第4話 行列のできる修道院
四日目に診た人数は、二十三人だった。
五日目は三十一人。
六日目、修道院の門の前に行列ができていた。
夜明け前から並んでいた人もいたらしい。
数えると、四十人を超えていた。
「エレノア様……」
院長が困った顔をしていた。
困っているのは、場所だ。
修道院の中に全員を入れる広さがない。
「庭で診ます。天気はもちそうですか?」
老神官が空を見上げた。
「今日は晴れるでしょう。ただ、明日は怪しい」
「では今日中に庭に屋根代わりになるものを張りましょう。布はありますか」
「古い天幕が倉庫に……でも穴が空いていて」
「穴は塞ぎます。アンナさん、繕える人を集めてもらえますか」
アンナが元気よく返事をして駆けていった。
私は庭に出た。
行列の先頭にいた老婆が、私を見てぱっと顔を輝かせた。
「聖女様……! 膝が痛くて歩けなくて、でも噂を聞いて、息子に連れてきてもらって——」
「よく来てくれました。座れますか?」
石段に腰を下ろしてもらい、膝に手を当てた。
長年の酷使と、瘴気の影響で関節に炎症が固まっていた。
一気に解こうとせず、ゆっくりと時間をかけてほぐす。
十五分ほどで、老婆が目を丸くした。
「……あれ、痛くない」
「しばらくは無理をしないでください。土地の瘴気が体に入りやすいので、井戸の水は必ず沸かして飲むように」
老婆が感激のあまり泣き出したので、少し慌てた。
次の人へ。
また次の人へ。
一人ひとり、丁寧に。
昼過ぎ、後ろから声がかかった。
「飯を食え」
振り返ると、カイルが立っていた。
馬ではなく、今日は歩いてきたようだ。
部下も一人だけ連れている。
手に、包みを持っていた。
「視察の途中に寄った。それより——」
彼の目が、行列を見渡した。
四十人以上が庭に並んでいる。
「昨日今日で、この人数か」
「はい。昨日は二十三人でした」
「一人でやっているのか」
「修道院の方々にも手伝っていただいています。受付と案内は院長様が、薬草の準備はアンナさんが——」
「そういう話をしている」
カイルが私を遮った。
静かだが、少し強い声だった。
「診ているのは、お前一人だろうと言っている」
答えなかった。
否定できないから。
「飯はいつ食った」
「……朝に少し」
「少し、とは」
「パンを半分と、スープを」
カイルが額に手を当てた。
こめかみを押さえるような仕草だった。
「半分。パンを半分。朝から昼過ぎまで、四十人診て」
「孤児の子たちに先に食べさせたかったので。量が充分ではないですし、成長期の子供の方が——」
「自分が倒れたら誰が診る」
その言葉は、想定していなかった。
私は少し黙った。
「……そうですね」
「そうですね、じゃない」
カイルが持っていた包みを差し出した。
開くと、焼いた肉と硬いパンが入っていた。
携行食だろう。
豪華ではないが、量はある。
「食え。今すぐ」
「でも患者が——」
「十分休憩しろ。行列は逃げない」
有無を言わせない口調だった。
私は素直に受け取った。
石段の端に座って、パンをかじる。
カイルが隣ではなく、少し離れた場所に立ってこちらを見ていた。
「辺境に来て何日だ」
「六日です」
「六日で、この規模か」
何かを考えているような間があった。
「王都では何をしていた」
「聖女候補として、式典や行事に出席していました。たまに王族の方が体調を崩された時に治療を」
「それだけか」
「貴族の方々の社交に同席することも。あとは学院で勉強を」
「なるほど」
カイルが短く言った。
何がなるほどなのかわからなかった。
「婚約破棄されたな」
唐突だった。
パンを持つ手が、少し止まった。
「……ご存知でしたか」
「辺境にも話は来る。派手な経緯だったそうだ」
「派手、というほどでは」
「式典で宣言して、拍手喝采だったと聞いたが」
私は少し苦笑した。
「そうですね。確かに派手でした」
「怒らないのか」
「怒るタイミングを逃しました。その場では何も感じなくて、馬車の中でも大して感じなくて、ここに来たら忙しくて——今更怒り方がわかりません」
