
「でも場所が——」
「食堂を使いましょう。朝食は終わりましたし、テーブルを端に寄せれば」
院長が頷いた。
修道女たちが素早く動いた。
三日前まで疲れ果てていた人たちが、今は顔つきが違う。
雨の日の診察は、静かだった。
屋根に雨が当たる音が、絶え間なく続いている。
その音の中で、一人ひとりに向き合った。
昼頃、見慣れない男が修道院に入ってきた。
三十代の、肩ががっちりした男性だ。
農家の服を着ているが、体の動かし方が違う。
元兵士だろうと思った。
「聖女様はどちらですか」
アンナが私を指差した。
男が近づいてきた。
「少し離れた村から来ました。カラス村といいます」
「どうされましたか」
「村全体が病気です。子供が七人、高熱で動けなくて……大人も半分以上が寝込んでいます」
聞きながら、状況を整理した。
村全体、ということは水源が汚染されている可能性が高い。
「今すぐ行けますか」
男が目を見開いた。
「来てもらえるんですか」
「子供が七人、高熱で動けないのでしょう。こちらへ来られる状態ではないはずです」
男が深く頭を下げた。
背中が丸くなった。
大きな体が、縮まるようだった。
院長に伝えると、今回は止めなかった。
ただひとつだけ言った。
「必ず、日が暮れる前に戻ってきてください」
馬車を借りて、カラス村へ向かった。
マーサと、案内役の男性——名前はゲオルクといった——の三人だ。
雨の中を走ると、一時間ほどで村が見えてきた。
村に入った瞬間、瘴気の濃さを感じた。
修道院の周辺とは比べ物にならない。
空気が重い。
土の色が黒ずんでいる。
川が流れているが、その水が濁っていた。
「川の水を飲んでいますか」
ゲオルクが頷いた。
「井戸が涸れてしまって、仕方なく——」
川の瘴気汚染。
これが原因だ。
まず川の上流から浄化しなければならない。
病人を診る前に、川へ向かった。
雨の中、岸に膝をついて水に手を入れた。
冷たい。
流れに逆らうように意識を上流へ向けていく。
瘴気の根は、川の中ほどにある岩盤の割れ目だった。
そこから少しずつ滲み出ている。
時間をかけて、丁寧に塞いでいく。
気づいたらマーサが隣にいた。
傘を差し出してくれていた。
「お嬢様、雨ですよ」
「気づきませんでした」
「私は気づいてましたよ、ずっと」
川の水が、少しずつ透明度を取り戻した。
完全ではないが、これで毒は止まった。
あとは時間が解決する。
病人の家を回った。
子供が七人、大人が十四人。
全員を診終えた時、外はもう夕方近かった。
最後の家を出たところで、ゲオルクが立っていた。
雨の中、ずっと待っていたのだろう。
頭も肩も、びしょびしょだった。
「……ありがとうございました」
低い声だった。
「娘が、昨日まで意識が薄くて……今、目を開けました」
何か返そうとした。
でもゲオルクはもう、顔を背けていた。
肩が震えていた。
雨のせいだけではないだろう。
私は何も言わなかった。
言葉は、今は要らないと思ったから。
帰り道、馬車の中でマーサが言った。
「お嬢様……今日は何人でしたか」
「カラス村で二十一人。朝の修道院で十八人」
「合計三十九人……今週だけで、百人は超えましたよね」
「そうですね」
マーサが窓の外を見た。
雨はまだ続いていた。
「王都では、お嬢様のこと地味だと言ってたのに」
「地味ですよ。今日も光ひとつ出てません」
「地味じゃないです」
マーサの声が、少し硬かった。
「光が出ないだけで、地味じゃない。私には違いがわかります」
答えなかった。
ただ、窓の雨粒を眺めた。
修道院に戻ると、院長が門のところで待っていた。
日が暮れる少し前だった。
約束通りだ。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。遅くなりました」
院長が私の顔を見て、少し眉をひそめた。
「顔色が悪い」
「雨で冷えたかもしれません。少し休めば——」
「食堂へ来なさい。アンナがシチューを作っています」
有無を言わせない口調だった。
院長にこんな顔をされると、不思議と断れない。
食堂に入ると、温かい匂いがした。
子供たちが騒がしくテーブルを囲んでいた。
ルカが私を見て、大声で呼んだ。
「お姉さん、遅い! 待ってたのに!」
「ごめんなさい、遠くへ行っていました」
「どこ?」
「カラス村というところです」
「カラス村って、すごく遠いじゃん!」
「よく知っていますね」
「ゲオルクのおじさんの村だもん。ゲオルクのおじさん、たまにここに食べ物持ってきてくれるんだ」
世間は狭い。
席につくと、アンナがすぐにシチューを持ってきた。
器が熱い。
一口飲むと、体の中から温まった。
その時、食堂の入り口に人影が現れた。
カイルだった。
雨合羽を羽織っている。
部下を二人連れていた。
院長が顔を上げた。
「カイル様、こんな時間に」
「近くを通ったついでだ。様子を見に来た」
彼の目が、食堂を見渡した。
子供たちの顔を確認するように。
それから私のところで止まった。
「カラス村へ行ったと聞いた」
「はい。ゲオルクさんに案内していただいて」
「川が汚染されていたはずだ。今年の春から気になっていたが、手が回らなくて」
「浄化しました。完全ではありませんが、源は塞いであります」
カイルが少し眉を動かした。
「川の源まで?」
「岩盤の割れ目から染み出していました。今日中に全部は難しかったので、また近いうちに行きます」
しばらく沈黙があった。
カイルが椅子を引いて、私の向かいに座った。
急なことに少し驚いた。
部下たちも、少し驚いているようだった。
「報告しろ。今週、どの村に行ってどう対処した」
「報告ですか」
「この辺境の領主として聞いている。お前が動いた場所の記録を作りたい」
それは道理だった。
私は記憶を辿りながら、一週間分を話した。
カイルは途中で口を挟まず、ただ聞いていた。
部下の一人が、手早く内容を書き留めていた。
話し終えると、カイルが言った。
「来週、東側の集落に問題が出ている。案内できるか」
「もちろんです」
「ただし——」
彼が私を見た。
「自分のことも後回しにするな。倒れたら元も子もない」
二度目だった。
同じことを二度言う人だ。
よほど気になっているのかもしれない。
「気をつけます」
「気をつけます、では信用できない。今日の夕飯は全部食べるか」
器を見た。
まだ半分残っている。
向かいのルカが、興味深そうにこちらを見ていた。
「……食べます」
「よし」
カイルが立ち上がった。
帰るのかと思ったら、アンナに何か言っている。
しばらくしてアンナが厨房から出てきて、カイルに何か渡した。
彼はそれを持って、外へ出ていった。
「何を渡したんですか?」
アンナに聞くと、彼女は少し頬を赤らめた。
「シチューをもう一人前、持って帰りたいとおっしゃって」
「……領主様がシチューを」
「美味しそうな匂いがしたって。すごく素直に言うんですよ、なんか」
マーサがまたそっと囁いた。
「ツンデレですよやっぱり」
「マーサ」
「すみません」
雨の音が、屋根を叩いていた。
ルカが隣でシチューを音を立てて飲んでいた。
院長が呆れた顔でそれを注意していた。
老神官が、窓の外の暗い畑を眺めながら何か呟いていた。
にぎやかな夜だった。
王都にいた頃の、静かで整った夜とは全然違う。
どちらが良いかなど、もう考える必要もなかった。