カイルがこちらを見た。
何か言いかけて、やめた。
また風が吹いた。
庭の木が揺れた。
「お前は変わった女だ」
「よく言われます」
「誉めている」
そう言って彼は立ち上がった。
部下に何か指示を出す。
帰るのかと思ったが、そうではなかった。
部下が馬のところへ走り、大きな袋を二つ持ってきた。
「麦と豆だ。毛布は明日届く」
「ありがとうございます。でもこんなに早く——」
「倉庫にあったものだ。お前が倒れて患者が増える方が困る」
それだけ言って、今度こそ彼は歩いていった。
砂埃の向こうに消えていく背中を見ながら、マーサがそっと囁いた。
「……なんか、ツンデレっぽくないですか」
「マーサ」
「すみません」
午後の診察を再開した。
行列はなかなか減らなかったが、アンナが水と果物を配って回ってくれていた。
孤児の子供たちも、何人かが手伝い始めていた。
七歳の男の子——名前はルカといった——が、自分より小さな子の手を引いて案内している。
「こっちで待つんだよ、聖女のお姉さんはすごく上手だから大丈夫」
得意げに説明している姿が、少し可笑しかった。
先週まで病気で寝ていた子とは、思えない。
日が傾いてきた頃、最後の患者を診終えた。
行列がなくなった。
深く息を吐いた。
今日の疲れは、昨日より重かった。
「お嬢様、今日は早く休んでください」
マーサが珍しく強い口調で言った。
「今日は七十人近く診たんですよ? 体が心配です」
「七十二人ですね」
「数えてたんですか!」
「一人ひとりの顔を忘れないようにと思って」
マーサが泣きそうな顔になった。
「お嬢様……」
「大丈夫です。ちゃんと昼も食べましたから」
部屋に戻る途中、植えたばかりの畑の前を通った。
三日前に種を植えた場所だ。
夕暮れの光の中で、土の表面をよく見る。
細い、針のような芽が、いくつも顔を出していた。
立ち止まった。
膝をついて、そっと指で土を触った。
柔らかい、良い土の感触。
「……芽が出た」
誰に言うでもなく、呟いた。
当たり前のことだった。
良い土に、良い種を植てれば、芽は出る。
それだけのことだ。
でも——その小さな緑の突端が、夕陽に照らされているのを見ていたら、不思議と胸の奥が温かくなった。
背後で足音がした。
老神官だった。
私の隣にしゃがんで、芽を見た。
しばらく無言だった。
それから、ゆっくりと言った。
「三十年、この土地にいる。芽が出たのを見たのは、久しぶりだ」
三十年。
その間ずっと、この荒れた土地で祈り続けてきた人だ。
「来年は、もっと増やせます」
「来年もいてくれるのか」
私は少し考えた。
来年。
王都に戻る理由は、もうない。
呼ばれる理由も、ない。
「いると思います」
老神官が深く頷いた。
何か言いかけて、でも言葉にはしなかった。
ただ、芽のひとつをそっと指でなぞった。
皺だらけの大きな手が、震えるように小さな緑を触っていた。
夜、食堂でアンナが言った。
「聖女様、噂が広まっています。もっと遠くの村からも来るかもしれません」
「それは——」
「四日で五百人救ったって言われてますよ」
「それは盛りすぎです。せいぜい百五十人程度です」
アンナが笑った。
「でも聖女様なら、いつかそのくらい救っちゃいそうですよね」
私は何も言わなかった。
ただ、温かいスープを一口飲んだ。
今日は量も、昨日より多い。
カイルが持ってきた食料のおかげだ。
子供たちもお腹いっぱい食べていた。
ルカが三杯目のスープをねだって、アンナに苦笑いされている。
窓の外、星が出ていた。
今夜も、よく見える。
明日もきっと、行列ができるだろう。
明日もきっと、忙しい。
それでいいと思った。
ここに来て、初めてわかったことがある。
派手な奇跡がなくても、人は救える。
水を綺麗にして、土を戻して、熱を下げて、パンを焼く。
地味で、目立たなくて、光も出ない。
でも——それが積み重なると、人の顔が変わる。
目の色が変わる。
声の大きさが変わる。
王都の大広間で拍手をもらうより、ずっといいものだと、今の私は思っている。




